第2話

 スルブの集落は、山々の中に点在する平らかな土地に人が寄り集まって暮らしている。隣の集落へ行くには山を二つ越えなければならず、冬になれば降り積もる雪が壁となって外界から隔絶される。ささやかで、こぢんまりとして、政や喧噪とは縁遠い場所。それが、ラティーファの故郷であった。

 父祖の土地を侵す異民族の話は、前々から耳にしていた。春から秋にかけて行商に行く男たちが、南方にあるオアシス都市を筆頭にして、騎馬に跨がった異郷の戦士たちから蹂躙されているという報せをもたらしたのだ。そのせいで懇意にしている商人や得意客と連絡が取れず、現状で冬を越えるには儲けが足りないという愚痴つきで。

 厄介なことになった、とはラティーファも思った。……が、所詮は他人事に過ぎなかった。

 というのも、ラティーファの縁者はその噂がもたらされた時点で一人としていなかったからだ。もともと両親が移住してきたことで故郷となった場所だし、母は十年前に、父は二年前に死んだ。天涯孤独となったラティーファは首長の邸で召使いとして働いており、商売に携わることも外の人間と関わる機会もない。外敵の話が持ち出されたところで実感を持てるはずもなく、気を尖らせるのはいつも身近にいる敵に対してだった。

 ──隣の集落へ嫁いだカノンが、嫁ぎ先へたどり着く前に姿を眩ませるまでは。


「びっくりしたでしょう? わたし、隣の集落へ向かう途中で、アディカに攫われたのよ」


 茶器を置き、悠然とカノンは笑みを浮かべた。なんでもないことのように語るが、強がっている風には見えない。本気で、現状を受け入れているのだ。

 身を清め、清潔な衣服を提供されても、ラティーファの心は落ち着かないままだ。何とも言えない違和感に包まれながら、言われるがままにカノンの待つ部屋へと連れてこられて今に至る。正直、呑気にお喋りする気分ではないが、売買された身の上で異を唱えられるとは思えなかった。

 ここはかつて、周辺地域を治めていた領主の邸宅であるらしい。前の住人は問答無用で追い立てられただろうが、調度品は綺麗に残っている。てっきり破壊の限りを尽くすものだと考えていたが、異民族たちも使えるものは残しておきたいのだろうか。


「──それでね、わたしのことをお嫁さんにしたいって言われちゃって。断る理由もないでしょう? それで、あの日からわたしはアディカのお嫁さんになったの。もっとびっくりするかもしれないけど、アディカってジーウ──あ、この民たちのことね? その中で一番偉い王様の、弟さんの子なんですって。お父君が北の方を攻めているから、南の軍を率いているのよ。王子様みたいなものって言えば、わかるかな。とにかくわたし、一晩でお姫様になっちゃったのよ。すごいことだと思わない?」


 ぼんやりしているうちに、カノンの話はだいぶ先まで進んでいた。心なしか、話し始めよりも早口になっている気がする。

 要するに、輿入れの途中でアディカたち異民族──ジーウと呼ばれているらしい──に誘拐されたカノンは、どういった経緯があったのかはさておき族を率いる長に相当する人物から見初められたらしい。豪奢な衣服や装飾品、個人に与えられるには広すぎる部屋、そして奴隷を意のままに購えるところからして、彼女の話は概ね真実だろうとラティーファは判断する。

 カノンが見初められるのは妥当だ。何せ彼女は美しい。若者の少ない集落の中でも、箱入り娘ということを差し引いても一番の器量よしとして持て囃されていた。大きな瞳に波打つ長い髪の毛、白磁の如き滑らかな肌は男たちの視線を否が応でも惹き付けるだろう。

 

「式はこれから挙げるのよ。アディカは、もう少し陣地を増やしてから、安心できる状態で夫婦になりたいんですって。初めはつまらないなって思ったのだけど、今となって考えてみたらかえって良かったのかもしれないわ。せっかくの式なら、ちゃんとした場所で上げたいし……それに、ラティーファに会えたんですもの! あなたがいるなら、式はもっと良いものになるはずだわ!」


 傷一つない柔らかな手が、比較しようもなく傷付いたラティーファのそれを包み込む。こちらの反応を待ってくれないのはいつものことだ。カノンはいつだって自分の速度で生きている。


