4.それを愛と呼ぶにはあまりにも醜い

『あの日の事、覚えていてくれてるんですね』

『覚えてるよ、だって吉田くんだけだったから』


『目、あんまり見てくれないよね』

『そうかな、そうだね……ごめんね』


『吉田くんはかっこいいよ』

『ありがとう、ございます』


『防波堤になってくれると、嬉しい』

『……わかった』


『うわぁ……はるさん懐かしいなぁ』

『ねぇ、やだ。やだ』


『この先も多分あなたを好きで居続けます』

『……うん』


 記憶とは残酷だ。

 起きた事を自分の都合の良い風に会話を改竄かいざんしたり、相手の表情や感情を自分にとって特別だったと、何気ない一ページを良い風に上書きしたがる。

 不安だった。この気持ちが偽物だったらと、この想いは思春期特有のものなのではないかと。

 ずっと苦しかった。ずっと忘れられなかった。

 僕はずっと彼女を愛していた。

 

「泣いていた。友人の先を憂いて、不幸を嘆いて、泣いていた」

 もし、栗田が泣いていなければ。栗田の口から彼女の身の上話を聞いていなければ。僕はきっとこんな行動を取っていなかっただろう。

 彼女にとって親しい友が泣いていたから、友人の為に流す涙を見たから。僕は何かをしたいと思った。何かをしなければならないと、勝手に思ったんだ。

 でなければ、触れた思い出も話した思い出も全て過去へと押し流しただろう。

 僕には既に愛すべき家族が居たから。彼女らを蔑ろになんて出来ないから。

 けれど、僕は栗田の話を聞いた。考えに共感をしてしまった。そして、誰かがやらなければならないという意識を芽生えさせてしまった己を納得させるのは生半可ではなかった。吾妻さんを傷付けるだけ傷付けるなら別に誰だっていい。でもそんな事あって良い訳がない。それでは抜本的な解決にはなり得ない。一方通行の傷が何かを生むなんてそんな無責任な考えは良くない。彼女が愛を求めているなら、愛に報わなければならない。

 アキやヒロくんを見て、彼らでは無理だと思った。当然お互い矢印が向いていなければ意味がないし、矢印が果たして生まれていたかもわからない。それにあんな形では性欲が先行してしまう。それでは意味がない。恋人も既にその段階に居ないから無理だろう。他の第三者の存在を待つのも時間の都合上論外だった。近い将来、彼女は酷く痛い目を見るだろう。強姦されるかもしれない、怖い人に引っ掛かってしまうかもしれない。起きないかもしれないけれど、起きてしまう可能性の方が圧倒的に高く感じた。

 彼女を、吾妻由衣を人間的に、後天的に好意を寄せている人でなければならないと思った。吾妻由衣を愛している人間を探さなければ。

 どうやって?口にも出していないのに僕の耳をつんざく。頭痛がした。吐き気もした。

 そんな人間をどうやって探す?時間も限られた中でどうやってそれを実行する?成功する確率は?そもそも見つけられたとして協力してくれるのか?

 掛け値無しに協力してくれる人を見つけるのは絶望的だった。無償の愛を提供してください。そんな事言って来てくれる人なんて居ない。浮かぶ可能性を乱立させて、消して、残った選択肢が自分だった。自分以外に居ないと、思ってしまった。

 傲慢だとも思う。彼女をここまで想っているのは自分だけだと豪語する事が、あまりにも傲慢で痛々しい。彼女の身の回りを否定している事と同義だ。最低だ。

 でも全て真実だ。僕は彼女を好いている。誰よりも愛している。その事実は誰に何と言われようとも色褪せる事はない。吉田良明にとって、吾妻由衣は特別だ。特別過ぎるんだ。

「だから、傷付けようって……思いっきり傷付けてやろうって……」

 自分が傷付ければ全て丸く収まると思った。彼女の中には吉田良明は居ないけれど、僕の中に吾妻由衣が居る事を彼女は理解しているから、僕が傷付けるだけ傷付けても彼女はいずれ理解してくれると。そんな打算だ。

 こんな事、誰にも理解されないと思った。滑稽だと思われるだろうし、侮蔑されるだろうと思った。知られれば、強く人から責められるだろう。別に良いと思った。こんな醜い感情、理解されるつもりもなかった。

「許せなかった。君が、笑えていないこの今が、許せなかった」

 あの日の彼女がどんなに変貌していたとしても、その変貌ぶりに多くの人間が苦言を呈していたとしても、僕にとってそれは些末な事だ。些末な事と思えた事がとても重要だった。自分の想いは偽物ではなかったのが嬉しかった。人生のほとんどを想い続けた時間は紛れもなく本物だと思えた事がとても大事だった。みんなは口を揃えて「吾妻さんは変わってしまった」と言った。何が変わったのだろうか。何も変わっていない。何一つ変わっていない。彼女は決して変わっていなかった。変わらず人に親切にする所は変わらない。何も言動や行動だけでは人の全ては推し量れない。表情の作り方や間の繋ぎ方、彼女が如何に気を遣って会話をしていたかが遠目から見てもわかった。今日だってそうだ。彼女はずっと僕に優しくしてくれた。同情なんかじゃない、ちゃんと一人の人間として僕と接してくれた。ずっと僕を慮ってくれていた。それがわかった。理解出来た。

