49話:大公閣下の出張授業
馬車の揺れが、やけに骨に響く朝だった。
(まさか、本当に行くことになるとはな……)
加賀谷は、窓の外を眺めながらぼんやりと息を吐いた。
市街地の通学路を歩く学生たちとすれ違うたび、馬車の護衛がさりげなく視線を向ける。加賀谷の正体までは気づかれていない──はずだ。
きっかけは数日前。投ヴァルド・レヴァンティスがぽつりと口にしたのだ。
「今後、仕組みを動かすには“制度を理解している若者”が不可欠です。できれば──大公自ら学院で語ってみてはいかがでしょう?」
あの男のことだ。ただの提案ではない。
“今、貴方が出る意味がある”という判断のもとでの発言だった。
(……まあ、分からんでもない。誰かが顔を出さなきゃ、信用も根づかない)
この国の若者たちは、“大公”といっても実感がない。
過去の政変や混乱のせいで、政治そのものに懐疑的だ。
だがその一方で、“自分たちが未来を作る”という志を持つ者も、必ずいる。
加賀谷は、そこを見に行くつもりだった。
制度を語るだけなら文官でいい。資料を配るだけなら学院で済む。
けれど──その先に進むには、“誰に預けるか”を見定める必要がある。
(投資の出口は“回収”だけじゃない。人材だ。……仕組みを回す人間を、この国に残す。俺の仕事はそこまで含めて完結だ)
馬車が学院の正門前で止まった。
門前には学院の教務官らが並んでいたが、加賀谷の顔を見るなり、ほとんど固まった。
「──た、大公……自ら、おいでに?」
「言い出したのはそっちの陣営だろ」
冗談めかして言うと、教務官たちは一斉に頭を下げた。
学院は政庁からやや距離のある位置に建てられた高台の施設で、もともとは貴族子弟の受け入れを目的としていた側面もあるが現在は平民や商人の子弟も多数在籍しており、実務的な科目に特化した“産業交流科”や“会計技術科”なども増設されている。
その中心講堂で、今日の講義が予定されていた。
「教室は階段式で、収容人数は百五十ほど。今回は産業系の実務科目の生徒が中心になります」
教務官が案内しながら説明する。
だがその横顔には、まだどこか緊張の色が残っていた。
(まあ、大公が教えるなんて“前代未聞”だよな)
それでも──
「今日話すのは、俺個人の立場でもある。
制度でも、法律でもなく、“誰がこの国を動かすか”って話をしに来たんだ」
教務官たちは驚いたように顔を上げた。
だが、そこにはほんのわずかに安堵も滲んでいた。
やがて講堂の扉が開かれ、生徒たちのざわめきが聞こえてきた。
その瞬間、加賀谷は一つだけ、自分の中で決めていたことを思い出す。
(この国に、“仕組み”を根づかせるには、選ばれる人間じゃなく、“選べる人間”を育てなきゃいけない)
加賀谷は静かに講堂へと足を踏み入れた。
百を超えるまなざしが、一斉に彼を迎えた。
* * *
──公都執務室
午後の陽光が、静かに差し込んでいた。
加賀谷の執務室。主の不在中、その机を丁寧に整えているのは、専属侍女のノアだった。
任命されたのはごく最近だ。
身元も不明な少女を近侍につけるなど、周囲は反対されるかと思ったがすんなり受け入れられた。
ノアは侍女になることを命じられた時も反論もしなかった。命じられたことを、ただ静かにこなしてきた。
いまも、机の上に無造作に残された書類を無言でまとめていく。
道具の置き方、端末の角度、筆記具の配置──すべてを“元どおり”に戻すのが、彼女の日課だった。
その中に、一枚だけ――色の違う紙が紛れていた。
〈学院講義用・出席予定者名簿〉と記されたそれは、今朝加賀谷が確認していた資料の一部らしい。
ふと、目に留まる名前があった。
ユリス・アーヴェル
ノアの指が、ぴたりと止まった。
(……この名前)
意識に引っかかる。
どこかで聞いた。いつ、誰が、どんな状況で……そのあたりは霞がかかったように曖昧だった。
でも、ただの偶然とは思えなかった。
静かに名簿を閉じ、机の所定の位置に戻す。
それだけで済ませればよかったのに、ほんの一瞬、目が離れなかった。
湯を沸かしていた魔導ポットが、音もなく蒸気を上げる。
ノアは何事もなかったように小さな湯呑を用意し、茶葉をひとつまみ、丁寧に落とした。
加賀谷が好む、渋味の強い黒茶だった。
いつ戻ってくるのか、日付は知らされていない。
湯呑を机の端に置いてから、ノアは一度だけ振り返る。
部屋には誰もいない。けれど、なぜか言葉にしてみたくなった。
「……無事帰ってきてね」
当然、返事はない。
けれどその声は、彼女の中では十分だった。
加賀谷の専属侍女。
役割は、掃除でも、給仕でもない。
――ここで、待っていること。
ノアは何事もなかったように、また静かに掃除へと戻った。
◆あとがき◆
ノアが久しぶりに登場。
学院ではとうとう加賀谷の授業が始まります。
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