第3話 沈黙のオーケストラ
アタル・ラボの巨大なホワイトボードは、新たな数式で埋め尽くされつつあった。
中央には「C-1」という謎の単語。
そこから無数の線が伸び、前回観測されたエネルギー波形図、そして感情誘導装置の構造解析データへと繋がっている。
「たまには数式以外にも美しいものも楽しまないと、心がカサカサのサハラ砂漠になっちゃうよ!」
ラボの静寂を破り、
そのチケットにはオシャレなフォントとデザインで、フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会と書かれていた。
「どうせまた、難しい顔して引きこもってると思った。
これ。叔母さんの知り合いが楽団員でね、チケットもらったの!
たまには付き合いなさいよ! これも社会勉強! 社会勉強!」
「興味ない」
発はホワイトボードから視線を外さずに答えた。
「今はそれどころじゃない。
このエネルギー波形は既存の物理法則では説明できない挙動を示している。
これは科学の根幹を揺るがす大発見に繋がるかもしれないんだ」
「はいはい大発見ね。でも、その大発見もお腹が空いてちゃできないでしょ?
演奏前に美味しいパスタも食べに行くんだから! は・や・く・し・て!」
葵は半ば強引に発の腕を掴み、椅子から引きずりおろした。
彼女の有無を言わせぬ勢いに、発はいつも結局押し切られてしまう。
とはいえ、ここ数日の徹夜続きで思考が煮詰まっていたのも事実だった。
気分転換も必要かもしれない。
発は小さくため息をつき、渋々葵に付き合うことにした。
歴史ある音楽ホールの荘厳な雰囲気に、発は少しだけ気圧されていた。
磨き上げられた大理石の床、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、そして開演を待つ人々の期待に満ちた心地よいざわめき。
席に着くと、発は無意識にポケットから小型のセンサーを取り出していた。
「もう、またそれ? せっかくのコンサートなのに何してんのよ」
隣で葵が呆れた声を出す。
「興味深いデータだ。
これだけ大勢の人間の『期待』というポジティブな感情が、これほど明確で安定したエネルギーの波形を作るなんて……。
前回の事件で観測されたネガティブな感情の波形とは明らかに位相が異なる。
言うなれば正と負の関係だ」
「理屈はもういいから! ほら、始まるよ!」
葵にセンサーを取り上げられ、発は仕方なくステージに視線を向けた。
だが発の頭の中では二つの対照的な感情エネルギーのデータが、美しい旋律を響かせ始めていた。
やがて客席の照明が落ち、ステージにスポットライトが当たる。
満場の拍手の中、白髪の指揮者が優雅な足取りで指揮台に立った。
タクトが静かに振り上げられる。
ホール全体が息をのみ、最初の音が生まれる瞬間を待った。
だが、音は生まれなかった。
指揮者のタクトは、宙で静止したままだった。
そればかりか、ステージ上の演奏家たちが楽器を構えたままピクリともしなかった。
弦楽器奏者は弓を握りしめたまま震え、管楽器奏者は唇を引き結んで俯いている。
彼らの顔には、困惑とそれ以上に明らかな「恐怖」の色が浮かんでいた。
何かがおかしい。
客席が不審にざわめき始めた、その時だった。
ホールの壁に埋め込まれたスピーカーから、ノイズと共に穏やかだが有無を言わせぬ、明瞭な声が響き渡った。
「皆様、本日のコンサートはこれより私が主催させていただきます。
私の名は、マエストロ・サイレンス」
その名に、客席の一部がどよめいた。
「マエストロ・サイレンス……?」
発が呟くと、隣の葵が息を殺して囁いた。
「まさか……、そんな……。
ねえ、アタルくん。この声ってたぶん、数年前に引退した天才指揮者の人だよ。
天童宗一(てんどう・そういち)。
繊細で美しい音を紡ぐって世界中から注目されてたのに、リハーサル中の事故でステージ機材が頭に当たって耳がほとんど聞こえなくなってしまったの。
手術しても治らなかったって、大きなニュースになったのを覚えてる……」
葵の説明を裏付けるようにスピーカーから響く声が、自らの犯行を誇らしげに語り始めた。
「ステージ上の演奏家たちには、事前に通告してあります。
もし誰か一人でも、ほんの些細な音でも奏でた場合。
この最新システムが誇る指向性スピーカーから、彼ら音楽家にとって命ともいえる鼓膜に向けて超高周波パルスを発射し、破壊します。
彼らの繊細な、そして大切な聴力は今、この私の手の中にあるのです」
その言葉はホールに最近導入されたばかりの最新式統合音響システムを通じて、明瞭に響き渡っていた。
声の主――天童宗一は音響システムを完全にジャックし、自らの脅迫の道具として利用していた。
ホールは一瞬にしてパニックに陥った。
悲鳴を上げて逃げ出そうとする者。ざわめきながらも事態が飲み込めない者。
だが犯人の脅迫は客席ではなく、ステージ上の演奏家たちだけに向けられていた。
音楽家にとって、聴力を失うことは死刑宣告に等しい。彼らは恐怖という名の見えない鎖に縛り付けられ、愛する楽器を前にただ震えることしかできなかった。
「おい! 開けろ! 外のスタッフは何をしてるんだ!」
「外とも連絡が取れないわ! 電波が無いの!!」
監禁されたと知った観客はパニックを起こし、数人の男性が協力して扉に向かって体当たりをしたが、頑丈に作られた扉はビクともしなかった。
「なぜだ……」
スピーカーから犯人の嘆きが漏れ聞こえてくる。それは深い絶望と、世界への憎しみに満ちていた。
「なぜ、私から音楽を奪ったこの世界が今もなお、こんなにも美しい音で満ちているのだ……?
