第10話 テレビの中の真実
決行前夜。
発たちはルカスの包囲網から逃れるため、郊外の廃工場に身を隠していた。
清掃車を改造した移動作戦司令室の屋根の上で、
眼下では仲間たちがそれぞれの準備を進めている。
その穏やかな喧騒が、発には嘘のように遠く聞こえる。
「明日、もし失敗したら……、どうなるんだろうね……」
葵が膝を抱えながら不安げに呟いた。
夜の空気に溶けてしまいそうなくらい、か細い声だった。
「大丈夫」
発はいつものように即答した。
だが、その声には単なる論理的な帰結ではない、確かな温かみが込められていた。
「僕一人だったら、きっと今頃、諦めていた。
ルカスの作り上げた盤上のルールの中でしか戦えない、ただの駒だったかもしれない。
でも今は違う。橘警部がいる。蜂谷さんや天童さんも伊集院もいる。そして……」
そして発は、葵の方をまっすぐに見つめた。
「……葵がそばにいてくれるから。僕はもう一人じゃない」
発の真っ直ぐな言葉に、葵は発の顔を見つめ返すことができなかった。
葵は心臓が自分のものではないみたいに大きく脈打つのを感じ、俯いたまま、小さく、しかし力強く頷いた。
「うん……。私も、アタルくんがいるなら怖くないよ」
二人の間に、いつしか友情以上の確かな絆が生まれていた。
それは世界の終わりを前にしたらあまりにもささやかで、けれど何よりも強い光だった。
決行当日。
巨大なテレビ局のビルは、ルカス・ミュラーという現代の救世主を迎えるために、いつも以上の厳重な警備体制が敷かれていた。
ルカスが特別ゲストとして出演する生放送番組『フューチャー・アイズ』は、ハーモニー・システム導入後の素晴らしい世界を喧伝する、国の一大プロパガンダ番組と化していた。
放送開始時刻、午後8時。
「皆様こんばんは! 前人未到、抱腹絶倒! 笑いの成分ビタミンZ!
お聞き苦しい点、お見苦しい点、多々あるかと思いますが、これより前代未聞の爆笑路上ライブ、開演でございます!」
テレビ局の正面ゲート前。
元コメディアンの蜂谷が拡声器片手に、清掃車の荷台の上を即席ステージにして派手にネタを始めた。
「そこのお兄さん! その穏やかな顔、いいねえ! よく見たら他のみなさんも同じ表情をしていらっしゃる!
月額のサブスクで貰えるお揃いのアバターかなんかですか?
そんな穏やかな表情をしてても、心の底では話の通じない部長の頭をサンダルで引っ叩いてやりたいと思ってるんじゃないの?
隠さなくても大丈夫!
一般的な会社員の約96%は、一度は毎日上司が箪笥の角で小指をぶつけて痛みに悶えればいいと考えてるらしいですよ! あ、ソースは私です。
でも最近はどうですか? みーんなが上司に悶えて欲しいと思っていたのに、ここの所、そんなの考えた事もないでしょう?
あなたの熱い想い、どこに行ってしまったんでしょうね?
それとも熱い情熱を無くすことも、地球温暖化対策だったりするんですかね!?」
放送では使えない過激な風刺ネタ。
それはハーモニー・システムによって感情の振れ幅を強制的に抑制された人々の脳にシステムの正否を問い、心の奥底に疑問を植え付ける。言うなれば心のハッキングだった。
穏やかな日常に慣れきった脳は、その情報の奔流を処理しきれず、人々は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ立ち尽くし、警備員たちも目の前で起こる異常事態に釘付けになった。
「動きが止まった! 陽動は成功だ!」
橘警部の運転する清掃車から、無線が飛ぶ。
「今だ! 行くぞ!」
テレビ局の裏口。
物陰に潜んでいた橘の合図で、発、葵、伊集院、そして少し遅れて天童が走り出す。
「ここの警備システムは、このキーで制圧できるそうです。ただし、ジャミングできるのは15秒が限界とのこと。
それから先は中央管制室に異常信号が飛ぶようになっているそうです。
警備室前は15秒で駆け抜けてください」
天童が橘警部から託された警備システムの制御盤に特殊なカードキーを差し込む。
ガチャン、という音と共に、目の前の重厚な電子ロックが解除され、通路の監視カメラのランプが緑から赤へと変わった。
15秒。常人ならば、ためらう時間。しかし、天童は冷静だった。
「行きますよ。私の歩幅に合わせてください。一、二、三……」
まるでオーケストラを指揮するかのように、彼は完璧なテンポで一行を導く。
その背中を発たちは必死で追った。
15秒後、彼らが扉を通り抜けた直後、背後でロックが閉まる無機質な音が響いた。
局内に侵入した一行を待っていたのは、迷宮のような廊下と無数の監視カメラだった。
「
天童は記憶の地図を頼りに淀みなく告げる。
「内部の警備員は2分おきに巡回します。
次に警備員がここの巡回をするまで、あと45秒。
この先の階段を使い、一気に4階まで上がります」
天童はかつて自身がこの局にゲスト出演した際に見聞きした全ての情報を、音として完璧に記憶していたのだ。
「葵くん、君の出番だ」
「はい!」
葵は通路の隅にある局内ネットのLANポートに、発が改造したタブレットを接続した。
「警備員のリアルタイム配置データ、建物の詳細図面、ロックされてるドアの電子キー情報……。全部引っこ抜いてやる……!」
彼女の指が猛烈な勢いで画面をタップする。
新聞部の活動で培った情報収集能力と発のタブレットにインストールされているハッキング技術が融合していた。
「見つけた! 5階の
これは……」
「ルカスの仕掛けた罠だ」
伊集院が葵のタブレットを覗き込み、即座に看破した。
