第9話 たった二人の反逆




 アタル・ラボは、静かな孤島だった。


 窓の外の世界は、ルカスの『ハーモニー・システム』によって、不気味なほどの平穏を保っている。

 だが、ラボの中だけは世界から切り離された戦場だった。


「ダメだ……。またブロックされた……」


 所賀発ところが あたるは吐き捨てるように呟き、コンソールのエンターキーを力なく叩いた。キーボードの乾いた音だけが、張り詰めた室内に虚しく響いた。


 ハーモニー・システムの危険性を告発するデータをネットに公開しようとしても、ルカスのAIが先回りして全ての通信経路を遮断する。

 匿名性の高い海外サーバーを経由しようとすれば、そのサーバー自体が物理的にオフラインにされる。

 まるで巨大な蜘蛛の巣の中心で、巣の主がこちらの動きを全て読み切り、弄んでいるかのようだった。


「焦らないで、アタルくん。少し休んだら? 三日もまともに寝てないでしょ?」


 日高葵ひだか あおいが温かいココアの入ったマグカップを、そっと発の隣に置いた。

 葵がこのラボに食料や着替えを運び込み、発の身の回りの世話をするようになって、もう一週間が経つ。


「休んでいる暇はない」


 発は、モニターから目を離さずに答えた。


「ルカスは僕の思考パターンを完全にアルゴリズム化して、次の一手を予測している。

 僕が合理性に基づいて行動すればするほど、彼の術中にはまる。

 チェスで相手に全ての定跡を読まれているようなものだ。

 ……このままじゃ、僕たちはただ、じわじわとチェックメイトに追い込まれるだけだ」

「難しいことは分からないけど……」


 葵は発の隈のできた横顔を心配そうに見つめた。


「アタルくんはチェスの駒なんかじゃないよ。

 ……それに、私はアタルくんの方がすごいって知ってるから」


 発は葵の言葉に温かさを貰ったが、何も言い返せなかった。

 言葉は素直に嬉しかったけれど、気を緩められるほど状況は優しくなかった。


 テレビのニュースは連日、発の顔写真を晒し上げ、「社会の調和(ハーモニー)を乱す危険思想を持つテロリスト」と報じている。

 穏やかな笑みを浮かべたアナウンサーが淡々とした口調で、発が過去に解決した事件すらも「社会不安を煽るための自作自演だった可能性」に言及していた。


 真実は捻じ曲げられ、ルカスは発を明確な民衆の敵とすることで安全を脅かす存在として敵意を着々と培養していた。

 ルカスの作った偽りの平和のシステムに抗うことを決めた発だったが、その対決の舞台にも立てない自分のあまりの無力さに、発の心は鉛のように重く沈んでいた。




 ――クロノス・インダストリーの最上階。


 CEOオフィスで、ルカスは巨大なモニターに映し出されたアタル・ラボの内部映像を、まるで上質なワインを味わうかのように愉悦と共に眺めていた。


「実に哀れだね」


 ルカスは傍らに立つホログラムのAIアシスタントに話しかけた。


「AI、所賀発の現在の心理ステータスを分析しろ」

『分析結果を報告します。ストレスレベル92%、焦燥感88%、そして無力感が75%まで上昇。論理的思考能力は維持されていますが、有効な打開策を見出せないことによる精神的疲弊が顕著です』

「だろうね」


ルカスはくつくつと喉を鳴らした。


 「アタルは盤上のルールを完璧に理解している。だからこそ、ルールそのものを支配している僕には決して勝てない。

 彼が次に打つ手は? ゲリラ的な情報発信かな? それとも、物理的な脱出?」

『予測パターンG-7。外部協力者との接触を試みる確率が67%まで上昇しています。しかし、対象の通信手段は完全に我々の監視下にあり、物理的接触も半径5キロ以内に設置された監視網によって未然に防ぐことが可能です』


