第11話 カタストロフ・トリガー




 ルカスの絶叫は、世界の終わりの産声だった。


 彼の魂が吐き出した底なしの「絶望」。

 そして、生放送を通じて瞬く間に世界中を駆け巡った「裏切られた」という強烈な人々の「怒り」。

 二つの巨大な負の感情が、最後の引き金となった。


 ゴゴゴゴゴ……!


 アスファルトが裂け、轟音と共に、テレビ局のビルが根元から激しく揺さぶられる。フロアの床に亀裂が走り、天井の鉄骨が悲鳴を上げて軋む。

 スタジオに残っていた人々は、なすすべもなく床に伏せ、ただ絶叫するしかできない。


「な、何が起きてるんだ!?」


 副調整室サブコンで、合流した橘警部がコンソールにしがみつきながら、伊集院と葵を庇って叫んだ。

 伊集院も葵もモニターに表示される無数のエラーコードと、ありえない数値を示すエネルギーグラフを呆然と見つめていた。


「ダメだ……! 放送システムどころじゃない……! 都市のインフラ全体が暴走を始めてる……!」


 伊集院の振り絞るような声が、悲痛に響いた。




「ルカス、君はこの状況を理解しているのか……」


 スタジオのセットの机で体を支えながら、発は床で身体を丸めて小さくなるルカスに問いただした。


「君が知っている事を教えてくれないか……。そうしないと、このままではたくさんの人が危険に晒される……」


 発の声が届いていないのか、ルカスは小さくなったまま身動ぎ一つしなかった。


 ――ドォォォン!


 外で大きな爆発音がして、直後に衝撃がテレビ局全体にビリビリと伝わり、建物が激しく揺れる。


「……人が死ぬかもしれないんだ!

 ……死については君の方がよく知っているはずだ。

 死から逃れるために博士の所に行った君なら、みんなが今抱いている恐怖が分かるだろ!?」


 天井のライトが外れてルカスのすぐ脇に落下し、ルカスがハッとしたように顔を上げる。


「この建物の地下深くに……、ハーモニー・システムの心臓、『イド・リアクター』がある。

 イド・リアクターは人類の負の感情を吸収し、時空を歪めるほどの高密度エネルギーへと変換する装置。

 おそらくこの状態は、リアクターが許容量を遥かに超える感情の濁流を受け止め、制御不能の暴走状態に入ったと思われる……」


 スタジオの巨大な窓ガラスが甲高い音を立てて砕け散った。

 吹き荒れる暴風と共に窓の外に広がっていたのは、もはや夜景ではなかった。

 天を衝いた黒いエネルギーの奔流。

 それは日々、人々が溜め込んできた憎悪、嫉妬、絶望、恐怖そのものの凝集体。

 精練された悪意の塊が、この星の物理法則を破壊し始めていた。


「あれ……、なに……」


 葵が震える指で空を指さした。

 黒い奔流が渦巻く空がまるで一枚の黒曜石の鏡のように、ミシリ、ミシリと音を立ててひび割れ、不安定になった部分がタイルのように剥がれ落ち、宙に霧散する。

 欠けた空の向こうには、この世界のものではない深淵が真っ赤な口を開け、そこから”それ”が姿を現した。


 燃えるような光を放ち、大地を目掛けて突き進んでくる、おびただしい数の巨大な岩塊。


 それは別世界線の厄災。


 物理法則を完全に無視し、歪んだ時空の扉を通って呼び寄せられた絶対的な破壊の化身。

 その塊の一つ一つが、都市を容易に消し去るほどの質量を持っていた。


「まさか隕石……? 嘘でしょ……?」


 葵の呟きはパニックを起こす人々の誰の耳にも届かなかった。

 世界中が終末の混乱に陥っていた。

 ついさっきまで人々を無気力な幸福に浸していた「ハーモニー・システム」は完全に崩壊し、偽りの幸福を奪われた人々は、忘れかけていた生の「恐怖」に泣き叫んだ。

 そして、新たに生み出された恐怖はリアクターをさらに暴走させる、悪夢のループを生み出していた。




 その地獄絵図の中心で、たった一人だけ異なる人間がいた。


 発は、パニックに陥る人々にも、砕け散る窓にも、世界の終わりを告げる隕石群にも、目もくれなかった。

 発はまるで周囲の全てがスローモーションに見えているかのように冷静に、崩れかけた放送局のマスターコンソールへと走り、自らのラップトップを接続していた。


 鬼気迫る表情で膨大なデータを睨みつける。

 発は暴走した「イド・リアクター」から逆巻くエネルギーの奔流に意識を投じていた。

 セキュリティの枷が外れ、剥き出しになった情報の回廊を一直線に駆け抜けるように、その深層構造へと侵入していく。

 すべてはカタストロフの心臓部を暴くために。


「見つけた……! これがイド・リアクターの本体……!」


 発の指が常人には到底追えない速度でキーボード上を舞う。

 モニターにリアクターの設計図と、これまで蓄積されてきた膨大な稼働ログが滝のように流れ落ちていく。


「警部、聞こえますか!」

 発は辛うじて生きていたスピーカーに向かって叫んだ。

 その声は絶望的な状況下とは思えないほど冷静で、そしてどこか興奮の色を帯びていた。


「ハーモニー・システムは、ただ感情を抑制するだけじゃなかった! 

