第4話 鏡写しの挑戦者
定期考査の結果が貼り出された校舎の掲示板は、いつも生徒たちの歓声とため息で騒がしい。
その喧騒の中心には、もはや学年の恒例行事となった二つの名前が不動の位置を占めていた。
一位
二位
休み時間、廊下を歩いていた発は、その伊集院に呼び止められた。
伊集院は結果表からも分かる通り、学年トップクラスの秀才であり、そしてプライドの高さもトップクラスだった。
整えられた髪、アイロンのかかった制服。そして知性と共に常にわずかな焦燥感を宿した瞳。
伊集院は発とは対極の、努力を積み重ねて今の地位を築き上げてきた少年だった。
「所賀」
伊集院の声はいつも硬質で、挑戦的だった。
「今回もお前の勝ちだな。だが、覚えておけ。
いつか必ず、俺はお前を抜いて1位になる。
お前のような生まれつきの天才がいることが、俺たちのような努力家の価値を無意味にさせるんだ。
でも俺がお前に勝てば、努力で天才を超えられる証明になる!
だから、必ずお前に勝つ!」
その瞳に渦巻くのは剥き出しの敵意と決して満たされることのない渇望だった。
発はどう反応していいか分からなかった。
発にとって試験は他人との競争ではなく、問題というパズルとの静かな対話でしかない。
周りから賞賛されることには慣れているが、これほど激しく純粋な敵意を向けられるのは慣れない。
困惑の末、彼の口から出たのは間の抜けているとしか思えない一言だった。
「……そっか。がんばって」
その言葉が伊集院の肥大化したプライドをどれほど深く傷つけたか。彼の嫉妬の炎にどれほど油を注いだか。
発はまだ、知る由もなかった。
その日の放課後、発はラボで葵にその出来事を愚痴ともつかない様子で話していた。
「僕だって、別に努力してないわけじゃないんだけどな……。毎日こうして勉強も研究もしてるし」
「まあまあ。天才も大変だねえ」
葵は勝手に持ち込んだ専用のマグカップにココアを注ぎながら、面白そうに笑った。
「でも伊集院くんも必死なんだよ、きっと。
アタルくんは一番になれない人の気持ちも少しは分かってあげなきゃ」
「だから僕だって別に――」
発が反論しようとしたその言葉を遮るように、ラボのメインコンソールから甲高い警告音が鳴り響いた。
「セキュリティアラート!? ――まさか!」
聞いた事の無いアラートに思わず葵が悲鳴を上げる。
発はそれを耳にしながら、自らの手で作り上げた軍事レベルのセキュリティを誇るはずの防犯システムに向き合った。
モニターにはネットワークの深層部に向かって、正体不明の何者かが防壁を一枚、また一枚と、いとも容易く突破してくる様子が映し出される。
発は椅子を蹴るように立ち上がり、キーボードに指を走らせた。
凄まじい速度で防御コードを打ち込んでいくが、侵入者の手口はまるで発自身の思考を先読みしているかのようだった。
発が仕掛けたトラップを巧みにかわし、彼が築いた迷宮の最短ルートを正確に進んでくる。
それはまるで鏡の中にいるもう一人の自分と戦っているような、そんな不気味な感覚だった。
そして、ついに最後の防壁が破られた。
ラボの全システムが、一瞬だけブラックアウトする。
すぐに予備システムで復旧したが、メインモニターの中央には発を嘲笑うかのような短いメッセージが禍々しい赤色で点滅していた。
『お前を超えた。今夜0時、もう一度お前の城を落としに行く。お前が俺の下だということを、徹底的に教えてやる』
ご丁寧にも、再度の犯行予告まで残されていた。
研究データや個人情報には一切手がつけられていない。
ただこの挑戦状を叩きつけるためだけに、完璧なはずの発の城は蹂躙されたのだ。
「なんなのよ、これ……」
葵が呆然と呟く。
「気持ち悪い……。まるで、ストーカーみたい……」
「ストーカーじゃない。これは僕への挑戦状だ……」