 僕は吾妻由衣を好きな事を誇りに思えた。

 だからこそ許せなかった。恋人が許せなかった。元恋人が許せなかった。彼女を愛すべき立場の人たちが、彼女を全うに真っ直ぐに愛せる立場に居る人間が、彼女の愛に報わないのが許せなかった。

「僕は、僕は……」

 言葉にするのはなんて難しいのだろう。想いをただ真っ直ぐに伝える事が出来たら、それが真っ直ぐ相手に伝わってくれたらどれほど楽だろうか、報われるだろうか。そうしたら、こんな事なんてしなくて済んだのに。思わないで過ぎ去ったのに。

 あぁ、なんと愚かなのだろうか。

「私は、いろんな人に迷惑を、心配を掛けていたんだね」

 泣きそうな顔で、いや泣いているのかもしれない。暗がりでわからないが、彼女の表情は確かに影を落としていた。

 なんて酷い男なのだろうか。笑ってほしいだけなのに、ただ笑顔で居てほしいだけなのに。

 ただ、好きな人に笑っていてほしいだけなのに。

「吉田くんは、優しいね」

「優しくなんかっ」

 違う。こんなのは優しさではない。誰かに頼まれた訳でも、誰に求められた訳でもない。勝手に解釈して、一人で悩んで、こうすべきだと決めつけて動いただけの行為に何も優しさなんて詰まっていない。

「僕なんかがあなたにこう思うこと自体がおこがましかった、何の資格もない僕が」

「ううん、優しいよ」

「優しくない! 優しくないよ……勝手に決めつけていたんだ。幸せじゃないって、女性として誰かの一番になりたいんだって……最低だ」

 既婚者である僕が彼女を求めれば解消できると思った。求めて、一瞬だけ彼女の中で特別になれればそれでよかった。

「嫌われたって仕方がない、嫌悪感を抱かれたって……」

 本当は、嫌われたくなんて、ない。

「最低だ、僕は。最低だ」

 誰に対しても酷い裏切り。

 妻を含む家族にも、友人たちにも、仕事でも。僕の周りは家族が密接な関係だから。これがもし成功してしまえば、僕は己の罪悪感に勝てず、全てを白状するだろう。そして、大切にしていたものはあっさりと消えてなくなる。妻も。友人も。当然、吾妻さんたちからも拒絶されるだろう。いや、成功しなくても、僕はこの罪悪感には抗えない事はわかっている。先の事は考えないようにした。彼女を優先した。優先すべき相手が間違っている事なんてわかりきっていたが、優先した。