 感情抑制は表向きの機能でしかなく、真の目的は抑制と称して人々から回収した負の感情を全てイド・リアクターと呼ばれる炉へ送り込み、時空を歪めるほどの高エネルギーに変換することだったんです!」

『何だって……!? 何のためにそんなものを……』


 橘警部の声が、ノイズ混じりに返ってくる。


「答えは、これです!」


 発はリアクターのログの最深部から、一つのファイルをこじ開けた。

 そこに記されていたのは、ルカスの真の野望。


「ルカスは人類の悪意を燃料にして、この世界に存在しなかったハイパーミレニアム問題の『解』を別次元のことわりから持ち込み、新たに創造しようとしていたんです!

 宇宙の真理をイド・リアクターで具現化しようとして、その過程で発生する時空の歪みが暴走によって別の次元の厄災をこの世界に呼び寄せてしまったんです!」


 それは天才だけが思いつく、あまりにも傲慢で、純粋で、そして狂気に満ちた計画だった。




 全てを引き起こした張本人は発の言葉を背中で聞きながら、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちていた。


「嘘だ……。こんなはずじゃ、なかった……」


 ルカスの口から、乾いた声が漏れる。

 目の前に広がる光景は、彼が夢見た理想郷とはあまりにもかけ離れていた。

 ルカスは世界を救う救世主になるはずだった。

 人類を次のステージへと導く、唯一無二の太陽になるはずだった。


「僕はただ……、認められたかっただけなんだ……。

 僕の理論は間違ってなんかいなかったって、証明したかっただけなんだ……。

 僕は……。僕の居場所が、欲しかっただけなのに……」


 その瞳からは光が消え失せていた。

 自分の犯した罪と、それが招いた想像を絶する結末は、彼の脆い精神を回復不能なまでに打ち砕くに十分だった。


「あなたがやった事でしょ! 腑抜けてないで最後まで責任取りなさいよ!」


 サブコンから駆けつけてきた葵が、泣きながらルカスの腕を掴んで激しく揺さぶった。

 葵の瞳には、恐怖とやり場のない怒りが渦巻いていた。


「こんなのってないよ……! こんな終わり方、……あんまりだよ!」


 だが、ルカスは虚ろな目で宙を見つめるだけ。その魂は、もはやここにはなかった。


「もうダメだ……」


 伊集院がサブコンの壁に背中を預け、力なく座り込んだ。


「エネルギーの暴走は、もう誰にも止められない。

 隕石の衝突まで、あと数分……。チェックメイトだ……」


 伊集院の顔にはいつもの自信に満ちた表情はなく、ただ深い絶望の色が浮かんでいた。


 橘警部は砕けた窓から吹き込む風を受けながら、静かに目を閉じていた。

 世界中の誰もが、もう終わりだと思った。




 だが、発だけは違った。


 カタストロフが引き起こすエネルギーの奔流、時空の歪み、無数に降り注ぐ隕石群の軌道。

 その全てが発の頭脳の中で恐るべき速度で解析されていく。

 絶望的な状況であればあるほど、発の思考は極限まで研ぎ澄まされる。


「……まだだ」


 発の唇から、か細いが確かな意志のこもった声が漏れた。


「……まだ終わってない! 数式は、まだ解を放棄していない!」


 発の声に葵がはっと顔を上げる。

 彼女の視線の先で、発はまるで狂気に取り憑かれたかのようにキーボードを叩き続けていた。

 崩れ落ちていく世界の中で、たった一人、諦めずに答えを探し続けるその姿。

 それはありえないほど美しく、そして悲痛な光景だった。


 そんな発の姿は魂の抜け殻となっていたルカスの瞳の隅にも、かろうじて映り込んでいた。


 自分と同じように数式を駆使して世界と格闘する、もう一人の天才の姿。

 その光景に、ルカスはかつて自分が縋り、求め、そして裏切られたはずの御子柴博士の面影を幻視した。


『やり直そう、ルカスくん。君の才能は本物だ。

 これは挫折じゃない。君の理論を完璧なものにするための、素晴らしい出発点だ』


 あの日の博士の言葉が蘇る。

 あの時、なぜ自分は博士の言葉を信じられなかったのだろう。

 なぜ、たった一人で絶望してしまったのだろう。


 もしあの時、発が隣にいてくれたら。


 自分と同じ景色を違うルートから眺めていた、この好敵手がいてくれたなら。

 自分は、違う答えを選べたのだろうか。


「まだ……、やれることは、あるはずだ……」


 発が誰に言うでもなく呟いたその言葉。

 それは自らが招いた絶望の底で凍てついていたルカスの心の奥底に、小さな、小さな火を灯した。

 それは世界の終わりを前にして生まれた、あまりにも儚く、しかし確かな希望の火だった。

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