第2話 モノクロ王子の秘密

あの日、一ノ瀬陽くんと至近距離で話してから、私の日常は少しだけ変わった。

いや、日常そのものは何も変わらない。相変わらず私は教室の隅で気配を消しているし、朱里とクレープを食べに行く。でも、私の意識だけが、完全に陽くんにロックオンされてしまっていた。

まるで、自由研究のテーマを見つけた科学者みたいに、私は彼の「観察」を始めたのだ。

もちろん、ストーカーみたいに後をつけたりはしない。ただ、学校にいる間、視界の端で、彼の様子をそっと窺うだけだ。

授業中、先生に指されて、淀みなくスラスラと答えを口にする陽くん。クラスメイトからは感嘆のため息と、尊敬の青色が漏れる。でも、彼は無色。

体育の時間、バスケットボールの試合で、華麗なドリブルからシュートを決める陽くん。チームメイトたちが喜びの金色を爆発させる。でも、彼は無色。

昼休み、机の周りに集まってきた男女のグループと、楽しそうに談笑する陽くん。周りは色とりどりの好意的なオーラで溢れている。でも、やっぱり彼は、無色。

観察すればするほど、彼の異常さが際立って見えた。

彼は、いつだって完璧に「周りが期待する一ノ瀬陽」を演じている。優しい言葉、穏やかな笑顔、スマートな振る舞い。でも、そのすべてが、感情の伴わない、ハリボテのように感じられた。

まるで、彼の心は分厚い壁に覆われていて、どんな出来事も、どんな感情も、その壁を通り抜けることができないみたいだった。

「ねえ、瑞希。最近、本当に一ノ瀬くんのことばっかり見てるね」

昼休み、お弁当を食べながら朱里が呆れたように言った。彼女のオーラは、心配そうな水色が混じったオレンジ色だ。

「……そんなことないよ」

「あるって。もう、穴が開くんじゃないかってくらい見てるよ。そんなに好きなら、話しかければいいのに」

「だから、好きとかじゃなくて……」

「じゃあ、何なのさ」

私は口ごもった。

「……不思議、なんだよ」

「不思議?」

「うん。一ノ瀬くんって、完璧すぎると思わない? いつも笑ってて、怒ったり、悲しんだりしてるところ、誰も見たことないんじゃないかなって」

私の言葉に、朱里はきょとんとした顔で、陽くんの方に視線を向けた。彼はちょうど、女子生徒に数学を教えているところだった。

「うーん……まあ、確かに? でも、それは一ノ瀬くんが、心が広くて優しいってことでしょ? いいことじゃん」

「そう、なのかな……」

朱里には、私の感じている違和感は分からないだろう。彼女には「色」が見えないのだから。

私だけが知っている、彼の秘密。

その秘密の正体を突き止めたい、という気持ちは、日増しに強くなっていった。


そんなある日のことだった。

その日、私は日直の仕事で、放課後、一人で教室に残っていた。日誌を書いて、黒板を綺麗にして、戸締りをする。簡単な仕事だ。

がらんとした教室は静かで、夕日が差し込んで床に長い影を作っていた。

「よし、終わり」

日誌を職員室に届けようと、私が教室のドアに手をかけた、その時。

ふと、視界の隅に、見慣れた人影を捉えた。

中庭に面した窓の外。用務員さんが手入れしている花壇の前に、陽くんが一人で立っていた。

心臓が、どきりと跳ねる。

彼は部活にも入っていないし、いつもは放課後すぐに帰ってしまうはずだ。こんな時間に、一人で何をしているんだろう。

好奇心に負けて、私はそっと窓に近づき、彼の様子を窺った。

陽くんは、ただじっと、花壇に咲いている一輪の赤い花を見つめていた。その表情は、いつもみたいに完璧な笑顔ではなく、どこか遠くを見ているような、虚ろな顔だった。

そして、彼はゆっくりとポケットに手を入れると、何かを取り出した。

それは、古びたキーホルダーのようだった。日に焼けて色褪せた、小さなクマのマスコットがついている。彼が持っている他の、洗練された持ち物とは、あまりにも不釣り合いな、子供っぽいデザインだった。

