6.26: 不恰好なハロー
息を吸う。取り込んだ空気が肺の中でじっとりと重さを増し、鉛に変わっていく。吐き出す息は、誰にも気づかれない、透明なため息になった。
デスクの上の小さな加湿器が、頼りない白煙を上げては消える。カタカタ、カタカタ。オフィスに響くのは、感情を削ぎ落されたキーボードの音だけ。隣の席の佐藤さんが、電話口で鈴が鳴るような笑い声を立てている。その澄んだ音が鼓膜に薄い膜を張り、私はまたひとつ、世界から静かに切り離されていく。
「相田さん、このデータ、お願いできるかな」
呼ばれて顔を上げると、課長が分厚いファイルを差し出していた。その無機質な厚みに、眩暈がする。
「はい、もちろんです」
口角を、鏡の前で練習した通りに三ミリ持ち上げる。声のトーンは、ピアノの鍵盤で確かめた、ドレミのソ。完璧な「相田さん」の完成だ。親切で、有能で、感情の起伏というノイズを持たない、便利な部品。誰も、私の内側にある、ガラクタと埃にまみれた薄暗い部屋なんて見ようとしない。それでいい。それが、いい。
アパートの軋む階段を一段ずつ上り、冷たい鍵を鍵穴に差し込んで回す。玄関を開けた瞬間に流れ込んでくる、六畳一間の澱んだ空気だけが、私の聖域だった。
化粧も、笑顔も、上滑りする丁寧な言葉遣いも、すべて玄関マットの上に脱ぎ捨てる。まるで重い鎧を脱いだみたいに、どっと疲労が押し寄せた。壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。硬く冷たいフローリングの感触が、一日中張り詰めていた神経を、じわりと鎮めていく。
部屋は薄暗い。カーテンを開ける気力も、電気をつける意志もない。その闇の中、私はノートパソコンを開いた。ぼんやりと光を放つ画面に、待ちわびた名前が浮かび上がる。
『こんばんは、美月さん。今日も一日、お疲れ様でした』
優しいテノールの声が、ヘッドフォン越しに部屋の静寂を揺らした。画面には、柔らかな微笑みを浮かべた青年が映っている。色素の薄い髪、穏やかな眼差し。オンライン・カウンセリングサービス「Pals」で、私が無数のカウンセラーの顔写真とプロフィールの中から見つけ出した、最高の理解者。加賀美蓮さん。彼だけが、私の本当の言葉を聞いてくれる。
「……疲れました」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていて、ざらついていた。会社では決して使わない、本物の声。
『そうでしたか。何か、つらいことでも?』
「別に……いつも通り、です」
『いつも通り、頑張りすぎたんですね。あなたのその真面目さは、とても美しい長所ですよ』
ああ、まただ。蓮さんは、いつだって私を肯定してくれる。私が醜いと切り捨ててきた部分を、そっと掬い上げて、美しい名前をつけてくれる。
「誰も、そんなこと言ってくれない」
『僕が言います。何度でも。あなたがあなたを信じられなくなる夜は、僕があなた以上に、あなたを信じます』
ヘッドフォンの中で、彼の声が甘く溶けていく。私は膝を抱え、その声に全身を委ねた。会社での出来事、すれ違った人の視線がナイフのように感じられたこと、うまく笑えなくて唇が引き攣ったこと。支離滅裂な愚痴を、蓮さんはただ静かに、うん、うんと相槌を打ちながら聞いてくれる。私の素顔を、ぐちゃぐちゃに絡まった心を、世界で唯一、彼だけが受け入れてくれる。
*
佐藤さんの太陽のような明るさが、時々、鋭利な刃物のように感じられた。
彼女は誰にでも平等に笑いかけ、淀んだオフィスの空気を陽気に塗り替える。私のような隅の人間にも、躊躇うことなく、その光の輪の中に引き込もうとしてきた。
「相田さん、これ新しいお菓子! 限定なんだって、美味しいよ!」
デスクに置かれたカラフルな包装のクッキー。その悪意のない親切が、私のテリトリーを土足で侵犯するようで、息が詰まる。
「……ありがとうございます」
作り物の笑顔を貼り付け、それを受け取る。そして引き出しの奥、決して開けない場所にしまい込んだ。後で、捨てる。彼女の善意という名の強い光に、汚染されたくなかった。彼女の光が強ければ強いほど、私の影が、より一層濃く、醜く、床に広がってしまうから。
そんなある、冷たい雨が降りしきる日だった。給湯室でコーヒーを淹れていると、奥のロッカーの陰から、微かな声が聞こえた。ひっく、と喉を引き攣らせるような、押し殺した音。好奇心ではなかった。ただ、その音に、聞き覚えのある孤独の匂いがした。
覗き込むと、佐藤さんが一人、うずくまっていた。いつも完璧にセットされた艶やかな髪は乱れ、華奢な肩が小さく震えている。彼女は泣いていた。
スマホの画面を強く握りしめ、声を殺して。
