第3話 仮面のひび割れ
あの日、一ノ瀬陽くんの心の奥底から漏れ出した、深い藍色の光。
あの光景が、私のすべてを変えてしまった。
もう、ただ遠くから観察しているだけでは、いられなかった。彼のことを、もっと知りたい。あの悲しみの理由を知って、もしできることなら、彼の力になりたい。
そんな、おこがましいと分かっている気持ちが、臆病な私を突き動かした。
でも、どうすればいい?
いきなり「あなたの悲しみの色が見えました」なんて言えるはずもない。
悩んだ末に、私が思いついたのは、とても単純なことだった。
あの日、彼が見つめていた、あの古いクマのキーホルダー。あれが、きっと彼の秘密の鍵だ。
まずは、そのことについて、彼に直接聞いてみよう。
そう決心したものの、いざとなるとなかなか勇気が出ない。クラスの隅っこで息を潜めて生きてきた私が、学園の王子様である陽くんに話しかけるなんて、ハードルが高すぎる。
私の周りでは、不安を示す灰色のオーラが、もやもやと渦巻いていた。
チャンスが訪れたのは、数日後の放課後だった。
私は図書委員の仕事で、一人、誰もいない図書室で本の整理をしていた。静かな空間に、紙の匂いと、窓から差し込む西日だけが満ちている。
その時、不意に、図書室のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは、陽くんだった。
心臓が、喉から飛び出しそうなくらい、大きく跳ねた。
彼は私に気づくと、少し驚いたように目を見開いた。
「あ……星野さん。当番、お疲れ様」
「い、一ノ瀬くん……。どうしたの? 本、借りに来たの?」
声が震えるのを、必死で抑える。
「うん、まあね。調べたいことがあって」
彼はそう言うと、静かに室内に入ってきた。いつものように、彼の周りは色がない。でも、今の私には、そのモノクロの奥に隠された藍色が見えるような気がした。
今しかない。
今、ここで話しかけなければ、きっともう二度とチャンスはない。
私は、カウンターの椅子から、震える足で立ち上がった。
「あ、あのっ!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
陽くんが、不思議そうな顔で私を振り返る。
「……なに?」
「こ、この間……中庭で、見かけたから……」
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「その……クマの、キーホルダー。すごく、大事にしてるんだなって……思って」
言った。
言ってしまった。
彼のプライベートに、土足で踏み込むような言葉。
瞬間。
陽くんの周りの空気が、凍りついた。
彼の顔から、あの完璧な、穏やかな笑顔が、すっと消え失せる。
そして、次の瞬間。
私は、息を呑むような光景を目の当たりにした。
――ザァッ!
彼の、あの静かだったモノクロのオーラが、内側から、激しく破られた。
溢れ出したのは、藍色じゃない。
燃えるような、激しい、激しい、緋色だった。
怒り。拒絶。痛み。
そういった感情がごちゃ混ぜになった、暴力的なまでの赤い色が、嵐のように彼の全身から噴き出したのだ。
それは、私が今まで見たどんな「怒り」の色とも違っていた。ただ赤いだけじゃない。まるで、傷口から流れる血のような、生々しくて、痛々しい色だった。
その色の嵐は、声なき叫びとなって、私に襲いかかってくるようだった。
「……君には、関係ないだろ」
彼の口から発せられたのは、氷のように冷たい声だった。
私が知っている、穏やかな一ノ瀬陽くんの声じゃない。
「な、んで……君が、そんなこと……」
彼は、何かを言いかけて、ぐっと唇を噛み締めた。その瞳は、傷ついた獣のように、鋭く私を睨みつけていた。
その緋色のオーラは、物理的な力はないはずなのに、私の胸を強く圧迫する。怖い。息ができない。
「……ご、ごめんなさい」
私は、かろうじてそれだけを絞り出した。
彼は、そんな私を一瞥すると、何も言わずに踵を返し、嵐のような緋色のオーラをまとったまま、図書室から出て行ってしまった。
一人残された図書室に、静寂が戻る。
でも、私の耳の奥では、まだ彼の冷たい声と、あの緋色の嵐が荒れ狂っていた。
やってしまった。
彼の心の、一番触れてはいけない部分に、触れてしまったんだ。
後悔と自己嫌悪で、涙が滲んできた。私の周りはきっと、惨めな濃い灰色に染まっているだろう。
でも、それと同時に、私は確信していた。
あの緋色の嵐は、彼の本物の感情だ。
仮面の下に隠された、彼の本当の心の叫びだ。
私は、彼の本当の姿の、ほんの欠片に、触れることができたんだ。
