変身(作:一ノ瀬 詩織)

日付:20XX年某月某日

場所:文芸部部室

議題:『変身・IFストーリー・ワークショップ』発表会

出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌


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一ノ瀬「さあ、皆の者! 約束の一週間後、ついにこの日が来たわ! それぞれがカフカの魂に挑み、グレゴール・ザムザに新たなる運命を与えたことでしょう。光栄あるトップバッターは、言い出しっぺであるこの私、部長の一ノ瀬詩織が務めさせていただきます!」


(一ノ瀬、恭しく和綴じにした原稿を胸に抱き、すっくと立ち上がる)


四方田「待ってました! 部長の『変身』! グレゴールくん、今度こそ幸せになれるんですよね!?」


二階堂「……お手並み拝見と行きましょうか。原作の持つ不条理の本質を、どれだけ損なわずに再構築できたのか、楽しみですよ」


三田村「……IFルートの提示を待機します。蓋然性の高いモデルが構築されていることを期待」


一ノ瀬「ふふふ、期待してくれていいわ。私が描いたのは、単なるハッピーエンドではない。絶望の中に差し込む一筋の光、悲劇の中にこそ存在する、魂の気高さと救済の物語よ! 受け取りなさい! 私の解釈する、最もカフカらしく、そして最も美しい『変身』を!」


(一ノ瀬、咳払いを一つし、朗々とした声で朗読を始めた)


***


変身

作:一ノ瀬 詩織


 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一羽の巨大な鴉(からす)に変ってしまっているのに気づいた。

 彼の背は、硬質で艶のある黒い羽毛に覆われ、腹部は節くれだった皮膚が皺を寄せていた。か細かった手足は、鉤爪のついた、力強い二本の足と、身体のバランスをとるにはあまりに巨大な一対の翼へと変わってしまっている。彼は頭を少し持ち上げてみた。視界の端に映るのは、自身の、黒く鋭い嘴(くちばし)だった。

「いったい、おれの身に何が起こったのだ?」と彼は思った。それは夢ではなかった。彼の部屋――やや手狭ではあったが、まぎれもない人間の部屋――は、四つのよく知っている壁の内側で、静まり返っていた。

 外は、雨が窓ガラスを叩いていた。その憂鬱な物音は、グレゴールをすっかり悲しい気持ちにさせた。もう一度眠って、この馬鹿げたこと一切を忘れてしまおうか、と彼は考えたが、それは到底できそうになかった。彼は右を向いて眠る癖があったが、今のこの身体では、その姿勢をとることができない。どんなに力を込めて右側へ身を投げ出そうとしても、翼が邪魔になって、すぐにまた仰向けの姿勢へと戻ってしまうのだ。

 その時、階下の玄関のドアを、支配人がノックする音が聞こえた。もう七時を回っている。五時の汽車には、とっくに乗り遅れてしまった。

「グレゴール」と、母親が優しく呼びかける。「支配人さんがお見えですよ。あなた、汽車に乗らなかったのね?」

「グレゴール」今度は父親の声がした。「支配人ご自身が、わざわざお越しくださったのだぞ。早く、早く出てこないか」

 グレゴールは、必死に言葉を発しようとした。言い訳をしなければ。風邪を引いたのだと、そう言わなければ。だが、彼の喉から漏れ出たのは、人間の言葉とは似ても似つかぬ、しゃがれた、甲高い鳴き声だけだった。

「カァ、ア、アァッ!」

 その声に、階下の三人は顔を見合わせた。やがて、妹のグレーテが、心配そうに彼の部屋のドアを叩いた。

「お兄ちゃん? あなた、どこか具合でも悪いの? 何か必要なものはある?」

 妹の、優しい声。グレゴールは、その声に応えようと、再び声を発した。今度は、もっと穏やかに、意味が通じるように。だが、結果は同じだった。ただ、空気を引き裂くような、鳥の鳴き声が、空しく部屋に響くだけだった。


 その後の騒動は、筆舌に尽くしがたいものだった。父親が斧でドアを破壊し、部屋に押し入ってきた支配人が、巨大な黒い鳥と化したグレゴールの姿を見るや、悲鳴を上げて逃げ帰った。母親は、その場に卒倒し、父親は、新聞紙を丸めた棒で、威嚇するようにグレゴールを部屋の奥へと追い立てた。

 ただ、妹のグレーテだけが、違った。彼女は、恐怖に顔を青ざめさせながらも、部屋の隅で翼をばたつかせている兄の姿を、じっと見つめていた。その瞳には、恐怖や嫌悪とは少し違う、何か別の――例えば、畏怖や、あるいは当惑といった感情が浮かんでいるように、グレゴールには思えた。

 グレゴールは、家族にとっての厄介者となった。セールスマンとして一家の家計を支えていた彼の収入は途絶え、家族は貯金を切り崩し、父親は銀行の制服係として、母親と妹は内職をすることで、糊口をしのぐようになった。

 グレゴールの食事の世話は、妹のグレーテが引き受けてくれた。だが、彼女はもう、兄が何を食べたいのか、理解することができなかった。腐った野菜、古いチーズ、パン屑。彼女が善意で差し出すそれらのものを、グレゴールは嘴でつつきはするものの、ほとんど口にすることはなかった。彼が本当に欲していたのは、木の実や、虫や、あるいは新鮮な肉といった、鳥としての身体が求める食事だったが、それを伝える術はなかった。

 彼は、日増しに衰弱していった。そして、それ以上に、彼を苦しめたのは、耐えがたい孤独と、飛翔への渇望であった。

 部屋の窓から見える、青い空。雲。遥か上空を、気持ちよさそうに飛んでいく、小さな鳥たちの影。それらを見るたびに、グレゴールの身体の奥底から、抗いがたい衝動が突き上げてくるのだった。翼を広げたい。この狭い部屋から飛び出して、大空を、風を、全身で感じたい。それは、もはや人間のグレゴール・ザムザの意志ではなく、鴉という肉体に刻み込まれた、抗いがたい本能の叫びであった。

