『変身・IFストーリー・ワークショップ』

日付:20XX年某月某日

場所:文芸部部室

議題:フランツ・カフカ『変身』における翻訳の齟齬と、そこから生まれる新たな解釈について

出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌


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一ノ瀬「皆、心して聞いてちょうだい! 本日の議題は、二十世紀の不条理文学の極北にして、孤独と疎外の深淵を描き出した、フランツ・カフカの不朽の名作……『変身』よ!」


(一ノ瀬、テーブルに古びた海外文学全集の一冊を、恭しく置く)


一ノ瀬「ある朝、平凡な営業マンであるグレゴール・ザムザが、落ち着かない夢から目を覚ますと、自分が一匹の巨大な“毒虫”に変わってしまっていることに気づく……。あまりにも有名な、衝撃的な一文から、この物語は幕を開けるわ」


四方田「あ、知ってます! なんか、虫になっちゃったせいで家族からだんだん疎まれて、最後は孤独に死んじゃう、めっちゃ救いのない話ですよね……。思い出すだけで、胸がギュッてなります……」


一ノ瀬「ええ、その通りよ、四方田さん。真面目に働き、一家を支えてきたグレゴールが、ただ姿が変わってしまったというだけで、言葉も通じなくなり、家族からコミュニケーションを拒絶され、最終的には“あれ”と呼ばれ、邪魔者として扱われる。そして、ひっそりと息絶えた彼の亡骸は、女中によってまるでゴミのように片付けられてしまう……。これほどまでに、存在そのものを否定される悲劇が、他にあるかしら……!」


(うっとりと、しかし悲しげに天を仰ぐ一ノ瀬)


二階堂「……部長の感傷的な要約はさておき、論理的に見れば、これは一つの密室で起こった、極めて陰湿な心理的追い込み事件ですよ。労働能力を失った家族を、他の家族がどう切り捨てるかという、冷徹な記録。グレゴールの死因も、直接的なものではなく、精神的ストレスと栄養失調による緩やかな衰弱死。ある意味、完全犯罪です」


三田村「……形態の不可逆的な変容。これは、個人に起因する事象ではない。外部からの干渉、あるいは環境要因による強制的な進化と見るべきです。グレゴールは、次世代のプロトタイプとして選ばれたが、旧世代のシステムである家族との互換性がなく、結果としてフリーズした。悲劇ではなく、実験の失敗ログです」


一ノ瀬「玲も宙も、解釈がドライすぎるわ! これは、魂の疎外の物語なのよ! ……けれど、この物語の根幹には、一つ、大きな“誤解”が横たわっているの」


四方田「誤解、ですか?」


一ノ瀬「ええ。私たちが慣れ親しんだ『毒虫』という翻訳。実はこれ、原文では“Ungeziefer(ウンゲツィーファー)”という単語なのよ。そしてこの単語は、特定の虫を指す言葉ではないの。本来は、生け贄に適さない、汚れた動物全般を指す言葉。つまり、虫けらに限らず、ネズミや、カラスのような鳥、あるいは得体の知れない小動物までをも含む、極めて広義な『有害生物』という意味なのよ!」


二階堂「なるほど。翻訳の過程で、ニュアンスが限定されてしまったわけですか。よくある話ですね」


四方田「えええっ!? てことは、グレゴールが変身したのって、ゴキブリとかじゃなくて、もしかしたら、ふわふわの黒猫とか、可愛いハムスターだった可能性も……ゼロじゃないってことですか!?」


三田村「……対象の定義が曖昧だった、と。なるほど、グレゴールの変身は、カフカという名のプログラマーが、変数の型を“any”で指定したために起きた、予測不能なバグだったのかもしれません」


一ノ瀬「その通りよ、みんな! もしも! もしもよ! グレゴールが変身したのが、あの醜い毒虫ではなく、もっと別の、愛らしい存在だったとしたら……。ザムザ一家の反応は、そして物語の結末は、全く違ったものになったのではないかしら!?」


二階堂「……確かに。家族の反応は、グレゴールの外見という情報に大きく依存しています。対象が『可愛い』と認識されるものならば、彼らの行動原理も変化した可能性は否定できませんね。興味深い思考実験です」


(一ノ瀬、パン! と柏手を打ち、待ってましたとばかりに部員たちを見回す)


一ノ瀬「ならば! 答えがないのなら、私たちが新たな可能性を提示すればいいのよ!」


四方田「え?」


一ノ瀬「題して、『変身・IFストーリー・ワークショップ』! カフカが描かなかった、あるいは訳者が切り捨てた、グレゴール・ザムザの新たなる『変身』の物語を、各自、自由な発想で執筆する! もちろん、変身するのは毒虫以外! そして、一週間後のこの時間、この部室で発表会を行う! これを、今回の我々の活動とするわ!」


二階堂「はぁ……またですか。ですが、まあ、いいでしょう。被害者の状態変化が、加害者側の心理に与える影響の分析。ミステリーのプロット演習としては、悪くないテーマです」


四方田「やったー! 面白そう! じゃあ私は、グレゴールがもふもふの可愛い小動物に変身して、最初は戸惑われるけど、最終的には家族みんなから溺愛されて、働かなくても幸せに暮らす、みたいな最高のハッピーエンドルート書きます! 尊い!」


三田村「……了解。では私は、グレゴールが、より高次の生態系に適応した、論理的で美しい、結晶生命体へと変異したケースをシミュレーションします。家族の、旧来の有機的価値観との間に生じる、認識の断絶を描写する」


一ノ瀬「いいわ、いいわよ、みんな! ミステリー、ハッピーエンド、SF! なんでもあり! 私はもちろん、カフカの魂を我が身に宿し、原作の持つ不条理と文学性を尊重しつつ、変身したのが『鳥』であった場合の、悲しくも、どこか希望のある、新たな悲劇を書き上げてみせるわ! さあ、創作開始よ!」


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議事録担当・書記(四方田)追記:

今週の宿題:カフカの『変身』を、主人公が毒虫以外に変身した話に書き直せ。……うちの文芸部、だんだん無茶振りがすごくなってきた気がする(笑)。でも、グレゴールくんが幸せになる話を考えられるの、めっちゃ楽しみ!

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