不公平ではないか!
……ならば、私も世界から音を奪おう!
このホールを私のための完璧な静寂で満たすのだ!
これこそが私の最後の交響曲。シンフォニー・オブ・サイレンスだ」
この静寂は、彼の歪んだ復讐心を満たすための悪趣味な舞台なのだ。
発は冷静に状況を分析していた。
犯人は「演奏家たちの聴力」を人質にこの静寂のコンサートを強制している。
そして、その脅迫を実現させているのがあの最新の音響システム。
この状況を打開するには、犯人の脅威そのものである超高周波パルスを何らかの方法で無力化するしかない。
発は自分のボディバッグを探り、二つのアイテムを取り出した。
「……ラボを出る前に前回の事件からヒントを得て、音波による感情干渉への対策ガジェットをいくつか試作しておいて良かった」
一つは前回の事件でも使った逆位相の音を出す小型スピーカー。
そしてもう一つは、一見するとただの高級ボールペンのような形状のガジェットだ。
「葵。僕のスマホを使って、今から言う通りに警部にメッセージを送って」
発は葵にスマートフォンを少し操作して渡すと、葵は発に言われた通りに文章を打ち始めた。
相手は橘警部だ。このホールは通信が遮断されているが、発は事前に警察の緊急通信網に割り込める、特殊なバックドアを自分のスマホに仕込んでいた。
『橘警部へ。犯人は音響制御室。合図をしたら突入してください。人質の安全は保証します。所賀発』
「合図って……アタルくん、何を……?」
葵がスマホを発に返しながら不安げに尋ねる。
「説明は後でする。今は早くこの状況を何とかしないと」
発はまず、ペン型のガジェットを手に取った。
そして、ホール後方にある、ガラス張りの音響制御室に向け、その先端を正確に定める。
レーザーマイクロフォン・スピーカー。
超小型のスピーカーであるだけではなく、レーザーで対象物の一点を微細に振動させることで目標地点にいる人間にしか聞こえない音声を届けることができる発の発明品だ。
聴力を失ったという犯人が高性能な補聴器などで音を拾える状態であるならば、この直接的な振動は確実に伝わるはずだ。
発はガジェットに唇を寄せ、静かに、しかし明瞭に囁いた。
「マエストロ・サイレンス。あなたにだけ聞こえるように話しています」
制御室で天童は悦に入ってコンソールを眺めていた。
ステージ上で恐怖に凍り付く演奏家たち、パニックに陥る聴衆。これは彼が指揮する狂騒曲。
これこそが、彼が世界に叩きつける復讐のフィナーレだった。
その時、彼の耳につけた補聴器が奇妙な振動を敏感に拾った。
「誰だ!? 誰かいるのか!?」
――幻聴か? いや、周りには誰もいない。この静寂を支配しているはずのこの空間で、なぜ声がする?