 彼は、何度も窓ガラスに体当たりした。そのたびに、家族は気味悪がり、父親は彼を杖で打ち据えた。傷ついた翼は痛み、彼の心もまた、深く傷ついていった。


 ある晴れた日の午後だった。その日、グレーテは、兄の部屋の掃除をするために、いつもより長く部屋に留まっていた。グレゴールは、彼女を怖がらせないよう、ソファの下に隠れて、息を潜めていた。

 グレーテは、ふと、窓の外を飛ぶ鳥の群れに目を留めた。そして、彼女は、ソファの下で小さくなっている、巨大な黒い鳥の姿に、視線を移した。

 その時、彼女の胸に、ふと、ある想いがよぎった。

 あれは、もう、お兄ちゃんではないのかもしれない。だとしたら、この部屋に閉じ込めておくのは、あまりにも、酷なことではないだろうか。

 彼女は、まるで何かに導かれるように、窓の掛け金を外し、それを大きく開け放った。

 そして、彼女は何も言わずに、部屋から出ていった。

 部屋に残されたグレゴールは、最初、何が起きたのか分からなかった。だが、窓から吹き込んできた、花の匂いを含んだ、春の新しい風が、彼の全身の羽毛を優しく撫でた時、彼は全てを理解した。

 これは、妹からの、最後の、そして最大の贈り物なのだ。

 彼は、ソファの下から這い出した。そして、ゆっくりと、窓辺へと歩み寄った。眼下には、見慣れた街並みが、まるで模型のように広がっている。怖いか? 怖くない、と彼は思った。

 家族との絆は、もう失われてしまった。人間としての生活も、尊厳も。だが、代わりに、彼は翼を得た。自由を得たのだ。

 彼は、階下のリビングにいるであろう、家族のことを思った。父、母、そして、妹。さようなら。もう、会うことはないだろう。だが、どうか、達者で。

 グレゴールは、最後の力を振り絞り、一声、鋭く鳴いた。それは、家族への別れの挨拶であり、新たなる世界への、誕生の産声でもあった。

 そして彼は、窓枠から、大空へとその身を躍らせた。

 巨大な黒い翼が、風を捉える。彼の身体は、一瞬、落下したかと思うと、ふわりと、信じられないほど軽やかに、宙に浮いた。

 眼下の家々が、人々が、急速に小さくなっていく。悲しみも、苦しみも、孤独も、全てが地上に置き去りにされていくようだった。彼は、ただ、高く、高く、青い空の、その中心を目指して、羽ばたき続けた。

 その姿は、地上から見れば、一羽の、不吉な黒い鳥が、空に舞い上がっただけに過ぎなかったかもしれない。

 だが、それは、一つの魂が、その重い宿命から解き放たれ、自由を獲得した、悲しくも、荘厳な瞬間だったのである。


***


(一ノ瀬、朗読を終え、感極まった様子で原稿を閉じる。目にはうっすらと涙が光っている)


一ノ瀬「……どう、かしら…? グレゴールの、悲劇的な、しかし気高い魂の飛翔……。カフカの描いた不条理の中に、一筋の救いを見いだせたとは思わない!?」


(自信満々に部員たちを見回す一ノ瀬。しかし、三人の反応は、どこか微妙なものだった)


四方田「う、うーん……文章はすごく綺麗で、悲しくて美しいって感じは伝わってきたんですけど……。でも、これって、結局、家族との対話を諦めて、一人で逃げちゃっただけじゃないですか? もっと、こう、妹ちゃんが鴉になったお兄ちゃんを匿って、こっそり餌をあげたり、言葉を教えようとしたり……そういう、種族を超えた兄妹愛みたいなのが、欲しかったです……! 萌えが、足りてません!」


一ノ瀬「も、萌えですって!?」


三田村「……確認します。このシミュレーションにおける結末は『対象オブジェクトの、環境からの物理的離脱』ですね。変身の根本原因というブラックボックスが未解決のまま、対象が観測範囲外へ移行しただけ。これは問題の解決ではなく、先送りと定義されます。また、鳥類への変身プロセスにおける、骨格構造の再構築、質量保存の法則の無視といった、物理的矛盾点についての説明も観測されませんでした」


一ノ瀬「ぶ、物理法則!? 私の悲劇をそんな風に分析するなんて…!」


二階堂「一番の問題は、物語の核心である『家族の罪』が、著しく希釈されていることですよ、部長」


一ノ瀬「つ、罪!?」


二階堂「ええ。原作の『変身』が読者に強烈な印象を与えるのは、家族が、言葉を話せず、ただそこにいるだけのグレゴールを、一方的に『切り捨てた』という事実があるからです。それは、介護や貧困といった、現実社会にも通じる、極めて重い罪悪を告発している。でも、あなたの物語では、グレゴールが自ら『飛んでいく』という選択肢を得てしまう。その結果、家族は『彼を追い詰めた加害者』から、単なる『彼の旅立ちを見送った人』へと、その罪の重さが変わってしまっている。これは、カフカが突きつけたテーマに対する、重大な解釈の変更です。ミステリーで言えば、犯人の罪を、被害者の自己責任にすり替えるようなもの。はっきり言って、これはもう、『変身』ではありません」


一ノ瀬「そ、そんな……! 私の、この、魂の救済の物語が……! 萌え不足で、物理法則を無視した、テーマ性皆無の別作品ですってぇぇぇぇぇ!?」


(がっくりと膝から崩れ落ちる一ノ瀬)

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