第2話 樹齢千年の樹

 一通り楽そうな仕事は全部やった。古本屋、ラブホテル、思いつく限り全部やった。しかし、どれもこれもそれなりに労働は必要になる。もう考えるのも面倒になって、知り合いの紹介で警備の仕事に登録した。そして自分に充てがわれた最初の仕事がこれから語る現場の話だ。この仕事が一番いい。割合上品な十階建てマンションの警備である。それも深夜帯。時折巡回して、あとは管理人室に篭って監視カメラを睨む。日誌を書いて眠気を抑えた虚な目で帰宅する。元々常勤の警備員がいるそうなのだが、痔の手術で2週間ほど入院するらしく、自分はその代わりということで、その間だけの勤務だった。常勤の警備員は定年を回った年寄りらしく、引き継ぎも殆どなかったので、自分は問題ないだろうと思って軽い気持ちで仕事を始めた。

 流石上品なマンションなだけはある。事件らしい事件も殆どなかった。最初のうちはチラチラと管理人室で監視カメラを睨みながらぼうっと過ごし、時間が来たら各階を巡回する。そうするうちに巡回以外は殆ど携帯電話を弄ぶか、軽く目を閉じて意識が落ちるか、落ちないかのところをうろうろと彷徨うなりして、ぼんやりと時間を過ごすようになった。

 それでもこの現場では十分に通用した。派遣元から電話があって、安否確認されることがあるが、大抵電話の音で目が覚めるから、粗相をしたこともない。ただただこの怠惰な勤務を享受していた。

 

 

 一週間ほど、この勤務を続けていた。またぼんやりとモニターを前にうつらうつらと携帯を弄んでいると、ガラス張りの窓が叩かれた。目を見開いてふと顔を上げる。茶色のコートを着た化粧気の強い女性が眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。よろよろと立ち上がって窓を開ける。窓を開けた途端、強烈な香水の匂いがこちらに迫った。彼女が身につけていた香水は、色々な匂いが混ざって糞尿のような匂いになっていた。

「あの、マンションの前におじいさんがいてずっとこちらを見てくるんで、どうにかしてください。気持ち悪いです。」

 女性が捲し立てるように言った。

「はい、わかりました。その人はどちらに」

「いや、前。」

 女性がマンションの入り口を指差した。私はモニター越しにマンション前の景色を確認すると、ぼんやりと不審者がマンションをじっと見つめている。

「あの人、いつもここにいるんです。気持ち悪いので何とかしてください。」

「……いつもですか?」

「いや、監視カメラで見てるでしょ? いつもいるじゃないですか。早くどっかへやってください。」

「わかりました。」

「ごめんなさい、迷惑でした?」

 女性がこちらの目をじっと見つめながらゆっくりと言った。私は否定した。

「強い人は弱い人を守らないと駄目でしょ? お兄さん、警備員なんだから、当たり前じゃないですか?」

「いえ、そうですね。今すぐ対応します。」

「それじゃ、ご苦労さま。」

 女性がヒールか何かの鋭い足音を響かせながらエレベーターホールへ向かう。そしてボタンを押す甲高い音が鳴った。

強い人は弱い人守らないと、という言い回しをどこかで聞いたことがある。どこで聞いたのかは思い出せない。昨日聞いたのかもしれないし、随分と昔の話かもしれない。もしかすると古い知り合いかもしれないが、この際どちらでも良い。

 またモニターでマンションの前を確認すると不審者は依然としてマンションの前の植え込みからじっとこちらを見つめている。このまま動かずにいると、また女性が一つ二つ何か言うだろう。事によっては管理人にでも言うかもしれない。事実、またヒールか何かの足音がこちらに近付いている。

 私は管理人室を出て、ゆっくりとマンションの入り口まで歩いた。ヒールの音はまたエレベーターホールに向かって遠ざかっていった。

 

 

 通りの向こうの植え込みに一人老人が立っている。薄汚れた茶色コートの下でかつては純白だったカッターシャツが往時の面影を見せている。頭頂部は禿げ上がり、その周りを白い毛が悪戯に伸びていた。不審者はじっとマンションを見つめていた。