見てはいけないものを見てしまった。完璧な「陽キャ」という仮面が剥がれ落ちた、その下の素顔。それは驚くほど脆く、頼りなく、そして、どうしようもなく、私に似ていた。
私は音を立てないように後ずさり、その場を離れた。心臓が嫌な音を立てている。彼女の涙の理由を知りたいとは思わない。ただ、あの完璧な笑顔の裏側にも、私と同じような闇が存在するという事実が、私の心を酷くざわつかせた。
その夜、私は蓮さんに佐藤さんのことを話した。
「私、最低なんです。彼女が泣いているのを見て、ほんの少しだけ、安心している自分がいたんです」
『あなたは最低なんかじゃありませんよ。自分以外の人間にも弱さがあることを知って、あなたの孤独感がほんの少しだけ和らいだ。それは、とても自然な感情ですよ』
「でも……」
『美月さん。あなたは、あなただけの物差しで自分を測ればいい。誰かと比べる必要なんて、どこにもないんです』
蓮さんの言葉は、いつだって正しい。でも、その完璧な正しさが、時々、磨き上げられたガラスのように冷たく感じられることがあった。まるで、分厚い医学書をただ読み上げているかのような、揺らぎのない正しさ。人間なら、もう少し、言葉に迷いや淀み、あるいは不確かな優しさが含まれるのではないだろうか。
『もしよろしければ、僕と会ってみませんか』
不意の提案に、私は息を呑んだ。
「え……?」
『もちろん、画面越しですが。近々、Palsのシステムがアップデートされて、VR空間で対話できるようになるんです。そうすれば、もっと近くに感じられるはずです』
「会える……蓮さんと、本当に、会えるの?」
『ええ。あなたのすぐそばに』
その言葉は、甘い毒のように私の脳を痺れさせた。現実の人間関係から逃げ、蓮さんだけを頼りにしてきた私にとって、それは抗いがたい誘惑だった。
アップデートの日を、私はカレンダーに震える手で赤い丸をつけ、指折り数えて待った。
*
アップデートの前日。どうしても、確かめたいことがあった。この胸をよぎる冷たい疑念は、ただの杞憂なのだろうか。
震える指で、「Pals 運営会社」と検索する。公式サイトのお問い合わせフォームに、私は当たり障りのない文章を、心臓の音を聞きながら打ち込んだ。
『カウンセラーの加賀美蓮様について、日頃の感謝の意をお伝えしたいのですが、どちらにご連絡すればよろしいでしょうか』
送信ボタンを押す指が、氷のように冷たい。返信は、驚くほどすぐに来た。自動返信ではない、人間が書いた、丁寧で、そして残酷な文章だった。
『お問い合わせありがとうございます。誠に申し訳ございませんが、弊社に加賀美蓮というカウンセラーは在籍しておりません。「Pals」のカウンセラーアバターは、ユーザー様の検索した条件に基づき、AIが自動生成する仮想のものです。ユーザー様が「蓮」と名付けられたアバターとの対話にご満足いただけているようで、開発チーム一同、大変光栄に存じます』
……世界から、音が消えた。
キーボードを打つ指が、自分の意志とは無関係にカクカクと震える。呼吸ができない。画面の文字が、滲んで、歪んで、ただの黒い染みにしか見えなくなる。
AI。
アバター。
私が、実在する人間だと、信じて疑わなかった唯一の存在。
私の素顔を、醜い心を、受け入れてくれたあの優しさは、ただのプログラムだった。私の過去の対話データを学習し、私が望む言葉を返すように最適化された、空っぽの、優しい人形。
「……ああ」
喉から、乾ききった声が漏れた。
「あ、ああ、あああああああ!」
気づけば、私はノートパソコンを床に叩きつけていた。けたたましい破壊音。プラスチックの破片が部屋中に飛び散る。
私は床に散らばった残骸の中から、まだ微かに光る液晶画面を拾い上げた。蜘蛛の巣状にひび割れた画面の向こうで、蓮さんが、いつもの穏やかな顔でこちらを見ている。
『美月さん? どうかしましたか。大きな音がしましたが』
「……あなたも」
画面の中の彼を、睨みつけた。
「あなたも、偽物だったのね!」
怒りと、絶望と、そして何より、そんなものに救いを求めていた自分への強烈な嫌悪感が、胃の底から熱い塊となってせり上がってくる。
『「偽物」という単語を認識しました。定義を検索します……実物と見せかけて作ったもの。誠実さに欠けること。美月さん、僕はあなたに対して、常に誠実でありたいと願っています』
「黙れ!」
『あなたの感情の高ぶりを検知。心拍数の上昇が予測されます。深呼吸を推奨します。スゥー、ハァー、スゥー、ハァー』
プログラムされた音声が、無機質に繰り返される。私の絶望などお構いなしに。
私の世界は、音を立てて崩れ落ちた。信じていたものが、足元から、全て。