 ルカスは椅子から立ち上がり、窓の外に広がる完璧に管理された都市の夜景を見下ろした。

 争いも、怒りも、悲しみもない、静かで美しい世界。

 ルカスだけが創造できた幻想の箱庭。


「どうしたんだい、アタル。君ほどの天才なら、このくらいの壁は乗り越えてくれると思っていたのに。

 君と僕、二つの太陽が互いを高め合う……。御子柴博士は、そんな夢物語を信じていたじゃないか」


 彼の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。


「でも残念ながら有史以来、天に昇る太陽は一つ。

 この世界を照らす光は、僕一人で十分だ。

 さて、そろそろこの退屈な実験も終わりにしてあげようか。君という最後の不協和音を消し去って、僕のシンフォニーを完成させる時だ」


 彼は指先一つで、眼下の警視庁に最高レベルの警備出動を要請した。

 ターゲットは「アタル・ラボ」。

 目的は、危険人物・所賀発の完全なる無力化。


「チェックメイトだ、アタル」





 アタル・ラボの静寂は、唐突に破られた。


 建物の外から響く、幾重にも重なったサイレンの音。窓から外を窺った葵が、息を呑んだ。


「アタルくん……!  警察の機動隊が……!  ラボが、完全に包囲されてる……!」


 黒い装甲服に身を固め、ジュラルミンの盾を構えた隊員たちが、ラボを蟻の這い出る隙間もなく取り囲んでいた。

 やがて、拡声器を通した感情のない冷たい合成音声が響き渡る。


『アタル・ラボ内にいる所賀発に最終通告する。

 君の行動は、社会全体の調和を著しく乱す行為と認定された。速やかに投降し、ラボの対抗システムの再調整に応じなさい。

 抵抗を続ける場合、午後3時をもって我々は強制捜査に踏み切る』


 壁のデジタル時計を一瞥すると、無情にも「14:45」という数字を示していた。

 残り、15分。


「……もう、終わりなのかな」


 葵が震える声で弱音を吐いた。

 発は彼女の肩を抱き寄せることもできず、ただ唇を噛みしめる。


「ごめん、葵。僕が、……僕が君を巻き込んだせいだ。

 僕が捕まっても……、君は見逃してもらえるように交渉してみるから」


 葵は涙を浮かべながら、首を横に振った。


「逃げるのも、戦うのも一緒なら、捕まる時も一緒がいい! 

 私は、最後までアタルくんの味方だから……!」


 葵は目に涙を浮かべながら、発のシャツの裾を力強く掴んだ。


 その時だった。

 けたたましいエンジン音と共に、一台の大型清掃車が、どこからともなく猛スピードで現れた。

 そして、機動隊が築いた厳重なバリケードめがけて、躊躇なく突っ込んだのだ。


 反射的に身をすくめて、耳を塞ぐほどの凄まじい衝突音。

 鉄の塊であるバリケードが、まるで子供のおもちゃのように吹き飛ばされる。

 突然の奇襲に統率の取れていたはずの機動隊員たちはうろたえ、場は混乱に陥った。


「な、何だ、あの清掃車は! 早く止めろ!」

「だめです、隊長! バリケードを突破されます!」


 強引に道をこじ開けた清掃車はラボの目の前で急停車した。

 運転席のドアが開き、見慣れたくたびれたスーツ姿の男が、ゆっくりと降りてくる。

 橘警部の姿を確認した現場の指揮官が拡声器を使って怒鳴りつけた。


「橘警部!? あなた、一体何を考えているんですか! これは正式な作戦行動です! 公務執行妨害で逮捕しますよ!」

「悪いな」


 男――橘警部はジャケットの内ポケットに手を突っ込み、ニヤリと笑った。


「俺はもう警部じゃない。今の世を憂う、ただの心配性なオッサンだ!」


 彼は懐から一枚のくしゃくしゃに丸められた紙を取り出すと、指揮官の目の前に広げてみせた。

 それは殴り書きのような文字で書かれた、一枚の辞職願だった。


「こんなくだらんシステムに魂まで売り渡すほど、俺の正義は安くないんでな!