彼はそのキーホルダーを、まるで宝物みたいに、そっと手のひらで包み込む。

その瞬間だった。

私は、信じられないものを、見た。


――ちか、


彼の、あの何もなかったはずの、空っぽだったはずのオーラから。

ほんの一瞬、ほんの僅か。

針で刺したような、小さな、小さな光が漏れ出したのだ。

それは、深くて、痛々しいほどの、藍色だった。

悲しみ。後悔。喪失。

そういった、胸が締め付けられるような感情が凝縮された、濃紺のインクみたいな色。

それはすぐに、本当に瞬きする間に、すっと消えてしまった。彼の周りはまた、元の、何もないモノクロの世界に戻る。

でも、私は確かに見た。

あの色の奔流を。

彼の心の壁に空いた、ほんの小さな亀裂から溢れ出した、本物の感情を。

私は、息を呑んだまま、その場に凍りついてしまった。

彼は、感情がないわけじゃなかったんだ。

アンドロイドなんかじゃなかった。

あのモノクロの奥底に、あんなにも深い悲しみを、たった一人で、隠し持っていたんだ。

どうして? 何があったの?

知りたい。

知らなくてはいけない。

そんな強い衝動が、私の胸を突き上げた。


その出来事があってから、私の陽くんに対する見方は、完全に変わってしまった。

今までは、ただの「不思議な観察対象」だった。でも今は違う。

あの藍色の光景が、頭から離れない。

彼の完璧な笑顔を見るたびに、あの笑顔の裏で、どれだけの悲しみを押し殺しているんだろうと、胸が痛んだ。

そして、彼の周りに新しい「ライバル」らしき存在が現れたことで、私の心はさらにざわめくことになる。

二組の、クラスでも目立つグループにいる、佐藤沙耶香(さとう さやか)さん。モデルみたいにスタイルが良くて、いつも友達に囲まれている、快活な女の子だ。彼女のオーラは、自信に満ちた鮮やかなマゼンタピンク色をしている。

その沙耶香さんが、最近、積極的に陽くんにアプローチをかけているのは、周知の事実だった。

「一ノ瀬くーん! 今度の日曜日、新しくできたカフェ、一緒に行かない?」

廊下で、沙耶香さんが陽くんを呼び止めている場面に出くわした。彼女の周りには、期待に満ちたピンク色のオーラがきらきらと輝いている。周りの友達も、囃し立てるように楽しげな黄色のオーラを放っていた。

陽くんは、いつものように、完璧な笑顔を浮かべていた。

「ごめん、佐藤さん。日曜はちょっと家の用事があって」

「そっかー、残念。じゃあ、また今度誘うね!」

沙耶香さんはあっけらかんと笑って、友達の元へ戻っていく。

傍から見れば、それは学園の王子様と、人気者の美少女の、絵になる一場面だった。

でも、私には違うものが見えていた。

沙耶香さんの、あの鮮やかで、まっすぐな好意の色が、陽くんのモノクロの壁にぶつかって、何の反応も得られずに、虚しく霧散していくのが見えた。

陽くんは、彼女の好意を受け取っていない。いや、受け取れないんだ。

その光景を見て、私は奇妙な感情に襲われた。

沙耶香さんが、少しだけ可哀想だと思った。と同時に、陽くんの秘密を知っているのは私だけだ、という、仄暗い優越感のようなものが、胸の奥で芽生えるのを感じた。

こんな気持ち、最低だ。

分かっているのに、私は陽くんから、ますます目が離せなくなっていた。

あの藍色の悲しみの正体は、何?

そして、あの色褪せたクマのキーホルダーは、一体……?

彼の秘密に触れたい。彼の心に、近づきたい。

その思いは、もはや単なる好奇心ではなく、私の中で、無視できないほど大きなものへと変わっていった。

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