ハンブラビ法典 〜十ノ物語について〜
辻岡しんぺい
第1回 新三と大魚について
ハンブラビ法典という随分とふざけたような態度のタイトルであるが、これでも私なりに真面目に名付けたつもりだ。
ハンブラビとはZガンダムに登場する知る人ぞ知るモビルスーツである。ティターンズという選民思想の強い団体(主人公に対する敵役の組織である。)の構成員の一員である、ヤザン・ゲーブルという男が搭乗する訳であるが、これがなかなかの曲者なのである。戦闘狂、それも重度の。しかし、部下への面倒見が良かったり、大量虐殺などの倫理に反した行為に対して不参加を表明するなど、所々に理性の欠片が見え隠れする。あたかもスポーツのような感覚で彼は戦闘に参加する。そして主人公の所属するエゥーゴという組織の構成員たちを次々に削っていく。
まさに彼の乗るハンブラビは倫理の輪の破壊者なのである。
ここでいう倫理の輪とは、「人間が社会の中でよりよく生きるために発明した、法律、決まりごと、約束の総称」である。
そして法典は倫理の輪、そのもの。そこにハンムラビ法典のもじりを加えて完成したのが
「ハンブラビ法典」である。ただ、それだけだと何の話なのか全くもって分からないため、申し訳程度に「十ノ物語について」と添えた。中華料理の隅っこに座っているパクチーみたいなものだ。
つまり、「ハンブラビ法典 〜.十ノ物語について〜」は倫理の輪とその破壊者、異物の象徴を並べたものであり、ちょっと自分なりに理屈っぽい話をするよ、ちょっとユーモラスに話すよ、という意味だ。そこに囁き声で「これ十ノ物語についての話やからね」とスーパーの刺身コーナーのすみっこにくらしている、ご自由にお取りくださいと書かれた、山葵のちっちゃいパックのように謙虚に添えた。
そもそも本作を書こうと思ったのは、友人とふと十ノ物語の裏設定を話していたら、
「お前、そういうのは書けよ。」
と言われたのだが、如何せん本編でベラベラと語るのは性に合わないため、こういった形で話そうと思った。友人に
「前言ってた内容をエッセー形式でやるわ。名前はハンブラビ法典な。」
と伝えると、友人は何も言わずに冷めたコーヒーを飲み干した。
つまり私はこの作品を「十ノ物語・拡張パック」のようなつもりで書く。
これから十ノ物語を読んでくださる方には、本編を読んでいただく楽しみを増やせるように、すでに読んで下さった方には、新しい発見、視点、楽しみ方を見つけていただけるように、そう思って「第一話 新三と大魚」から「第十話 竜の池のこと」まで一編一編語るつもりだ。
お察しの通り全十回である。ほぼあとがきのような物だから、あとがきは書かないので、完全に全十話である。そう言っても、最後まで描いてみると、気が変わってあとがきを書いてしまうかもしれない。また、残念ながら私は気が変わりやすい。
「こいつはあとがきを書くのだろうか?」
「あとがきのあとがきを書くような度胸、こいつにはあるのか?」
「まあ、書かないと書いているのだから、書かないだろう。」
「書くなよ、絶対書くなよ。絶対書くなよ。」
と思いながら最後の一回までお付き合いをお願いいたします。
自分で言うのもなんだが、私は話が長いのかもしれない。本作を書きながらふと思った。先程までの文、全て前書きなのである。
つまりまだ本編には片足も突っ込んでいない。勘の良い読者さまならご存知だと思うが、今回のタイトル「新三と大魚について」の「新三と大魚」についてまだ一文字も触れていない。今やっと、今回の題材について触れたくらいだ。このままだと文字数的に「ハンブラビ法典」なのか「六法全書」なのか区別がつかなくなるため、そろそろ本編に入る。
ここまで書いていて何だが、私は普段は自作については寡黙を通している。だから今日も寡黙に「喋り倒そう」と思う。
「新三と大魚」は元々私が高校時代に書いたものだ。この頃に新三と大魚のプロトタイプを二篇書いていて、それを大学時代にドッキングしたのが、本作の始まりだ。
高校時代の私は文学青年だった。当時読んだ、カフカの「変身」に感化され、「罪を犯した男がある日、突然鱶になる」という話を書いた。
獣の本能と、人としてのわずかな理性のせめぎ合い。血の匂いに引かれて少年に噛みつきながらも、途中で我に返り、少年を浜に戻してやる。そして最期は「何も食べない」と決め、静かに深海へ沈んでいく――そんな話だった。