傷つけてしまったことは、本当に申し訳ない。でも、私は、もっと彼のことを知りたいと、強く、強く思った。
次の日、学校へ行く足は、鉛のように重かった。
陽くんに、どんな顔で会えばいいんだろう。きっと、もう口も利いてもらえない。軽蔑されているに違いない。
教室に入ると、陽くんはもう席に座っていた。彼は、いつも通り、友達と穏やかに話している。その周りは、また、あの何もないモノクロに戻っていた。
昨日の、あの緋色の嵐が、まるで嘘だったかのように。
彼は、私の方を一瞬だけ見た。でも、すぐに視線を逸らされてしまう。
やっぱり、嫌われたんだ。
胸が、ちくりと痛んだ。
その日は一日中、気まずい空気が私たちの間に流れていた。
そして、放課後。事件は起きた。
私が教室で帰る支度をしていると、クラスの女子数人が、私の机を取り囲んだ。中心にいるのは、佐藤沙耶香さんだった。
彼女のオーラは、いつもみたいな快活なマゼンタピンクではなく、苛立ちを示す、少し濁った赤紫色をしていた。
「ねえ、星野さん」
沙耶香さんが、腕を組んで私を見下ろす。
「あんたさ、最近、やけに一ノ瀬くんに馴れ馴れしくない?」
「え……?」
「昨日も、放課後、図書室で二人きりだったって聞いたけど? 何話してたの?」
周りの女子たちからも、嫉妬深い深緑色のオーラが、ちりちりと立ち上る。
「な、何も……。ただ、偶然会っただけで……」
「ふぅん? 地味なくせに、色目使ってんじゃないの?」
意地の悪い言葉が、私に突き刺さる。怖い。どうしよう。私の周りは、恐怖を表す薄汚れた茶色に染まっていく。
私が何も言い返せずに俯いていると、沙耶香さんはさらに一歩、私に近づいた。
「いい? 一ノ瀬くんは、あんたみたいなのとは釣り合わないんだから。勘違いしないでよね」
そう言われた、瞬間だった。
「――それは、違うんじゃないかな」
凛、とした声が、教室に響いた。
全員が、声のした方を、はっと振り返る。
そこに立っていたのは、帰ったはずの、一ノ瀬陽くんだった。
彼は、静かに、でも真っ直ぐな足取りで、こちらに歩いてくる。
そして、私の前に立つと、沙耶香さんたちに向き直った。
「佐藤さん。俺が誰と話そうと、俺の自由だ。君に、星野さんを責める権利はないと思うけど」
その声は、いつものように穏やかだった。でも、その中には、決して揺らぐことのない、強い意志が込められていた。
沙耶香さんたちは、彼のその気迫に押されて、たじろいでいる。
「で、でも……!」
「それに、勘違いしてるのは君の方かもしれないよ」
陽くんは、静かに続けた。
「星野さんは、俺にとって……大事な友達だから」
友達、という言葉に、沙耶香さんたちの顔色が変わる。そして、私の心臓も、大きく、大きく跳ねた。
陽くんは、私を庇ってくれている。
昨日、あんなに怒らせてしまったのに。
沙耶香さんたちは、悔しそうに顔を見合わせると、「……行こ」とだけ言って、バタバタと教室から出て行った。
嵐が去った教室に、また、私と陽くんの二人だけが残された。
気まずい沈黙が流れる。
私は、俯いたまま、お礼を言おうと口を開いた。
「あ、あの……」
「……ごめん」
先に、言葉を発したのは、陽くんの方だった。
「え?」
顔を上げると、彼は、申し訳なさそうな顔で私を見ていた。
「昨日のこと。……酷いこと言って、ごめん。八つ当たりだった」
「う、ううん! 私の方こそ、ごめんなさい! 勝手に、変なこと聞いて……」
「……いいんだ」
彼は、ふっと、力なく笑った。
その時だった。
私は、見た。
彼の、モノクロだった胸の中心に。
ぽつん、と。
本当に、小さな、小さな点だったけれど。
今まで見たことのない、新しい色が、灯ったのを。
それは、雨上がりの空みたいな、澄んだ、優しい青緑色だった。
感謝、だろうか。それとも、少しの、謝罪の気持ち?
分からない。
でも、それは間違いなく、彼の心から生まれた、本物の色だった。
彼は、私に背を向けて、教室の出口に向かう。
「じゃあ、また明日」
そう言って、彼は去っていった。
私は、その背中を、ただ、呆然と見送ることしかできなかった。
胸の奥が、じんわりと温かい。
私の周りのオーラはきっと、今、希望に満ちた、輝くような金色に変わっているだろう。
モノクロの王子様の世界に、私が、ほんの少しだけ、色を灯すことができた。
その事実が、嬉しくて、誇らしくて、私の心を、今まで感じたことのない、甘酸っぱい気持ちで満たしていく。
彼と私の物語は、まだ、始まったばかりだ。
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