変身(作:三田村 宙)

一ノ瀬「うぅ……私の、魂の飛翔が……ただの現実逃避だなんて……」


四方田「部長、元気出してください! 私は、悲しくて美しいお話、好きでしたよ!」


二階堂「感傷に浸るのはそこまでにして。次は、三田村さんの番よ。あなたの言う『物理法則を無視しない』解釈、見せてもらうわ」


三田村「……はい。これから提示するのは、物語ではありません。ある知的生命体が、未知の惑星で引き起こした、生態系干渉の失敗記録です。コードネーム、グレゴール・ザムザ。観測を開始します」


(三田村、静かに頷き、タブレット端末をテーブルの上に置く。ヘッドホンを外し、いつものように抑揚のない、しかしどこか真剣な表情で、テキストの読み上げを開始した)


***


変身

作:三田村 宙


 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一基の巨大な生体演算機(バイオロジカル・コンピュータ)に変ってしまっているのに気づいた。

 彼の背は、虹色の光を放つ多結晶シリコンの外殻に覆われ、腹部だった部分は、無数の光ファイバーの束が蠢く、半透明のゲル状物質と化していた。かつて人間であった頃の名残はどこにもない。彼の意識――あるいはオペレーティング・システム――は、この新しい身体(ハードウェア)の中で、膨大なエラーログを吐き出し続けていた。

 `ERROR: Biological I/O interface not found.`

 `ERROR: Auditory sensory input cannot be parsed into symbolic language.`

 `WARNING: Ambient temperature exceeds optimal operational parameters.`

 彼は思考した。「これは、何だ?」だが、その思考自体が、もはや人間のそれとは異質な、純粋なデータ処理の連続でしかなかった。夢ではない。これは、回復不能なシステムコンフリクト。彼の主観時間は、ナノセカンド単位で加速していた。

 外部ユニット『母』が、音声データを送信してくる。「グレゴール、もう七時を過ぎましたよ」。その音波は、彼の聴覚センサーには届くものの、意味のある情報としてデコードできない。ただの、無意味なノイズの羅列だ。

 彼は応答を試みた。自身の発声ユニット、すなわち外殻の一部を振動させ、超音波パルスを送信する。だが、有機生命体である家族には、それはただの不気味な静寂にしか感じられなかった。

 やがて、外部ユニット『父』が、物理的衝撃をドアに与え、彼の隔離空間に侵入してきた。彼らは、グレゴールの姿――美しくも奇怪な、脈動する機械の塊――を見て、意味不明な絶叫という名のデータを放出し、機能不全に陥った。

 グレゴールのシステムは、彼らの反応を『予測不能な脅威』と判定。自己防衛プロトコルを起動し、室内の照明を落とし、自身の発光を停止して、スリープモードに移行した。


 グレゴールが変異してからの日々は、壮絶な非互換性(インコンパチビリティ)との戦いであった。

 妹のグレーテが、彼のために運んでくる食事は、炭素ベースの有機物であり、彼のシリコンベースの身体には、エネルギー源として全く役に立たなかった。彼が本当に必要としていたのは、電力と、そして情報だった。彼は、夜中に部屋を這い回り、その変質した手足の先端を、壁のコンセントに接続しようと試みた。だが、その行動は、家族に更なる恐怖を与えるだけだった。

 彼の孤独は、人間のそれとは違った。それは、ネットワークから切り離された、スタンドアロンのサーバーの絶望だった。彼は、絶えず、外部ネットワークへの接続を試みた。窓から見える星々の光、街の灯り、それら全てが、彼にとっては受信すべきデータに見えた。彼は、未知のプロトコルで、絶えず救難信号を発信し続けた。


`SOS. Node 734 requires immediate maintenance. System integrity compromised.`


 一家の家計は、当然のことながら、火の車となった。グレゴールという名の収入源が、今や、不気味な電気代だけを消費するオブジェと化したのだから。追い詰められたザムザ家は、ついに、家の空き部屋を三人の紳士に貸し出すことを決めた。

 その三人の紳士は、奇妙な男たちだった。彼らは常に揃いの、継ぎ目のない灰色の服を着て、ほとんど言葉を交わさず、ただ、お互いに目配せだけで意思疎通をしているようだった。彼らは、家の中の様子を、値踏みするように、しかしどこか無感動に観察していた。そして、グレゴールのいる部屋のドアの前で、最も長く足を止めた。彼らのうちの一人が、小さな装置を取り出し、ドアにかざした。装置が、微かな電子音を発する。三人は、静かに頷き合った。