 さあ、どうする? 一般市民の俺を理由もなく撃ってみるか?」


 橘の気迫に指揮官はたじろいだ。


「小僧! 嬢ちゃん! ぐずぐずするな! こんな茶番に付き合ってる暇はないぞ!」


 橘警部の怒鳴り声に、呆然としていた発と葵は、ハッと我に返った。

 そして、希望は一人だけではなかった。

 清掃車の荷台の扉が開き、そこから、信じられない顔ぶれが次々と飛び出してきたのだ。


「よお、天才少年! こんな笑えない世の中、黙っちゃいられなくてな! 面会に来てやったぜ!」


 最初に現れたのは、派手なスーツを着た、痩せた男だった。

 自分の才能が認められない絶望から、強制爆笑事件を起こした元コメディアンの蜂谷はちや


「君の奏でる未来を聴きに来た。

 画一的な音しかない世界は、私にとっては地獄と同じだ」


 次に姿を見せたのは、静かな佇まいの、元天才指揮者・天童宗一てんどう そういち


「……所賀」


 最後に気まずそうに、しかし決意を秘めた目で発を見つめたのは、かつて発に挑戦状を叩きつけた伊集院悟いじゅういん さとるだった。


 彼らは皆、一度は道を踏み外しながらも、発によってその歪みを正された者たち。

 そして、その強烈な個性と確立された自我は、ハーモニー・システムの画一的な支配を本能的に拒絶していた。


「どうして……、皆さんが……」


 発が呆然と尋ねる。

 そんな発にコメディアンの蜂谷が、おどけた調子で肩をすくめた。


「ここにいるみんなは、君のおかげで目が覚めたんだよ。

 俺はお笑いを使って人を操りたかったんじゃない。目の前にたった一人でも浮かない顔をしているヤツがいたら、笑顔にしたくてお笑いを始めたんだって。

 だけど、こんな能面みてえな奴らしかいない世の中じゃ、俺の商売上がったりでな! 俺の人類爆笑計画の為にも、一発、どデカい花火を打ち上げに来てやったのさ!」


 天童が静かに続けた。


「君の行動は無謀だが美しい。まるで未完成の交響曲のようだ。

 この偽りのハーモニーを打ち破る為の不協和音……。

 それを最後まで聴き届けたいと思った」


 そして、伊集院が真っ直ぐに発の目を見て言った。


「勘違いするな、所賀。俺はお前の為にここにいるんじゃない。俺自身のプライドの為だ。

 俺はお前に負けた。

 だが、お前に負けたからこそ分かったんだ。

 俺はお前になりたかったんじゃない。お前を、俺自身の力で超えたかったんだ。

 借り物の力で笑顔になるってのは間違ってるって、今は俺も、そう思うから」


 橘警部が自らの職と信用を賭して、服役中だった彼らを「重要事件の捜査協力者」という名目で、独断で連れ出してきたのだ。


 孤独だった天才の周りに、頼もしすぎる異色の仲間たちが集った瞬間だった。




 清掃車を改造した移動作戦司令室。

 その薄暗い車内で、発は反撃の計画を告げた。


「計画は一つ。ルカスが直接出演し、彼の栄光の象徴となっている場所。

 ルカスがメインスポンサーを務める、討論番組の生放送スタジオをジャックします」


 彼の目に、数日前の疲弊した光はもうない。

 孤独な戦いは終わりを告げ、仲間という新たな変数を得た彼の頭脳は勝利への数式を弾き出し始めていた。


「そして、ハーモニー・システムの危険性と御子柴博士の死の真相を、僕自身の口から世界に暴露します」


 その大胆不敵な計画に、仲間たちの顔に緊張と興奮が走る。


「面白えじゃねえか!」


 蜂谷が拳を握った。


「陽動は任せとけ。俺の芸で連中の無感動な脳みそをオーバーヒートさせてやるぜ!」


 蜂谷が意気揚々と肩を回す隣で、天童は落ち着いた口調で言葉を紡ぐ。


「局内の構造、人間の動線、音の響き方……。

 何度もあそこには出入りしていたからね。内部の構造は記憶している。

 私が、君たちのコンダクター(指揮者)となろう。完璧なタクトを振ってみせる」


 天童が頼もしく告げ、静かに目を閉じる。


「放送局のシステムのハッキングは俺がやる」


 伊集院がノートパソコンを開いた。


「あれからこういうことを勉強する時間だけは有り余ってたからな。

 俺の力だけでもやれるってところをお前にも見せてやる」

「よし!」


 橘警部が運転席でハンドルを叩いた。


「物理的な突破口は俺に任せろ。

 それから局内の警備体制は、俺も刑事時代のコネで元部下から聞き出してある」


 最後に葵が発の隣で力強く頷いた。


「私はみんなのサポートをする!

 情報収集のバックアップは任せて!」


 発は集った仲間たちの顔を一人一人見回し、深く頷いた。


「ありがとう、みんな。

 今、ここから。僕たちの反撃を始める!」


 発の、たった一人の反逆は終わった。

 今、異色のチームによる世界を相手取った最大の逆転劇の幕が、確かに上がったのだった。

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