第8話 破滅か、あるいは……

「わかったから、腕を離してよ」

 つい声を荒げたサンドラは、その腕を振りほどいて乱れた服の裾を整えながらラッセルを睨みつけた。

「それで、大事な話って何?」

 とげとげしい口調のまま、サンドラは本題に入ろうとした。いつものディナーへの誘いではないことはラッセルの顔を見れば察することができたが、さりとて大事な話といっても大した話じゃなかろうとたかを括ってもいた。

「ここじゃ話せない。こっちへ」

 そういうとラッセルは無精髭の残る顎で通路の先にある小部屋へと誘った。

 その誘いに乗るのはどうにも気が引けたサンドラだったが、ラッセルの顔を見るほどに断るべきではないようにも感じられた。揺れる心が定まることを待つ時間すらなく、ラッセルは手招きで改めて同行を促した。


「スミラ……いや、アレクサンドラ・スミルノフ。君は運動義務を果たしてないだろ」

 小部屋に入るなりラッセルはこう切り出した。サンドラは動揺を隠し努めて平静を装いながら、この男は何をどこまで知っているのかを確かめなければならなかった。

「生体データの記録上、毎週二時間は義務を果たしていない。それが何を意味するのか、わからないわけではないだろう」

 顎を人差し指と親指で撫でながら告げる。他人の生体データは誰もがアクセスできるものではない。この男は一体どうやってデータを手に入れたのだろうか。情報が正確である以上、ブラフの類いではないことは明らかだった。

「私の生体データなんて、どこで見たのよ」

「それは重要なことか? 重要なのは、君が義務を軽んじていることだろ」

 サンドラは鼓動が早鐘のように激しくなり、呼吸が浅く、息苦しさすら感じていた。

「でも、他人のプライバシーデータを不正に手に入れるのも問題じゃなくて?」

 話題を反らそうと、きりりとラッセルを睨みつける。運動義務を果たしていなかったことは事実であり、それを破ると運動義務時間分の強制労働と余暇時間の監視処分が罰となる。もしラッセルが証拠を握っている場合、サンドラは著しく不利な立場になるだろう。

それだけでなく、もしイベールのデータも持っている場合、彼女も巻き込むことになる。


「俺はスミラ、君のことを思ってこのことを他の人間には話していないんだ。どういう意味かわかるよな?」

 脅迫じみた言葉に吐き気を覚えつつ、サンドラはこの場をどうやって切り抜けようかと思考を集中した。

「証拠が無ければその言葉には意味がないわ」

 サンドラは自分の言葉がほとんど無益であることを理解しつつ、それでもなんとか時間を稼ごうとする。生体データを然るべき立場の人間が確認してしまえば、ラッセルと同じ結論になることは明らかだった。

「君はそこまで馬鹿じゃないだろう。その言い訳は価値がない。俺が厚生局に通報すれば事実確認が速やかに行われるし、その後は君の想像通りになる」

 ラッセルは優位を確信した顔で断言する。

「それと、俺のことをあまり甘くみない方がいい。これでも顔は広いんだ。いろいろデータを手に入れることはそれほど難しいことじゃないんだよ」

 もしそれがイベールのデータであった場合、ラッセルをますます優位に立たせることになる。ルームメイトと共謀して義務規定を無視していたと判断されれば二人は引き離されるだろうし、それはイベールを悲しみの底に突き落とすだろう。

「それで……私にどうして欲しいの?」

 いまこの瞬間、サンドラと、おそらくイベールの運命がこの男の胸先三寸で決まるのだ。


「一週間だけ考える時間をやる。破滅するか、そうでなければ俺と結婚するか、選択肢は二つだ。どっちが良いか、よく考えて決めることだ」

 勝ち誇った表情でサンドラを見下したラッセルは、小部屋の外へと出ていった。

 一人残されたサンドラはすっかり足の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。まるで重力が倍にでもなったかのような重苦しさを感じていた。

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