発は、モニターを睨みつけながら静かに言った。
「挑戦状って……。
しかもこの文面。内容的に犯人は、アタルくんのことをよく知ってる人物……。
それもアタルくんにものすごく強い敵意を持ってる人間?」
葵の分析に、発は昼間の伊集院の顔を思い浮かべた。
彼の瞳に渦巻いていた黒い炎。
不本意ではあるが、葵の言う通り、恨みを買っている覚えはある。
だが、彼にここまでのハッキング技術があるとは思えない。
それにこの手口は単なるハッキングではない。
侵入者と対峙した時、もっと直接的に自分の脳内を覗かれているような、薄ら寒い感覚があった。
その頃、伊集院は自室で勝利の余韻に打ち震えていた。
伊集院は頭をすっぽりと覆う近未来的なデザインのヘッドギアを装着していた。
数日前、伊集院の自宅に差出人不明の小包が届いたのが始まりだった。
『君の努力が天才に届くための翼だ』という、彼の心を的確に射抜くメッセージカードと共に、このヘッドギアが入っていた。
伊集院も最初は手の込んだ悪戯だと思った。
だが、彼は藁にもすがる思いでそれを装着し、憎きライバルである発のことを強く強くイメージした。
すると驚くべきことに、頭の中にまるで別の思考回路が流れ込んでくるような、奇妙な感覚が全身を支配した。
発の思考パターン、発の知識、発が構築したシステムの論理構造。その全てが、洪水のように自分の中に流れ込んでくる。
伊集院はこの禁断の力を使って、発に雪辱を果たすことを決意した。
「そうさ。同等の知能があれば、俺がアイツに負ける訳がないんだ……」
発は冷静に反撃の準備を始めていた。
犯人が自分の思考をトレースできるというのなら、その特性を逆手に取るまで。
発は橘警部に連絡を取り、事情を説明した。
「……今度はハッキング被害だと?
まったく、お前の周りではロクなことが起きんな」
電話の向こうで、橘警部は心底呆れたように言った。
しかし、事件の異常性を察知し、すぐに協力を約束してくれた。
「いいか、絶対に無茶はするなよ。
犯人を刺激せず、泳がせておけ。尻尾を掴むのはこっちの仕事だ」
橘警部には少し悪いと思ったが、発は忠告を無視して罠を張る事にした。
相手に挑戦の意思があるのであれば、発にもプライドがあった。
ましてや一度はセキュリティを突破された借りもある。
発は敢えて自らの思考の癖を囮にした、偽のセキュリティホールをシステム内に構築した。
それは一見すると致命的な脆弱性に見えるが、実際には侵入者を隔離された仮想空間へと誘導するための落とし穴だった。
そして、犯人からの予告があった深夜0時をラボで待ち構えた。
予告時刻、きっかり0時。
ラボのシステムに、再び侵入のアラートが鳴り響いた。
前回よりも大胆で自信に満ちたアプローチ。
犯人は発が用意した偽のセキュリティホールに何の疑いもなく食いついてきた。
『見つけたぞ、所賀! お前の自慢のシステムの欠陥を!』
勝利を確信した犯人の声がスピーカーから響く。
その声と同時にラボの強化ガラスのドアロックを解除され、発が意図としていないにも関わらず開かれた。
物理的な侵入とサイバー攻撃の同時進行。犯人は完全な勝利を確信していた。
そこに立っていたのは、仰々しいヘッドギアを装着した伊集院悟だった。
「どうだ、所賀! お前の考えることなど全てお見通しだ! お前がどうやって防御しようとしているのかも、今の俺には手に取るように分かる!」
「そんなに僕に勝ちたいか」
高らかに笑う伊集院に向けて、発は静かに問いかけた。
セキュリティを破られた発の反応が薄かったことが伊集院の神経を逆撫でしたのか、勝ち誇っていた伊集院は声を荒らげた。
「当たり前だろう! お前さえいなければ、俺が一番だった! お前という理不尽な存在が、俺の積み上げてきた全ての努力を、価値の無いものにするんだ!
