第3話

昼休み、俺は思い切って、あの人のところへ行った。

応接室の隅、誰もいないソファに座って、冷めかけたコーヒーを見つめていた。その表情は、どこか他人のようだった。

「先輩……あの、ちょっといいですか」

あの人は顔を上げた。少しだけ驚いたような目をして、そして、すぐに苦笑した。

「来ると思ったよ。おまえは、そういうやつだ」

俺は言葉に詰まった。何を言えばいいのか、どんなふうに問いかければいいのか、わからなかった。

けれど先輩は、先に口を開いた。

「俺が言った言葉、たしかに軽率だったよ。今さら言い訳しても始まらない。録音されたってことは、きっと誰かは本気で不快に思ったってことなんだろうし」

「……じゃあ、謝るんですか?」

「謝ったところで、“許すかどうか”は、もう世間様の気分次第だろ」

乾いた笑いだった。そこには悔しさでも、反省でもなく、ただ疲れたような達観がにじんでいた。

「俺な、たぶん自分が“差別意識”を持ってるなんて思ったことなかったんだよ。でも世間は“それが一番危ない”って言うんだろ。無意識の偏見が一番罪深い、って」

「俺……俺、正直よくわかんないんです」

「だろうな」

先輩はそう言って、椅子の背にもたれた。

「俺だって、よくわかってないよ。ほんとに差別だったのか、ただの冗談だったのか、それとも――“時代に合わなかった”だけなのか」

「……でも、炎上してます」

「知ってるよ。名前はまだ出てないけど、“特定班”が動いてるってな。もうすぐ出る。時間の問題だ」

その言葉に、俺は身震いした。

まるで、犯罪者を裁くような熱量で、世間が“この人を燃やす”準備をしている。

 

その夜、SNSでは、先輩の名前が候補として挙がっていた。

本人の顔写真が勝手に拾われ、まとめアカウントが「これが問題発言をした人物らしい」と投稿していた。

リプライには、罵倒と憎悪と、正義感が混ざり合った言葉が並ぶ。

 ――「こいつ、顔からして無理」

 ――「こんな奴が部下の教育とか終わってる」

 ――「会社はこんな発言を容認するのか?」

まるで、罪を決めるのは“怒りの量”のようだった。

法の裁きはここにはない。

あるのは、“許せない”という感情の洪水だった。

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