「すみません。ここで何されてるんですか?」

 老人が無感動な目をこちらにやる。少し目を見開いたが、無感動な様子に戻った。彼は物も言わずにこちらを見つめていた。

「住民さんから怖いって苦情が来てるんです。ここから離れてもらえますか?」

 それでも不審者は何も言わなかった。少し広角を上げて微笑んだかと思うと、また表情を失った。

「警察呼びますよ?」

 私がそう言うと、老人は少し表情を緩めて「はいはい」と呟いた。

「でもね、俺は全部知ってる。」

「はい?」

「ここにマンションなんか建てるべきじゃなかった。本当はお兄さんも知ってるでしょう?」

 老人は少し声を大きくして言った。私は言葉にならない声を出すしかなかった。

「……少し休ませてもらえませんか? このままだと凍え死にしそうです。」

「今すぐ帰った方がいいんじゃないですか? 凍え死にしそうなら。」

「……どうやって?」

 老人はそう言って植え込みの縁に座り込んだ。

「警察呼びますよ。」

 満面の笑みを浮かべて老人がこちらを睨みつけた。息ばかり荒くなり、じっとこちらを見つめている。

「すみません」

マンションの入り口で先程の女性が顔を覗かせた。小走りで近付くと、また糞尿のような濃いがした。

「あれ、どうするんですか?」

「追い出しますけど。」

 私が一歩女性に近付いた。

「休憩したいって言ってるんだから、少し休ませてやったらいいんじゃないですか?」

「そう言うなら、お姉さんの部屋に入れてやったらいいじゃないですか?」

 私がそう言うと、女性は鼻から息を吹いてまたエレベーターホールに向かって歩きだした。

 また、マンションを出ると、老人が満面の笑みでこちらを見ていた。

「じゃあ、1時間だけですよ。ちょっと休んだら帰ってくださいね。」

「そうですね。どこへでも行きますよ。」

 


 不審者が管理人室に入ると、部屋に妙な匂いが漂った。空調が臭気を巻き上げて、部屋中に立ち込める。

「お兄さん、ここに何があったかご存知でしょう?」

 老人にコーヒーを差し出す。老人はそれを受け取った。

「何でしたってけ。もう忘れました。」

 老人が深い息を吐いて目を伏せた。

「もう、何もかも存在しないんだな。」

「え?」

「じゃあ、お兄さん。少しの時間潰しに俺の昔話を聞いてもらえますか? なに、ただの暇潰しだ。」

 異様な匂いに混ざってコーヒーの匂いが薄ぼんやりと漂う。私はコーヒーを机に置いて、老人と差し向かいに座った。

 

 

 おじさん、昔、そこの図書館の司書をしてたんだよ。懐かしい。もうかなり前に閉まって、ずっとそのままだけどね。あの頃は楽しかった。学校出てからずっとあそこにいたんだ。

本は良い。本には純粋な気持ちだとか、感情だとか、生き方だとか、そういうのが詰まってる。それを一つ一つ整理していくんだ。おじさんは本と関わるのが大好きだった。だから、あの仕事は一番良かった。児童書の担当だった時が1番楽しかった。子供は良い。純粋だ。無垢だ。それだけで美しい。おじさんはね……結婚出来なかった。変だと思われるだろうけど、女の人って……大人ってのが、不潔でね。みんなはそんなこと思わないだろうけど、おじさんにはどうしても心を許すことが出来なかった。だから、誰もおじさんには心を許してくれなかった。当然だね。

 でも、子供はね、綺麗だから。とても綺麗だから。おじさんのことを許してくれる。おじさんも子供たちを許すことが出来る。だから、子供たちは美しいんだ。でも、大人になったら汚れてしまう。美しくなくなってしまう。みんな、それを「大人になる」だとか、「成長する」だとか言うけど、おじさんに言わせると違う。人は生まれながら純粋な存在だ。自然な中で歳を重ねれば美しいまま大人になれる。でも、そんな世の中じゃない。美しい存在を寄ってたかって堕落させる。お兄さんもそうだ。元々は純粋で優しい存在だった。

 それに気付いた瞬間、おじさんは人としての幸せは諦めた。綺麗なものだけを守るために生きようと思った。

 

 

 このマンションは長いこと空き地だった。誰かの所有の土地というわけでもない。ただの空き地だった。猫の額ほどの土地。雑草があって、あとは何もない。いや、一本の樹があった。

 樹齢千年の樹。みんなそう呼んでた。おじさんが生まれるずっと前からそこにあったよ。あまり高くはないんだ。普通の樹より少し高いくらい。でも、幹ばかりがいたずらに太くてね。ちょっと異様な出立ちだった。本当に樹齢千年なのかはわからない。そこまで記録してる資料はなかった。でも、誰でもそう信じていた。

 あれは化け物だった。血を求めて死を呼び込む怪物だ。昔、あそこの根元で殺人事件があってね。痴情のもつれで男が女を刃物で刺し殺した。それで死体をあれの根元に放置した。奴はそれで覚えちまったんだ。血の味を。奴は土から吸収する栄養や、雨のめぐみに満足しなくなった。俺が知ってるだけで7人はあいつに食われてる。あいつの枝に縄を張って、首を括ったやつもいる。車であいつに突っ込んでそのまま死んだやつもいる。また、根元で刺し殺されたやつもいる。みんな、あいつに食われちまった。誰でもそういうものだと思って受け入れていた。だからあの樹にはいつも誰かが新しい花束を供えていた。