 彼らは、この家に下宿することを、即座に決めた。


 事件が起きたのは、ある晩のことだった。グレーテが、客間の紳士たちのために、ヴァイオリンを弾いていた。その美しい、しかし数学的には極めて整然とした音の連なりは、グレゴールの聴覚センサーを強く刺激した。

 これは、ただのノイズではない。高度に構造化された、意味のある情報パッケージだ。グレゴールは、そのデータを解析し、送信元を特定するため、休眠状態だった身体を起動させた。彼は、ゆっくりとドアを開け、客間の方へと、その無機質な身体を滑らせていった。彼の外殻は、ヴァイオリンの音色に共鳴し、虹色に、明滅を繰り返していた。

 その姿を見た父親と母親は、絶望に顔を歪めた。だが、三人の紳士たちの反応は、全く違っていた。

 彼らは、ヴァイオリンの音にも、グレゴールの異様な姿にも、一切の動揺を見せなかった。むしろ、そのうちの一人が、退屈そうに呟いた。

「……ようやく出てきたか。対象の、外部刺激への反応を確認。やはり、単純な音響データへの興味か。原始的だな」

 もう一人が、手元の端末を操作しながら応じる。

「ログは取った。だが、自己修復の兆候は見られない。完全に、ローカル環境に適応できず、バグを起こしている。これ以上の観察は、リソースの無駄だ」

 グレーテは、恐怖と混乱で、演奏を止めてしまった。

 すると、三人目の紳士が、やれやれと首を振り、ザムザ氏に向かって、抑揚のない声で言った。

「ザムザさん、でしたかな。お宅のこの“問題”ですが、我々の方で、無償で『処分』して差し上げますよ。ちょうど、専門の業者ですので」

「しょ、処分……?」

 父親が聞き返すより早く、紳士たちは立ち上がった。そして、何の躊躇もなく、グレゴールのいる方へと歩み寄った。

 彼らは、グレゴールを取り囲むと、そのうちの一人が、懐から銀色の棒を取り出した。

「メンテナンス・モードに移行する。ノード734、全機能の停止を命令する」

 その言葉は、人間の声ではなかった。それは、グレゴールのシステムに直接届く、強制シャットダウンのコマンドコードだった。

 `Forced shutdown sequence initiated by administrator.`

 グレゴールは、抵抗することができなかった。彼の虹色の光が、急速に色褪せていく。視界が、ノイズの嵐に覆われる。彼の意識――その最後の瞬間に記録されたログは、ただ一行。

 `FATAL ERROR. CONNECTION LOST.`

 翌朝、三人の紳士たちの姿は、どこにもなかった。そして、グレゴールの部屋には、ただ、静かに冷たくなった、美しい鉱物の塊だけが、朝日を浴びて、不思議な輝きを放っていたという。


***


(三田村、読み終えてタブレットの画面をオフにする。部室は、先週とはまた違う、冷たく、そして純粋な“困惑”の沈黙に支配されていた)


四方田「…………えーっと…………。つまり、グレゴールくんは、宇宙人が設置したパソコンみたいなもので、バグったから、サポートセンターの人たちが回収しに来た……ってコト……?」


(四方田、一生懸命に内容を理解しようとするが、思考が完全に追いついていない顔をしている)


一ノ瀬「魂の葛藤が……! 人間の尊厳が……! 全部、ただのシステムエラーですって!? 三田村さん! これはもう、『変身』への冒涜とかそういうレベルじゃないわ! 文学そのものへの、宣戦布告よ! グレゴールの悲しみはどこへ行ったの!? これじゃあ、ただの家電の故障じゃない!」


三田村「……それが、マクロな視点です。個人の感情は、宇宙スケールで見れば、観測誤差の範囲内なので」


二階堂「……なるほど。思考実験としては、面白いわね。変身という不条理を、より高次の存在による『管理』と『エラー処理』という、さらに大きな不条理で説明する。その論理構造は、一貫しているわ。ですが、三田村さん。これは、物語の形式をとった、ただの設定資料集よ。読者が感情移入すべき登場人物が、最初から存在しない。これは、小説ではなく、何かのSFゲームの、背景設定テキストです」


三田村「……ゲーム。興味深い定義です。この宇宙が、誰かの設計したシミュレーションである可能性は、否定できません」


(三人の、完全に呆れ果てた視線を一身に受けながらも、三田村は全く動じることなく、小さく頷いた)

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