分かるか!? どんなに時間を費やしても! どんなに努力しても結局は2番!
親は努力が足りない。次はもっと頑張れ。
……認めてくれないっ! 俺がどれだけ机と向き合っているのか知ろうともしない!
全部全部全部全部! お前がいるから!
お前という存在は、俺の存在の全てを否定してるっ!
許せるわけがないだろうっ!!」
伊集院の瞳は発への嫉妬と憎悪で血走り、常軌を逸していた。
しかし、伊集院が止めとばかりに偽のセキュリティホールを突破し、勝利を確信した、まさにその瞬間。
発はメインコンソールの下にあるブレーカーを物理的に手で落とした。
バチン、という乾いた音と共にラボの全システムがシャットダウンする。
モニターの光が消え、サーバーの駆動音が止み、絶対的な静寂と暗闇が二人を包んだ。
「残念だけど、君が互角なのはネットワークに繋がった状態の僕の思考だけだ」
闇の中から、発の静かな声が響いた。
「これで完全にオフラインになった。
おそらく、そのヘッドギアでアシストを受けてシステムに介入したってところだと思うけど、その補助は物理的に封じさせてもらったよ」
発の原始的な対応に、機能を成さないヘッドギアを被ったままの伊集院は呆然と立ち尽くした後、振り絞るように口を開いた。
「ひ……、卑怯だぞ……。こんな風に逃げて……。
……そうだ! お前は俺との闘いから逃げたんだ!
だから俺の勝ちだ!!」
伊集院は鬼の首を取ったように発を指さし、声を上げて嘲笑った。
「借り物の力で僕に勝って何が嬉しい」
発の静かで抑揚の無い声が、伊集院の笑い声を遮る。
「別に不幸比べをするつもりはないけど、僕は僕達よりもずっと劣悪な生活環境で、死の瀬戸際でも努力して天才の称号を勝ち取った人を知っている。
少なくとも君のように誰かの力に頼りきったやり方で僕を超えようとするような奴には、僕は負けるつもりはない」
発が怒りを湛えた瞳で伊集院を睨みつけると、反論に詰まる伊集院は気圧されるようにペタンと尻もちをついた。
静まり返ったラボの入り口から物陰で待機していた橘警部が、数名の部下と共に静かに姿を現した。
橘警部の手にした懐中電灯の光が、発と肩を落として座り込む伊集院の姿を照らし出した。
「伊集院悟。君を住居侵入及び不正アクセス禁止法違反の現行犯で逮捕する」
絶望の中、伊集院は駆け寄った警官に立ち上がらせられ、その弾みで伊集院の頭で禍々しい光を放っていたヘッドギアがスルリと外れて床に転がり落ちた。
その瞬間だった。
ラボ内に設置していた広域環境異常値センサーが、強いエネルギー波形を捉えた。
発の才能への強烈な「嫉妬」。そして再び天才に敗北したことへの底なしの「絶望」。
その二つの強烈な感情エネルギーが床に落ちたヘッドギアへと、まるで渦を巻くように吸収されていくのを発ははっきりと観測した。
ヘッドギアはそのエネルギーを吸収すると、まるで役目を終えたかのように光を失った。
発は確信する。
このヘッドギアは思考を補助するだけでなく、装着者の感情エネルギーを吸い上げ、どこかへ転送する機能を持っている。
そして、この技術は過去二回の事件で使われた装置と明らかに同じ設計思想に基づいている。
ここ数件の事件の裏には、人の感情エネルギーを収集する巨大な悪意が存在する。
その悪意の主は一体誰なのか。そして、その目的は何なのか。
発は自分の立てた仮説の信憑性が増していくことに、科学者としての興奮と得体の知れない敵への言い知れぬ不安が同時に渦巻くのを感じていた。
目の前に置かれたパズルは、より複雑な様相を呈し始めていた。
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