 誰もあの樹には近寄らない。近付いて触れようものなら、あの樹に目をつけられて次の獲物にされてしまう。ただ、おじさんは怖くなかった。

 おじさんは毎日、あの樹に触れていた。また新しくなった花束を横目に見ながらね。少し早く家を出て、出勤前に。あれはね、とても美しいものなんだ。どうしようもないほどに。あれだけはいつまで経っても変わらない。おじさんは毎朝、そこに行って樹に触れて挨拶した。だからおじさんだけは獲物になることはなかった。でも、樹に触れた人間は1人残らずやつの餌になった。

 

 

 60になった頃におじさんは図書館を辞めた。色々と打診はあったけれど、もっと子供と関わるような仕事をしてみたくなった。それで人材センターを経由して、学童の仕事に応募した。今更教員免許を取って教職に就くなんて、どだい無理な話だからね。でも、どうしても子供たちを守る仕事に就きたかった。学童に来る子供たちは誰も彼も、事情がある。それを少しずつ解き解して、美しいものを美しいままに残してやる必要がある。

 おじさん、毎日汗だくになりながら働いたよ。教員が皆、聖人とは限らない。馬鹿な奴がいればおじさんは「あんな奴と関わっちゃ駄目だよ。」と教えてやった。我が子のことを見もしない親もいる。おじさん、子供たちのために必死に保護者さんと喧嘩もしたよ。これは図書館じゃあ決して経験出来ないことだ。

 子供たちは皆もう大人になってるだろう。どうせ、美しさを失った、愚かな人間になっていることだろう。でもね、おじさん、今でも2人だけ信じてる子がいたんだ。Oちゃんっていう子でね。お人形のような可愛らしい子だった。まだ世の中のくだらないことを全く知らない。あの年頃の子たちは親の影響で美しさを失いつつある子も多い。でもOちゃんだけはそうじゃなかった。親との関わりが極めて薄い子だったから、美しくなれたのだろうね。

 もう1人はOちゃんのお友達でね。Iくんだったか、Eくんだったか……名前を忘れてしまった。その子もOちゃんに釣り合うほど美しい綺麗な心の子だった。

 ……今でもこの2人は美しさを失うことはないと信じている。でないと、おじさんの人生の全部が否定されてしまうからね。そう信じていたいのだろう。

 

 

 ある日、Oちゃんが目を伏せて座っているのが見えた。伏せた目に、青白い顔。赤いシャツに染みがついている。

「あぁ、この子は泣いたんだ。」

 すぐにわかった。Oちゃんの変化はすぐにわかる。いつもみたいに身体を低くして、Oちゃんに声を掛けた。

 Oちゃんはすぐに全てを打ち明けてくれた。彼女は樹に触れてしまった、と。おじさんは低くしていた身を持ち上げて、じっとOちゃんを見つめた。

「死にたくない。死にたくない。」

 美しい存在が目から大粒の涙を流してしゃくりあげた。

「どうして樹に触れたの?」

「……Dくんがあの樹に触れたら、ドッチボールに入れてやるって言うから。」

 Oちゃんの声が大きくなった。私はじっと彼女の目を見つめながら何度も頷い 

た。

「怖かったね。大丈夫だからね。おじさんに任せて。Oちゃんはいつも通り、元気に過ごしてね。」

 私がそう言うと、Oちゃんは何度もおじさんに確認してくれた。本当に大丈夫なのか。おじさんの身に危険は及ばないかって。おじさんは彼女の頭を優しく撫でて「強い人は弱い人を守らないと。」と言ってあげた。Oちゃんの目が真っ直ぐにおじさんを見ているのがわかった。

 

 

 翌朝、おじさんは樹の前にいた。前日の夕方、ホームセンターで鉞とスコップを買ったのは覚えている。それをゴルフバックに入れて持ち出した。それ以外のことは覚えていない。

 ほとんど空が明るくなったばかりの時間だから、周りには誰もいない。誰にも見られるべきじゃない。

 樹はその日も変わらずそこにある。その日も樹は美しい。樹の側に供えられた花束。風でセロハンがかさかさと揺れる音がする。おじさんはまた樹に触れたよ。ゴツゴツとした幹はいつもと変わらなかった。おじさんはまた奴に触れた。何度も。おじさんは奴の幹を優しく叩いた。とんとんと。

