祝える遠火

硯哀爾

第1話

「あなた……もしかして、ラティーファ?」


 思ってもみなかった時に名を呼ばれ、ラティーファは反射的にうつむけていた顔を上げる。顔の左側に散らばる火傷痕を隠すことも忘れて。

 目の前に、華やかな装束に身を包んだ女がいる。女と言っても、まだ少女とのあわいにあり、そのかんばせには一抹のあどけなさが残っていた。

 とてもこの場に似つかわしくない女だ。ここは、峻険なる山脈を越えてやって来た騎馬民族によって掠奪された女たちを売買するための市場──扇情をそそる出で立ちの娼婦はいても、重厚にめかしこみ、肌もほとんど出していない深窓の令嬢じみた恰好の女が来るところではない。

 いや──どれだけの違和感があろうとも、ラティーファにとっては全てが些末なこと。問題は、何故この女がここに立っているのか──その一点だけだ。


「……カノン?」

「ええ、そうよ! スルブの集落で育ったカノン。嬉しい、またこうして会えるなんて!」


 恐々と相手の名を口にしてみれば、間髪入れずに抱き締められた。衣服に焚きしめられているのであろう香がふわりとラティーファの鼻先を掠める。

 同郷の娘──カノンの背中に腕を回す気にはなれなかった。煤と土で汚れた自分の手と、豪奢で煌びやかなカノンの衣。とても並び立って良いものではないし、そもそもラティーファが並び立ちたくなかった。


「──カノン、その娘は知り合いか?」


 いつまで経っても離れようとしないカノンの後ろから、活力に満ちた男の声が聞こえる。そっとラティーファが顔を上げれば、そこには背の高い、壮健そのものといった美しい若者が微笑みを浮かべて佇んでいた。短く刈り込まれた頭髪に、騎馬に適した身軽な──しかし艶めきで上等とわかる──衣服に身を包んだ彼は、恐らくこの奴隷市場を運営する側の人間だろう。つまるところ、ラティーファの故郷たる集落を蹂躙した異民族。

 思わず硬直するラティーファとは対照的に、カノンはぱっと顔を上げて彼に向き直った。背中を向けられてしまったので正確なところはわからないが、きっと満面の笑みで若者に向き合っていることだろう。


「そうよ、アディカ! 同じ集落の、同じ年に生まれた子なの。また会えないかって、ずっとずっと探していた子よ」

「なるほど、幼馴染みってやつか。お前が毎度毎度奴隷市場についてくるのはそういうことだったんだな」

「ええ、わたし、ラティーファに会いたくて仕方がなかったの。ねえ、ラティーファのことを買わせて? せっかく再会できたのにまた離ればなれだなんて、そんなの嫌よ。ラティーファがかわいそう」


 甘えた声色でねだるカノンを前にして、ラティーファは二人の関係性をなんとなくだが察してしまった。俗な言い方をすれば、二人はできているのだろう。故郷を滅ぼした側と滅ぼされた側、その垣根さえも飛び越えて。

 そして、スルブの集落では首長の娘という立場であったカノンが、どういう訳か自分を買える立場にいることも、ラティーファは同時に悟る。出で立ちからも察せられることではあったが──どうやらカノンは、顔を合わせていない間に今をときめく騎馬民族に溶け込むばかりか、その中でもとりわけ恵まれた場所へと至っていたらしい。

 アディカと呼ばれた若者は、カノンのわがままに慣れきっているのか、それとも別の意図があるのか──ちらりとラティーファを一瞥してから、呆れたように肩を竦めた。しかしそこに失望や否定の色はなく、あくまでも微笑ましげな眼差しをカノンに注いでいる。


「まったく、カノンの欲しがりはどこでも変わんねえな。いいぜ、減るものでもない。あの陣営じゃむさ苦しいし、お前の気晴らしにもちょうどいいだろう」

「やったあ! アディカなら、そう言ってくれるって信じてた。ね、ね、そうと決まればさっそく行きましょう? いつまでもこんなところにはいられないわ。──そうでしょう、ラティーファ?」


 アディカの目配せと共に、彼の後ろに控えていた側近と思わしき男がするりとラティーファの背後に回る。剣を抜かれる気配を感じて思わず身を強張らせたが、後ろ手に縛る縄を切られただけだった。


「ふふっ、怖がらなくってもいいのよ。ラティーファ、これからのあなたには幸せな道しか残されていないんだから」


 呆然として立ち上がれないでいるラティーファの手を掴んで引き上げながら、カノンは軽やかに嘯いた。誰に何を言われても、自分の言葉こそ正しいのだと信じ切った口振りで。

 周囲に焚かれる篝火が、カノンの表情をくっきりと浮かび上がらせる。幸せを約束した娘は、この場の誰よりも幸福感に満ちた目をしていた。

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