「奴のやりそうなことだ。だが、好都合だ。その罠に食いついてるフリをして、奴の意識をこっちに引きつける。
その間に、所賀は天童さんとスタジオへ向かえ」
「分かった」
発は頷き、葵と伊集院に後を託した。
「気をつけて、アタルくん!」
「さっさとケリつけてこいよ!」
二人の声を背に、発は天童と二人でスタジオへと向かう。
一方、残された葵と伊集院は
「プロテクトが固い……! だが、こいつの思考パターンには覚えがあるぜ……!」
伊集院は自作の端末をドアの制御パネルに接続し、発に負けない凄まじいタイピングを開始した。
モニターには伊集院が放つ攻撃コードと、それを迎撃するルカスのAIの防御コードが火花を散らすように交錯する。
「天童さん、ここの空調ダクトは通れますか?」
「直径50センチ。人が一人、ギリギリ通れるサイズです。
抜けた先には、スタジオの真上にある照明用のキャットウォークがあります」
「了解。ダクトのカバーを外せますか?」
「警部から道具は色々と預かってきていますので可能かと」
天童の記憶と伊集院のハッキング、そして葵の情報収集が見事な連携プレーで道を切り開いていく。
生放送スタジオ『フューチャー・アイズ』。
ルカスは司会者と穏やかに談笑していた。
完璧に管理された社会の素晴らしさを語るルカスの言葉に、観客たちは穏やかな笑みを浮かべて頷いている。何一つ、滞りなく進む、完璧なショー。
その完璧な調和を、一人の少年が打ち破った。
スタジオの隅の階段を下りて、発が姿を現す。
警備員が制止するより早く、発はスタジオの中央へと躍り出て、スポットライトを浴びるルカスと対峙した。
突然の乱入者にスタジオは騒然となる。
だが観客たちの表情は、驚きよりも「なぜ、この完璧な調和を乱す者がいるのか」という、純粋な困惑に満ちていた。
「ルカス! こんな形で君と再会したくはなかったよ……。
君の偽りの平和は、僕が終わらせる!」
発の叫びがマイクを通してスタジオ中に響き渡る。
ルカスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに余裕の笑みを取り戻した。
「アタル……。まだそんなことを言っているのか。
……哀れだね。君は過去の幻影に取り憑かれている。
人々が求めているのは君の言うような不確かな自由じゃない。僕が与えた、確かな幸福だ」
ルカスが指を鳴らし、警備員たちに指示を出そうとした、まさにその瞬間だった。
「もらったァ!」
彼の放った最後の攻撃コードが、ついに放送システムのメインフレームを陥落させたのだ。
スタジオの全てのモニターが、一斉に切り替わった。
セット映したカメラも、番組のロゴも、全てが消え、そこに映し出されたのは憔悴しきった表情で語りかける、今は亡き御子柴博士の姿だった。
『このメッセージを君が見ているということは、私に何かがあったのだろう……』
博士が遺した、最後のビデオメッセージ。
その告発が全国の、いや、世界中の家庭に生放送で届けられた。
『……単刀直入に言う。ルカスくんが解いたとされるハイパーミレニアム問題の公式には、致命的な誤りがある……』
ルカスの顔から血の気が引いていく。
完璧だったはずの仮面が音を立てて剥がれ落ち、その下に隠されていた、ただの孤独で臆病な少年の顔が露わになる。
「なんだこれは……!? 止めろっ! 今すぐに映像を止めるんだっ!!」
ルカスが大声で命令するも、誰もがモニターを注視していて、その声は届いていなかった。
『……だが、勘違いしないでくれ。私は彼の才能を微塵も疑ってはいない。
むしろ、その誤りの先にこそ、誰も見たことのない真のブレークスルーがあると確信していた……』
博士の悲痛な声が静まり返ったスタジオに響く。
ハーモニー・システムによる支配を救いだと信じていた観客たちも、その言葉に動揺を隠せない。
穏やかだった彼らの顔に、疑念、困惑、そして裏切りという忘れかけていた感情の色が、ゆっくりと戻り始めていた。
「やめろ……」
ルカスの唇から、か細い声が漏れた。
「やめてくれ……!」
全てを暴かれ、観客席からの疑いの目に晒され、逃げ場を失ったルカスは、ついに幼い子供のように絶叫した。
「僕にはこれしかないんだ! 僕から奪わないでくれ! また一人ぼっちになる!
あの暗くて寒い部屋に逆戻りは嫌なんだっ! 僕の居場所がっ――!」
それは、彼の魂からの叫びだった。
その凄まじい「絶望」と、真実を知った国民の心に芽生えた「裏切られた」という強烈な「怒り」。
その二つの巨大な負の感情が、最後の引き金となった。
――ズズズ……ン。
ビルの、いや都市の、いや大地そのものの奥深くから、巨大な心臓が脈打つような不気味な振動が始まった。
「……この振動。まさか、『イド・リアクター』の暴走……?」
ルカスが目を大きく見開き、ジャケットの内ポケットからスマホのようなものを取り出し、画面を見て、力無く膝から崩れ落ちた。
「暴走っ……!?」
発の問いがルカスに届く前に激しく建物が揺れ始め、スタジオの照明が火花を散らしながら、大きな音を立てて次々と落ちていく。
激しい揺れに機材が倒落し、人々は悲鳴を上げて床に伏せる。
発が窓の外に目をやると、信じられない光景が広がっていた。
テレビ局の敷地にできた地面の亀裂から噴き出た黒い気体のようなものが奔流となって天を覆い尽くし、空がまるでインクをぶちまけたように急速に夜ではない黒に染め上げられていく。
それは、世界の終わりを告げるカタストロフの始まりだった。
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