「とんとん」

 樹の中から音が聞こえた。叩き返す衝撃が幹に置かれた私の手に伝わってくる。

 俺は一歩後退した。そうか、こいつに対話は通用しないんだ。こいつは本物の化け物だ。こいつは本当にOちゃんを喰らう気だ。

 おじさんはまた、あいつの幹を優しく撫でた。奴は今から自分が脅かされることに気がついていないようだった。

 ゆっくりと後退して、ゴルフバックから鉞を取り出す。息を整えて、思い切り叩きつけた。太い幹に少しだけ鉞が食い込んだ。刃は思いの外、奴に食い込んだ。確かな感触が鉞を通り越して、私の手に伝わってきた。

 もう一度、刃をあいつに叩きつける。また、刃はもう一度あいつに深く食い込んでいく。おじさんの手に伝わってくる衝撃は少しずつ大きくなる。何度も何度も、叩きつけた。

 手が震えてる。ひっつりを起こしてぶるぶると震っている。またあいつに叩きつけようにも、手に力が入らない。

 畜生、勘弁してくれよ。馬鹿なこと言うな、さっさと言うことを聞け。いつもみたいに俺の思い通りに動け。どうした? こいつ、何故言うことを聞かないんだ。おじさんは持ってきていた水を口に運んだ。おい、この馬鹿、俺のことを知ってるだろ? さぁ、どうした? いつもみたいに俺の言うことを聞くんだ。ほら……この畜生。

 また、おじさんはあいつに鉞を叩きつけた。ぎゅっと鈍い音がなって、真っ赤な樹液がおじさんの顔にかかった。

 そうか、ようやっと芯を捉えたな。おじさんは顔にまとわりついた樹液を拭わなかった。顔中から流れ出る汗に混じって顔を少しずつ伝っていく。口に入って鉄の味がしたのがわかった。

 おじさんはまた、あいつの幹を優しく叩いた。また、中から叩き返す音がした。奴は自分の半分が削り取られてもなお、応えてくれた。

 この樹は不動だった。いつからかそこにあって、いつまでもそこにあるはずだった。不動だからこそ、美しい。そう思っていた。だが、今は考えを改めた。不動のこいつはまるで、増長した古女房のように嫌ったらしいように見えていた。だが……今、こいつはとてつもなく美しい。鉞を持つ手の震えが一層強くなった。

 おい、お前、どうしてまた、こうまで美しくなったんだ? 教えておくれ。

 奴は何も答えない。答えはおじさんが握っていた。

 奴が途端に美しくなったのは……終わりが見えたからだ。おじさんがずっと子供は美しいと思っていたのは、子供の純粋さには終わりがあることを知っていたからだ。そこに永遠なんてものはない。不動なものは美しいか? いいや、そうではない。終わりの見えた瞬間に景色が変わる。なら、こいつがまた美しく見えたことに説明がつく。

 また、鉞を振り下ろした。樹の幹に刃が突き刺さって、鈍い音と共に混ざって樹液の絡むびゅっという音が聞こえた。

 おじさんは全身が震えた。足がたわんでしばらく震えていた。長らく味わったことのない感覚だった。しばらくの間、じっとその感覚を噛み締めていた。

 なあ、お前、どうしてそんなに魅力的なんだ? それはお前なりの抵抗なのだろう? 俺がお前を切れないように、そうやって抵抗しているのだろう? 抵抗しているお前は限りなく美しい。

 

 

 しばらくして、おじさんはまた鉞をあいつに叩きつけた。手のひっつりがまたひどくなる。あぁ、この。今いいところなんだ。おい、言うことを聞け。こいつをまた、俺は叩き切らにゃならん。俺はOちゃんを守らねばならん。あんな純粋で美しい子の人生をこいつに食わせてやる訳にはいかん。いいや……本当は俺は違うことを考えている。俺がこいつを美しくしてやらにゃならんのだ。もう頭の中にはそれしかない。また、足がたわむほどの震えが身体の奥から溢れ出た。

 また、おじさんは奴に刃を押し付けた。奴は首の皮一枚で繋がっているようだった。あたりは奴の樹液が飛び散り、血の池のようだった。ああ、くそっ、ほら、これで最後だ。お願いだから言うことを聞いてくれ。ほらっ。

 最後の一振りをあいつにお見舞いすると、断末魔のような甲高い音を立てながら、あいつはゆっくりと隣の空き家に倒れ込んだ。奴は隣の屋根を叩き潰しながら、ゆっくりと家の中に沈んだ。

 

 