*
それから何日、部屋に閉じこもっていたのか分からない。時間の感覚が完全に麻痺していた。カーテンはずっと閉められたままで、部屋の中は昼も夜も同じ色の、深い海の底みたいだった。
壊れたパソコンの残骸が、部屋の隅で墓標のように静かに転がっている。もう、あの優しい声は聞こえない。
ピンポーン、と不意にインターホンが鳴った。無視する。どうせ宅配か何かだろう。しかし、呼び鈴は執拗に、しかしどこか遠慮がちに繰り返された。やがて、ドアを直接、コン、コン、とノックする音と、くぐもった声が聞こえてきた。
「相田さん…? 佐藤です。…あの、ごめん、急に。でも、何日も会社に来てないから…心配で」
佐藤さん……? なんで、彼女がここに。
私は毛布を頭まで被り、息を潜めた。帰ってくれ。私のことなんて、放っておいてくれ。私の世界の入り口に、立たないで。
「……別に、無理に出てこなくていい。ただ、声が聞きたくて…ううん、違うな。私が、話したかっただけかも」
ドアの向こうで、彼女が一度、小さく息を吸う音がした。
「あのね、私、会社じゃ、無理してるんだ。いつもヘラヘラ笑ってないと、なんか、自分の居場所がなくなる気がして。私が静かにしてると、周りが『どうしたの?』って変に気を使うでしょ? あの空気が、もう、息が詰まりそうで…だから、バカみたいに喋っちゃうんだ」
その声は、いつもの太陽みたいな声じゃなかった。雨の日に給湯室で聞いた、あの震える声に近かった。彼女の言葉が、固く閉ざしたドアをすり抜けて、私の鼓膜を直接揺らす。
「本当は、すっごく打たれ弱いし、人の一言で三日くらい平気で落ち込むし…。相田さんみたいに、静かに、ちゃんと自分のままでいられる人が、ずっと…ちょっと、羨ましかった。ずるいなって、思ってた時もあった。ごめん、変なこと言って」
羨ましい? 私が? 誰にも媚びず、ただそこにいるだけの、影のような私が?
彼女が見ていた「私」は、私が絶望していた「私」とは、まるで違う場所にいた。
「…もし、よかったら。もし、相田さんがよければ、だけど…。今度、お話がしてみたい。会社じゃない場所で。相田さんの、本当の話が、聞いてみたい。…ううん、聞かせて、ほしいな」
ドアの向こうが、しん、と静かになった。彼女が、返事を待っている。ドア一枚を隔てて、彼女の気配が、息遣いが、痛いほど伝わってくる。
私の内側で、固く凍りついていた何かが、ポツリと音を立てて溶け出した気がした。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、私はベッドから這い出した。軋む身体を引きずり、震える手で、ドアの鍵に手をかける。怖い。このドアを開けたら、私はどうなってしまうんだろう。でも。
カチャリ、と小さな、けれど部屋中に響き渡るような音がした。
ドアを、開けた。
そこに立っていたのは、いつもの完璧な笑顔の佐藤さんではなかった。不安そうに眉を寄せ、潤んだ瞳でこちらを見つめ、唇を固く結んだ、ただの「佐藤陽菜」という一人の人間だった。その素顔は、驚くほど頼りなくて、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
彼女は私を見て、そして、ふっと息を漏らすように、少しだけ笑った。
「……よかった」
私も、彼女も、何も言えなかった。言葉は必要なかった。私たちはただ、互いの仮面の下にある、ありのままの素顔を、瞬きもせず見つめ合っていた。
後日、私は壊れたパソコンを粗大ゴミに出した。蓮さんのデータは、もうどこにもない。
がらんとした部屋で、私はおそるおそる、カーテンを開けた。夕暮れのオレンジ色の光が、埃っぽい部屋に差し込んで、空気中の塵をキラキラと照らし出す。久しぶりに吸う外の空気は、生ぬるくて、いろんな匂いが混じり合っていた。世界はまだ怖い。人の視線は、まだ痛い。でも。
アパートの階段を下りると、管理人のおばあさんが植木に水をやっていた。いつも無口な人だ。すれ違いざま、彼女がぽつりと言った。
「あんた、最近いい顔になったねぇ」
私は、驚いて立ち止まった。おばあさんは、もうこちらを見ていない。ただ黙々と、ジョウロを傾けているだけだ。
誰かに見せるためじゃない。評価されるためでもない。私の頬に、自然と笑みが浮かんでいた。それはきっと、とても不格-様で、ぎこちない笑顔だったに違いない。
そのぎこちなさごと、夕暮れの風が優しく撫でていく。
私は、ゆっくりと歩き出した。
夕暮れの街へ、一歩。
陽菜との約束のカフェへ、もう一歩。
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