東インド介入
1975年11月1日、大日本帝国陸海軍は大清帝国陸海軍とともにオランダ領東インドへと介入を開始した。もう、40年にもわたって続いている東インドでの騒乱に対処するためだ。
1935年の第二次世界大戦の勃発に伴い行なわれた日系及び清国系移民の収容はその後の東インドにおいて大きな禍根を残した。特に戦後に適切な補償を行わなかったことは問題を悪化させた。さらに、大戦後に日本の占領下にあった旧米領フィリピンの北部が戦後カタガルガン共和国として独立させられたものの、その実は日本人移民が送り込まれる傀儡国家に過ぎなかったことは、東インドにおいて日本への警戒を強めることにつながり、日系及び清国系移民と東インド人(オランダ系、混血、現地人のすべてを総称してこう呼ばれた)の間で各地で衝突が相次いだことにより、一向に鎮静化される気配はなかった。
こうした中で周辺各国がどう動いていたかといえば特に動きはなかった。マラヤ、サラワク、ブルネイ、北ボルネオ、復古スールー王国からなる大マラヤ連邦やインド洋での覇権確立を狙う南アジア連邦などは東インドでの移民たちを警戒していたが、それより上の存在である本国イギリスが特に気にも留めていなかったためであり、もう1つの近隣植民地であった仏領インドシナ連邦に関してはフランス連合内での独立にむけて動いており、その中でそれなりの経済力とともに発言力をもちつつあった日系人勢力に対しては排斥よりも融和による取り込みを行おうと考えていたため、こちらも特に動きはなかった。
一方で移民たちの故郷である大日本帝国と大清帝国に関してもそんなことにかまっている余裕はなかった。大日本帝国からすれば移民たちはある種の棄民だった。実際、北フィリピンにおける軍政期及びその後のカタガルガン共和国独立直後に移民した"日本人"のほとんどは本土で内務省によって弾圧された新宗教の信者を除けばアメリカ合衆国あるいはその勢力圏だった南米各国から追放されるも祖国であるはずの日本で居場所を見つけられなかった日系人だった。大清帝国においては海外において革命運動などを組織しなければ特に問題なく受け入れられていて、移民たちに対しても同情的な世論もあったが、北に極東社会主義共和国という敵国が控えている以上行動を起こすのは難しかった。
こうした状況が大きく変わるのは1962年の満蒙戦争からだった。アメリカ合衆国の工作により、欧州各地で反戦を名目に日本及び清国を標的とした反アジア的活動が行なわれたが、その動きは当然東インドへと波及した。しかし、当時のオランダ政府は英仏両国の動きを見て東インドの自治に向けて動き出していたが、オランダ本国ではなおも植民地としての維持に固執する反対派との交渉が難航していたため、移民たちの問題など無視したのだが、日清両国の受け止めは違った。折しも、度重なる派兵や物資援助の要請にもかかわらず、それらが英仏によって無視されていた中での事件であり、問題を放置するオランダ政府の対応はこれ以上なく不誠実だと考えられた。
結局、1964年に満蒙戦争が日清両国の事実上の敗北で終わると、そうしたオランダへの反感も一時的に和らいだが、1965年に新たに独立した東インド諸島連邦が移民たちに対する締め付けを強化しはじめると、再び反オランダ熱が盛り上がり始め、1971年に清国中央政府が生き残った最後の軍閥である北平軍閥を下すと特に勢いを増した。オランダはそんな日清両国に対抗するだけの力を持たなかったため、平和的解決を模索したが、今や名実ともに独立国家である東インド諸島連邦は反発し、日清両国に対抗するため東インド諸島連邦はアメリカ合衆国に接触して軍事援助を得ようとしたが、この動きが日清両国の軍事介入に繋がり、東インド情勢はさらに混沌化していったのだった。
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