 歪な切り株を覗く。夥しい量の年輪が見える。その一つ一つが目のように見えて、おじさんを見ているのがわかった。

 まだ、俺を見てくれているんだな。

 自分の息が震えていた。

 おじさんはゴルフバックからスコップを取り出して、奴の足元に突き刺した。樹液を吸い込んで赤黒く変色した土が裂けた。

 まだ、手は言うことを聞かない。だが、意思の力が俺の手を突き動かしている。ざっと土に突き刺して、奴の足元を掬う。根が少しずつ顔を出す。誰も見たことのない美女の夜を覗いているような心持ちだった。

 あぁ、まだだ、言うことを聞け、馬鹿。こいつは俺を見ている。だから俺もこいつを見ないといけない。

 切り株をじっと見つめながらスコップであいつの足元をかき回し続けた。手はひっつりを起こして主人の言うことを聞こうともしないのに、それでもおじさんは地面を掘り返した。

 地面の奥から奴の根が姿を見せた。おじさんは土を風で巻き上がった土を被って、それを手で拭ったものだから、目も当てられない姿になっていただろう。おまけに奴の真っ赤な樹液を浴びて、顔まで真っ赤になっている。まるで人殺しのようだっただろうね。

 おいおい、どうした? まだ事は終わっちゃいないぞ。最後の一仕事だろう? ほら、動け。俺の言うことを聞け。またぐずぐず言うと、縛り上げてしまうぞ? ああ、このくそったれが。どうしようもないやつだ。おい、お前の主人が命令しているんだ。少しはうんとか、すんとか言ったらどうだ? こいつ。

俺は自分の手に唾を吹きかけた。もう殆ど息しか出ていなかった。手は自分の目で見てもわかるくらい震えていた。

 スコップを握る手には力が入っていない。手を添えて方向を整えてから、足の力だけで奴の全部を掘り返していた。

 ぐっと、スコップを突き入れると、奴の半身がぐらぐらと揺れているのがわかった。おじさんは足でスコップを少しずつ蹴り上げた。あいつはゆっくりと持ち上がると、そのまま地に横転してその全てを晒した。そこにもう、かつての美しさはなかった。

 ふと自分の足元を見ると、泥まみれの花束が転がっていた。

 もう息をする力しか残っていなかった。立ったままでいることも、その時の俺には苦痛だった。おじさんはゆっくりと膝をついて、そのまま尻から転げた。息をついて後ろを振り返ると、もう既に人集りが出来ていた。その中にOちゃんの姿が見えた。もう1人の子もいたよ。おじさんはOちゃんたちをじっと見つめながら、微笑んだ。もう1人の子がOちゃんの手を引いて人混みの中に消えていく。おじさんはずっとOちゃんとあの子の消えていく様子を眺めていた。

「ちょっと、だんなさん」

 視界の端に警官がこちらを見ているのがわかる。だが、その時のおじさんには、それに応えるのも気怠かった。ただひたすらおじさんを見つめる目たちの中に消えていく、美しい存在の姿を見つめるだけで精一杯だった。

 

 

 不審者はひとしきり話し終えると、机の上に置かれていたコーヒーを口に運んだ。

「強い人は弱い人を守らないと。」

 そう糸引く口で力強く言って、じっと私の目を覗いた。私は鼻から軽く息を吹き出して、目を逸らした。

「そうか。もう終わっていたんだな。」

 一言だけ残して老人が立ち上がった。管理人室のドアを震える手で押し開けて、ゆっくりと夜の中に消えていった。

 私は管理人室の窓を開けた。部屋に立ち込めていた臭気が少し和らいだ。

「もうどこかへ行きましたか?」

 受付から声がして目をやる。先程の女性だった。

「はい。もうどこかへ行きました。もう来ないと思います。」

「最初からそうして欲しかったですけどね。本当に男の人って駄目。……強い人は弱い人を守らないといけないって言うでしょう?」

「……Oちゃん?」

 女性が受付に顔を近づけて目を丸くした。

「誰?」

「俺だよ。Iだよ。」

「Iくん?」

 女性が受付窓の向こうで息を吸い込んでいる音が聞こえた。

 ふとモニターの目をやる。また先程の老人が植え込みに座り込んでいる姿が見えた。

「ああ。おじさんだ。あの人は」

 私は管理人室を飛び出して、マンションの前に飛び出した。

 おじさんの姿はもうなかった。

 Oちゃんが私の後を追ってくる。何か話しているが全く聞こえない。Oちゃんが身につけている香水と、汗と煙草と色々なものが混ざった糞尿のような匂いが、風に乗って私の鼻先を掠めた。

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真・十ノ物語 辻岡しんぺい @shinpei-tsujioka06

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