近東戦争史
オスマン帝国旧領を近東と呼ぶのはインドに進出したヨーロッパ人がよりヨーロッパに近いためそう呼んだからであり、かつては概念が似通っている中東との用法の混乱がよく見られていた。
しかし、20世紀中期以降において近東という呼称は一つの明確な意味を持って使われることが多い。即ち地理的呼称でいう西アジア及びコ-カサスにおける紛争地帯として、だ。
近東戦争と呼称される戦争がいつから始まったのか、その起源をオスマン帝国の崩壊に求める者もいれば、あるいは1943年のイラン戦争に求める者もいる。だが、確かなのはその一連の事態の勝者となった
1963年、世界の耳目がロシアの崩壊とその後に始まった満蒙戦争に集まっている中で次の戦争が始まろうとしていた。
1963年6月7日、オスマン帝国崩壊後に領土となったアレクサンドレッタ港は地中海に面するアルメニア海軍の主要軍港の一つだったこの町で、ハヤスタン海軍の駆逐艦が正体不明の爆発を起こして沈没するという事件が起こる。
ハヤスタン側はこれをハーシム朝アラブ帝国の破壊工作の結果と断定し、すぐさま国境近くの港町ラタキアと同じく国境近くの町であったモスルを占領した。ハヤスタン側の行動はすぐさま全世界へと知れ渡ったが、各国特にヨーロッパではそう非難されることはなかった。
これは前述のとおり満蒙戦争に大きな注目が集まっていたことと、それに目を付けたヨーロッパ各地に根を張るアルメニア系資本がさらに近東よりも極東に注目が集まるようにした結果、小さな国境紛争など人々はすぐに忘れ去った。
アルメニア系資本の影響力増大は第二次世界大戦と切っても切れない関係があった。第二次世界大戦において敗者となった社会主義勢力の祖であるカール-マルクスは当然ながらユダヤ人であり、またそれまで各国で革命家として活動していたものの多くにもユダヤ人が多数いたことから戦後の各国、特に主戦場であったヨーロッパでは戦勝国、敗戦国の双方で反ユダヤ的運動が巻き起こり、大陸ヨーロッパに比べて元来ユダヤ人に寛容だったイギリスですらも英本土から植民地へと逃避する動きが起こるほどだった。
例外はユダヤ人よりもロシア人とドイツ人を憎んでいたポーランド連邦共和国ぐらいのものだったが、大戦中のドイツ軍の最終作戦であるネロ作戦のデモンストレーションとして国土の大半が徹底的に破壊されたポーランドには大規模な難民を受け入れることは難しかったことからヨーロッパを離れて規制の緩い植民地やアジアの独立国であるシャム王国、大清帝国、大日本帝国へと移り住む動きが広がった。
そして、そうしたユダヤ系の凋落の隙を突いたのがアルメニア系であり、大戦から20年が過ぎた1960年代ごろには各国でその勢力はゆるぎないものとなっていたのだった。しかし、アルメニア系と入れ替わるようにヨーロッパを追われたユダヤ人たちは復讐の機会をうかがっており、さらにシャム王国、大清帝国、大日本帝国といった移民先でヨーロッパを知らずに育ったあるいは生まれたユダヤ人の中には満蒙戦争中のヨーロッパ各国における本来の同盟国である日本や清国よりも白人を擁護する"反戦運動"を懐疑的に見ていた日本人や清国人と同じように次第に"ヨーロッパ"そのものへの対抗意識を持つ新世代が台頭していた。
そして、そうした動きは近東という地を戦乱という言葉から切り離せないものにしていくことにつながったのだった。
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