天童は声の主を特定するため、緊張に強張った視線をホールに向けると、客席から一人の少年がまっすぐにこちらを見つめていた。
そして、その少年は自分のスマートフォンを取り出し、画面を明るくして制御室に向け、見せつけるように操作を始めた。
「あなたが脅しに使っている超高周波パルスの波形はこのホールの音響システムが公表している仕様書と、さっきあなたが漏らしたノイズから特定させてもらいました」
少年の唇が動くのと耳元の囁き声が完全に同期していた。
天童は音の専門家だ。
その少年の言葉の意味を、即座に理解してしまった。
「僕のこのスピーカーから、あなたの駆使する高周波と全く同じ周波数の音を、逆位相で流したらどうなるか分かりますよね?」
天童は血の気が引くのを感じた。
そんなことが可能なのか? まさか……、虚仮脅しだ。ただの子供がそんな技術を持っているはずがない。
だがこの不可解な状況が彼の絶対的な自信を根底から揺さぶり始めていた。
発は静かに、もう一つのガジェット――逆位相スピーカーのスイッチを入れた。
ホールにいる他の誰にも聞こえない、犯人のシステムだけを標的とした、無音の攻撃。
「あなたの脅迫は、もう意味をなさない。
僕がここにいる限り、あなたは誰の耳も傷つけることはできない」
その瞬間、天童の目の前にあるメインモニターにシステムエラーを示す赤色の警告表示が無慈悲に点滅を始めた。
それは最強の武器が完全に無力化されたことを示すサイン。
「なっ……!?」
天童は椅子から転げ落ちそうになり、慌ててコンソールに手を伸ばした。
震える指で必死にシステムを再起動させようとコマンドを打ち込むが、モニターは警告を点滅させるだけで、何の反応も示さない。
「嘘だ……、ありえない! 私の『静寂』が……! 私の復讐がッ!」
完璧だったはずの計画がたった一人の少年によって、音もなく崩れ去っていく。
パニックに陥った天童が、内に湧き立った苛立ちを発散させるようにモニターを拳で叩きつけた。
――ドン!!
その絶望と狼狽が生んだ完全な隙を突き、制御室の扉が破られ、橘警部率いる警察隊が突入し、天童は確保された。
犯人逮捕の報告があり、呪縛から解かれた演奏家たちが、安堵と、そして名も知らぬ救世主への感謝の気持ちを込めて、一つの美しいメロディーを奏で始めた。
それは苦しみの中から生まれる希望を謳うかのような、力強い調べだった。
ホールを出ると、橘警部が腕を組んで待っていた。
「……またお前か。まったく、どういう偶然だ」
橘警部は呆れたような、それでいてどこか感心したような、複雑な表情を浮かべている。
連行されていく指揮者の、音楽を奪われ、そして今また自らの復讐すらも奪われた深い絶望の表情。
その瞬間、発のセンサーが再び異常な数値を記録した。
前回観測された波形とは異なる、だが同じく強烈な感情エネルギー。
瞬間的に大きく観測し、僅かな時間で霧散する。
現状、発は感情エネルギーの消失を観測するだけで何もできず、エネルギーがどんな風にこの世界に影響を及ぼすのか、空間内におけるエネルギーの停滞、減少についても研究範囲を拡げる必要がありそうだった。
橘警部も慣れたのか、それとも発がすっかり慣れたのか、事件の参考人としての聴取はつつがなく進行された。
少し遅い時間に聴取が終わり、橘警部が発と葵の二人をパトカーで送ってくれた。
葵を家に届け、発のラボに向かう車中、橘警部がおもむろに口を開いた。
「天童は潔いというか、すぐに犯行の手口について白状した。
音楽を失って途方暮れていたところ、ダイレクトメッセージを貰ったらしい」
「……。『支援者』、ですか?」
「さすがに察しがいいな。
支援者からのメッセージの内容は、今回の犯罪の段取りと高周波パルスのデータだったらしい」
「『C-1』についての関連性は?」
「そこまではまだ。これから天童宅のパソコンを調べてからだな。
っと、ここだな」
橘警部はラボの前で車を停め、発はパトカーを降りた。
「さすがにこれ以上お前の周りで事件が起きたら、容疑者候補に挙げるからな」
「警部、冗談は真顔で言うと伝わりづらいですよ」
「冗談の顔に見えるか?」
「……」
「じゃあな。早く寝ろよ」
橘警部は発を降ろすと、冗談の真偽を伝えぬままスムーズに車を走らせ、角を曲がったパトカーはすぐに見えなくなった。
腑に落ちないままラボに戻った発は、頭を切り替えて、さっそくホワイトボードに二つの事件の波形データを並べて書き出した。
そして二つの事件で犯人が使った装置とその背後にいるであろう「支援者」の存在を思い返す。
どちらも人の心を巧みに操り、結果的に犯人を絶望の淵に突き落とす、出所不明のオーバーテクノロジーの担い手。
ホワイトボードの一角に書き残された「C-1」の文字を見て、もしやと思い、指向性スピーカーの製造メーカーを調べてみたが、関連会社にも「C-1」の文字は見当たらなかった。
あるいは葵なら、もっと深くまで調べる事ができたのかもしれないが――。
椅子の背もたれに体を預け、事件の根幹について思考を巡らせる。
「異なる感情が大きなエネルギー波形を生み出す……?
ということはつまり――」
発の頭の中で一つの不気味な仮説が芽生え始めていた。
誰かが意図的に、人間の強い感情を作り出そうとしているのではないか?
「絶望……。私怨……。憤怒……。
……どれも全て負の感情?」
このパズルは自分が考えていたよりもずっと深く、暗いものなのかもしれない。
その底知れない闇の存在を感じ、発は背筋が冷たくなるのを感じていた。
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