「ねえ、ラティーファ。また、わたしの召使いとして働いたらいいわ。集落で過ごしていたのと、同じように。あの集落はとっても退屈だったけれど、ここは違う。わたしは幸せが約束されているんですもの。これからは素敵な毎日が待っているわ。きっとラティーファも、幸せになれるはずよ?」


 屈託なく口にするカノンを見つめ、この娘は何も変わっていないとラティーファは直感する。

 カノンはいつも倦んでいた。外界から隔絶され、娯楽が少なく、何かと過保護な親族に囲まれる集落での暮らしに。もっと楽しいことがしたいわ、と唇を尖らせる彼女の横顔を、何度目にしてきたことか。

 父親が死んで身寄りのなくなったラティーファを召使いとして引き入れたカノンは、あらゆる手段を使って退屈を凌ごうとしているように見えた。ラティーファに対しても、何かしらの新鮮な楽しみを求めていたのかもしれない。

 今のカノンは本当に幸福そうだ。今まで生きてきたどの瞬間より、満ち足りているのだろう。そんな中に自分が介入できるのかという疑問を覚えながら、ラティーファはようやっと口を開く。


「……お嬢様は、」

「名前を呼んで構わないわ。ここはアディカのおやしきよ。アディカがわたしをカノンと呼ぶのだから、わたしは何よりもカノンなのよ」

「……では、カノン様。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 なあに、とカノンが首をかしげる。肯定の意と受け取ったラティーファは、小さく息を吸い込んだ。

 

「スルブの集落がどうなったかはご存じですか。あなたの夫となる男が、故郷をどうしたのか。結果はお聞きになられましたか」


 カノンが誘拐されてから、スルブの集落はやにわに混乱へと陥った。噂に聞く獰猛な異民族が、ついに自分たちの喉元まで迫っているかもしれないと。

 別の共同体へ危機を伝える前に、彼らはやって来た。こちらに恭順の意を問うこともなく、無心で進める作業のように、ラティーファたち民が培ってきた全てを蹴散らした。スルブの集落は、顧みる価値すらない小さな障害物に過ぎなかったのだ。

 大人は皆殺し、若い娘と子供は引っ捕らえられて売り飛ばされた。カノンの両親も、共に暮らしてきた親族も、今頃は他の民といっしょくたに穴の中へと放り込まれ、埋め立てられてしまっただろう。

 夢見心地でいる娘は、その事実を知っているのか。いずれ夫となる男の所業を知って尚、幸せな花嫁を夢想できるのか──ラティーファは問いたかった。だって、問えるのはきっと自分だけだから。

 かしげた首をゆっくりと戻し、紅を乗せたカノンの唇が弧を描く。再会してから、彼女はずっと笑顔だ。今も変わらず、微笑んでいる。


「知らないわ。でも、予想はできる。アディカがやることは決まり切っているもの」

「……思うことは、ないのですか」

「興味がないのだもの。わたしはこれからアディカの妻になる、それが一番大切なことでしょう? 関係のないことを考えていられる程、ここは退屈じゃないの。今がとても幸せなのだから、それで良いんじゃないかしら? 逆にラティーファは、何を気にしているの?」


 あっけらかんと答えられるカノンは、もしかしたらこの世の誰よりも幸せなのかもしれない。いや──むしろ彼女は、本当の不幸を知っているのだろうか?

 項垂れてしまったラティーファに、カノンが何を見出したのかはわからない。少なくともこちらの真意を悟ることなく、彼女は顔を覗き込んだ。


「何も悲しむことはないわ、ラティーファ。アディカの兵たちはね、今まで負けなしなのよ。天の裁きでも下らなければ、わたしたちが脅かされることはないわ」


 カノンの慰めは、何一つラティーファの心を動かさない。ただ、この娘はどこに行っても変わらないのだという諦めを生み出しただけ。

 同郷の自分が側にいたとしても、いずれカノンはスルブの集落を忘却するだろう。アディカの妻でいることが何よりの優先事項となり、親族や故郷を奪われたことに思考を割くこともなく、敵の中に溶け込み、自分もその一員だと平気で宣う。そんな未来が、ありありと見える。

 ますますうつむくラティーファに、カノンは困り顔で眉尻を下げた。泣かないで、と呼び掛けられたが、ラティーファに泣くつもりなど毛頭ない。涙はとうに涸れ果てていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る