第55話 ビッグエッグ

――数年後。寛永十年、師走。


 白き息が京の町に滲み、空はどこまでも薄墨のように重たかった。  武蔵は、旅路の果てに江戸へと辿り着いていた。


 新たに築かれたばかりの、巨大な建築物を見上げる。

 まるでこの世の理を呑み込むかのような、その円形の天井。

 江戸城下、神田の地に突如として現れた異形の構造――


 “ビッグエッグ”。


 「まるで、天を覆う盃だな……」


 武蔵は呟いた。


 その建築は、肥後守細川忠利の庇護のもと、西洋の技術と東洋の知が融合して築かれた、武士・芸術家・思想家のための新たな“道場”であった。戦や血にではなく、“美”と“哲”にて勝負する場――。


 “武士が剣を置く場所”。

 そう、ある者は語った。


 武蔵もまた、かつて妙心寺で出会った小野お通の歌に心を揺らし、剣の外にある道を探していた。


 「剣ではなく、残すべき“形”があるのかもしれぬな」


 彼は、ふと懐から一冊の小冊子を取り出す。

 そこには、筆で綴られた見慣れた歌。


 > しのぶれど 心は琴に さやぐなり

 > 剣の道にも 影ゆらめけり


 あの夜、妙心寺にて詠んだ一首。

 お通から、江戸へと届けられたものだ。

 彼女は今、江戸の歌道会で名を高めていると風の噂に聞いた。


 ――もしかすると、この“ビッグエッグ”で、再び会えるかもしれない。


 そんな想いが、武蔵の胸の奥に静かに灯る。


 中へ足を踏み入れると、巨大な円形天井から差し込む淡い光が、まるで夢のように武士たちの影を揺らしていた。

 そこでは、能の舞が行われ、書が披露され、弓が放たれ、そして――琴の音が静かに流れていた。


 その琴のしらべに導かれるように、武蔵は足を進める。


 舞台の中央、小さく座しているひとりの女。

 白の小袖に薄紅の袴。黒髪は静かに揺れ、背筋は凛と伸びていた。


 その姿に、武蔵の歩みは止まる。


 ――まさか……。


 彼女がゆるやかに顔を上げる。

 その瞳に、微かに光が宿る。


 「……お通殿」


 「お久しうございます、武蔵様」


 ふたりの視線が交わる。


 剣と歌。孤独と余韻。

 異なる道を歩みながらも、ふたたび巡り合ったふたりの魂が、この“ビッグエッグ”という奇しき空の下で、静かに震えた。


 その日、江戸に集った文武百家の者たちは、語り継ぐことになる。


 > 「剣を捨てた者が、詩を綴る夜があった」と。


 武蔵は、その夜、再び一首を詠む。


 > 琴の音に 剣もまどろむ この宵は

 > 夢か現か ビッグエッグかな


 そして静かに、筆を走らせる。


 『五輪書』序章、ここに始まる――。


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美女が野獣★女なのに男みたいな勇者でゴメンね〜ゴメンね〜 5万超えるとエロス編突入! 鷹山トシキ @1982

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