第2回 落日の約束について

 ついに蝉が鳴きだした。気持ち的には5月ごろの気持ちだったが、暦は早くも7月である。月日の経つのが早く怖くて怖くて仕方がない。怖がれば怖がるほど、時間の経つのが早くなる。1人饅頭怖いがここに生まれる。ではお金が怖いと思えばお金が入るのかと

「お金怖い、お金怖い、お金怖い」

 と日夜、念仏のように唱えてみても、恐ろしいことにどんどん出費は増えていく。

「うぅ~怖いっ、帰ってくれ~」

 と稲川淳二氏のように心の中で唱えてみるが、お金は出て行ったきり、財布にも口座にも帰ってこない。

 

 

 落日の約束は高校時代に書いたものだ。十ノ物語のあとがきにも書いたが、この頃に私は司書のA先生と出会う。この出会いで私の人生は狂った。なにせ当時、自宅にあった遠藤周作の小説。エッセイを読み漁り、何か書くことの魅力に目覚めつつあった私には、A先生との出会いはまさに「書く」ということに対して、背中を押してくれる最も危険な存在だったのだ。

 当時、私は日本史上に残る最大級の事件の一つを知り、衝撃を覚えた時期であった。それは

「三毛別羆事件」

 である。ご存知ない方もいらっしゃるかもしれないが、これは日本最大の獣害事件である。詳しい内容は割愛するが、気になる人はウィキペディアをご覧になるか、もしくはこの事件をモデルにしている吉村昭氏の「羆嵐」という小説をご覧になれば良いと思う。私は当時、書道の授業で自習と言われたので、ひたすら「羆嵐」を読んでいた記憶がある。

 三毛別羆事件、端的に言うと

「北海道の苫前郡苫前村字三家別(現在の苫前町三渓)で冬眠に失敗したエゾヒグマが7名の人を殺め、3人に重傷を負わせた。」

 というものだ。このヒグマがとにかく恐ろしい。まず、かのヒグマ(通称、袈裟懸け)は最初に女性を襲うのだが、それ以来、袈裟懸けは人間の女性の味を覚え、ひたすらに人間の女性を喰らおうとする。当時湯たんぽ代わりにしていた、温めた石に女の匂いが残っているからと、執拗にその石を噛み砕くほどの執着を見せる。討伐隊の裏をかいて、避難所を襲い蹂躙する。

 袈裟懸けは人の想定をとにかく超えて、自然や野生の恐ろしさを文章を通り越して、読者に叩きつけてくる。

 こんな化け物、どうやって倒すのだと思っていると、ここに山本平吉氏(通称、サバサキの兄。若い頃にヒグマを鯖裂き包丁で刺し殺したというエピソードに因む。)というとんでもない人物が現れて、袈裟懸けを撃ち殺す。

 ここまでまるで物語のようであるが、全て実話である。こんな今となっては物語のような現実離れした話が当時は本当にあった。

 10代の私はこの事件に衝撃を受けて、本州にはいないヒグマのことがたまらなく恐ろしくなった。夢の中で家の戸をぶち破って何度かヒグマに襲撃されたことがあるほどだ。

 

 

 さて、肝心の「落日の約束」。実はこの「三毛別羆事件」が下敷きになっている。当時、どうしてもこの衝撃を形にしたいと思ったが、小説では吉村昭氏の「羆嵐」が、ノンフィクションでは木村盛武氏の「慟哭の谷」が聳え立っている。おまけに10代の私は人生経験の乏しいひよっこと来ている。

 そこで当時の私は考えた。それならユーモアと皮肉で塗りつぶせばいい。

 落日の約束のプロトタイプが完成したのは高校時代だ。そこには山本平吉氏も袈裟懸けもいない。いるのは自称マタギの密猟者の大友氏と、間抜けだが無垢な鬼熊だけである。もう、三毛別羆事件の名残は吹き飛んでしまったが、それでもいいのかも知れない。プロトタイプから今の形に近付いたのは大学時代のことだ。

 あの頃は酒を飲むことばかり考えていた。嬉しければ飲み、悲しけれな飲み、飲むことばかり考えていた。飲めば飲むほど芸が上達すると思っていた。

 酒はある種の禁断の果実に近しいものがあるかも知れない。一度飲めばそこから逃げることは難しいことが多い。今はあまり飲まない部類になったが、それでもたまに飲むと気分が高揚する。

 しかし、個人的に酒を飲んでもあまり良いアイデアは浮かばない気がする。と言うより、飲んだときにでたアイデアを酔いが覚めるまで覚えていられないことが多い。

 こればかりはどうしようもない。納豆を食べた方がまだ頭が回る気がする。

 

 

 もはや鬼熊すらどこかへ行ってしまうほど関係のない話をしていた。

 大友氏みたいな人はたくさんいるし、鬼熊みたいな人もちょくちょくいる。どちらが良いとは言えないし、思っても言うつもりもない。

 現代の世の中に袈裟懸けはいないし、山本平吉氏の出番もない。ない方が平和なのかも知れない。正直なところ、三家別羆事件はメジャーな事件ではないだろう。だから時々、こんなことがあったと語るのは悪いことではないと思う。

 自然との距離、人間の考えの浅はかさと時折出る深さ、そういったことを改めて考えてみても良いのではないだろうか。

 無垢な鬼熊と、熊より恐ろしい人間を想像の羽に乗せて。

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ハンブラビ法典 〜十ノ物語について〜 辻岡しんぺい @shinpei-tsujioka06

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