これを新三と大魚のプロトタイプである。今見ると、大魚、という投げやりなタイトルだった。これを鱶があまり語らない新三と大魚の原型と合体させると「十ノ物語・第一話 新三と大魚」になるわけだ。
これを大学時代にホラー漫画家の日野日出志先生にお見せする機会があったため、読んでいただいた。
「良いんだけど、方言が気になるなぁ」
と助言をくださった。なので当時私が気に入っていた方言風の言い回しは控えるようにしている。当時は良いと思ってそうしていたが、今になって見ると、確かに違和感がある。修正前のバーションは基本的に全てそのまま保存してあって、機会があると見返すようにしている。時折、何かのヒントが見つかったりすることがあるからだ。
大学時代、日野先生を囲む会のようなものがあって、漫画は勿論、デザインや、文学の修行中だった若者たちに混じって、当時舞台に全神経を注いでいた私が末席を汚していた。あの頃は随分と楽しかった記憶がある。とは言っても今は今で楽しい。
友人は新三と大魚こそ私の最高傑作だと言う。新三と大魚を書き上げてから、作品は増えてはいる。しかし、未だに新三と大魚を超える作品は出ていないという。
全体のバランスと作品テーマが良いらしい。
そう思うと、少し鼻が高くなるような気になれる。
新さんと大魚は倫理の輪を怠惰という形で逸脱した、新三という男と、殺すことを楽しみ、倫理の輪を破壊した鱶の末路を通して、業を描いたつもりだ。
我々は部屋を飛び回る小虫を積極的に殺す。殺虫剤を使うこともあれば、直接手を下すこともある。小虫を殺すと、不思議と安堵する。これは獲物が大きくなればなるほど、大きくなる。ゴキブリ、ヤモリ、ネズミ。生活に飛び込んだ異物が大きくなればなるほど、排除した際の安堵は大きくなる。我々は動物である以上、殺すことを楽しむように出来ているのかもしれない。勿論、小虫を殺すことにも理由はあるのかもしれない。しかし、それは殺す側の理由でしかない。多くの場合は「不快だから」であろう。ドラえもんのように耳を齧られたから、ネズミを排除するだなんて例はごく少数だ。
不快だから殺す。思えばこれほどの身勝手はあるまい。人間という大型の霊長類なら、我慢して見過ごすこともできるであろう。万物の霊長のような顔をして、地球に君臨しているのなら、なおのことだ。慈悲をかけてやればいい。しかし、私も慈悲をかけたことはない。理由は
「自分自身が弱い」
からだ。だから我々は生命より、自分の事情を優先する。
私は性善説も性悪説にも納得でしていない。そもそも人の心を白か黒かで判断するのは危険だと思う。私が納得している唯一の説は「性弱説」である。人は良くも悪くもない。ただ、弱い生き物だ。ということだ。だから自分の事情で小虫を殺す。時には他人を売って保身をするし、生活水準を落としたくないから、必死で稼ぐ。稼ぐだけならまだしも、許されざる行為を行う。
だからこそ、倫理の輪は生まれたのだろう。弱い人間でもよりよく生きていけるように発明された法律、道徳、決まり事こそ我々の生活の平穏を一定レベルで約束してくれている。
新三と大魚に強く気高い人間は出てこない。出てくるのはいずれも弱い人間だ。妻を失ったショックで自堕落な生活を送る新三。「殺すことは楽しいのだ。」と言いながら辻斬りに手を染め、鱶へと成り果てた男。そして新三を取り巻く集団、コミュニティの中の人たち。弱い人間が弱いまま、ありのまま生きている様子。そしてそれぞれの選択に伴う業が押し寄せてくる。
新三が妻を失った日、彼は自分の仕事を「サボった」。それが彼の業の始まりだったのだろうか。今風に言うと「今日は怠いからバイトサボろ」とさして変わらない。それだけの話ではないのだろうか。「バイトサボったら嫁死んだんだが」というのはあまりにも酷ではないだろうか。その弱さはそれほどまでに苛烈に人を断じる材料になるのだろうか。
人は弱い。だから駄目なのか? そうではないだろう。駄目でも駄目じゃないとも、どちらでもない。ただそこにいるだけ。それ以上はないし、必要もない。
イエスもノーもない。良い悪いだけで存在は揺るがない。
だから何の理由もなく、前を向いて歩けば良いのではないだろうか。
我々は朝目覚めて、急に鱶になっているだなんてことはないだろう。あるとしても限りなく低い確率の話だ。
態々イエスを自分に投げかけてやる必要はないだろうが、そこまで強く否定する必要もない。
ただそこにいる。それ以外ないのではないだろうか?
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