 最低な終わりを迎えても、彼女を救えるならいいと思っていた。この出来事をきっかけに巡り廻って彼女が幸せになるならそれでいいと思った。

 辛いが、それでいいと。

 気持ち悪い独り善がりだ。

 震える手で彼女の頬に触れた。少しビクつく彼女の姿が答えだった。

「ごめんね、怖いよね……ごめんね」

 ただただ彼女を傷付けて、意味ない事へと終結させてしまった。

 いや、最初から意味なんて存在しなかったのかもしれない。

「……」

 彼女のこちらを見やる目は、既に胡乱げでも何でもない。瞳の奥には意思を感じた。

「ちゃんとしなきゃだね」

 吾妻さんは目を見据えてそう言った。

 道は既に断たれた。最早交わる事がないだろう。

 せめて自分の気持ちは伝えよう、そう思った。

「吾妻、由衣さん」

 もう彼女の名前を本人の前で呼ぶことはないだろう。

 苦しい。嫌だ。嫌だ。終わってほしくなんかない。

「僕は、あなたが好きです」

 紡いだ言葉が、細い糸のように風に靡いて、緩やかに消えていくのを感じる。

 終わってしまう。

「あなたの笑った顔が好きです」

 その笑顔が僕に向いている時、それが永遠に続けばいいと思った。

「小学生の頃からずっと……ずっと好きでした。時が経って、誰かが僕の隣に立つことがあっても、それは変わらず。僕はあなたがずっと好きでした」

 好きだ。好きなんだ。胸が張り裂けそうなくらいに。

「あなたに幸せになってほしい。あなたが辛い表情をしているのは見たくない」

 本当は僕が。

「願わくば……願わくば、僕と同じように想っている人と、幸せになってほしい」

 それがせめてもの救いだと。

「……うん」

 長い、長い、僕の初恋が今、終わった。


「そうだ、これを受け取ってほしいです」

 彼女を家に送り届け、最後の別れの前に紙袋を渡した。

「これ自体は只の手土産なんですけど……」

 合わせてバッグから一つの便箋を取り出す。

「手紙を綴ってきました」

「もう……」

 目頭を押える姿に、胸が締め付けられた。

「違うんです、泣いてほしい訳じゃないんです……」

 零れ出す涙を頬に触れた指で拭った。

「笑っていてほしいんです」

「うん……」

「手紙は……気に入らなかったら破って捨てちゃってください」

 とんでもないといった表情で首を横に振る。

「自分勝手に書いたものだから。おこがましい内容です」

 手渡した紙袋の中に便箋と贈り物を一つ合わせて入れた。

「……ホント、ここ最近ずっとあの新曲のサビを聴くたびに"あぁなんて僕は醜いだろう"ってなってました」

「それは私だよ……」

 雰囲気を和ませるつもりが、また泣かせてしまった。

 僕は本当に駄目な男だな。ごめん。

「……ううん、吾妻さんは、綺麗だよ」

 ありのまま、素直な気持ちを伝えた。

 あなたのような綺麗な人、僕は知らない。

「あぁ、そうだ。一つ言い忘れていました」

 彼女との会話の中で一つ嬉しい誤算があった。

 それは、彼女が読書好きだという点だ。

「僕、花が好きなんです。カスミソウ、吾妻さんによく似合うなって。それずっと言いたくて」

 細い茎に、綿のようなフワフワとした花を咲かせる。優しくて綺麗な花。

 贈り物の中身はブックマーカーだ。本当はカスミソウの栞を渡したかったけれど、間に合わなかった。使ってくれると嬉しいが、残る物だ。贈っといて何だが、残して使ってもらうのも気が引ける。静かに蓋をして、眠ってくれればそれでいいかもしれない。

「……じゃあ、もう行きますね」

 もう会うことはないでしょうが、その言葉に彼女は頷いた。

「会えたら、また来世でお会いしましょう」

 そう茶化して、車を発進させた。サイドミラーを見ると彼女は変わらず立ってこちらを見ていた。見送ってくれていた。

 曲がり道に差し掛かって、小さくなった彼女はもう見えなくなった。

 縁は切れた。

 ひとまず、報告しなければならない相手がいる。落ち着いて話すためにも、車を近くのコンビニへと走らせた。

「ふぅ」

 幸いコンビニはすぐ近くにあった。スマホを取り出してラインを開き、友人にメッセージを送る。

 電話してもいい? そんなメッセージに既読はすぐについて、着信が来た。

「お疲れ様です、すいません突然」

 深夜の空いた道路を緩やかに走りながら、旧友に言葉を投げる。

『お疲れ。いいよ別に。……どうした?』

 こっしーは、至って平静に聞いてきた。

「さっき、全部終わったよ」

 電話口からは息を吞む音が聞こえた。

「失敗した」

 その言葉に、安堵にも似た深い溜息が流れてきた。

『お前は、出来ないと思ったよ』

「……お察しの通り、彼女の前で無様に泣き散らかしましたよ」

『だよなぁ』

 全ての経緯いきさつを話した。今日起きた事を。何を見て、何を感じ、僕が何を話したのか。

「こっしー、僕はね」

 今日起きた事は、忘れる事がないだろう。

「吾妻さんが好きだよ」

『……知ってるよ』

 しょうがない奴だな、そんな意味が含まれていた。

『お前は本当に優しい奴だよ』

「優しくなんかないよ」

 こんなのは優しさとは呼ばない。本当の優しさというのはこんな僕を許してくれる吾妻さんや君だ。罪を犯した人間を許そうと思えるその綺麗な心が、僕には眩しい。僕はそんな人間になれなかった。中途半端に手を差し出しただけだ。

「……でも、優しいと言ってくれる君たちに報いたいと思うよ」

 僕は、僕が好きではない。でも、僕の周りの人間の事は大好きだ。こんな僕でも優しくしてくれる人たち。辛い時に手を差し伸べてくれる人たち。傍に居てくれる人たち。

 せめて、こんな僕を愛してくれる人たちの為に生きたいと思ったのはまだ記憶に新しい。どうしようもなく蹲っている頃に、元気出せよと言ってくれた彼らに報いたいと思った。

 彼女もそう思ってくれるだろうか。

 友人たちの想いや……僕の想いに触れて、前を向きたいと思ってくれただろうか。

 思ってくれるといいな。

『良明、今度飯行こうな』

 優しい声音で彼は言った。

「うん、夜遅いのに電話してくれてありがとう」

『気にすんなって。……じゃあまたね』

「うん、またね」

 彼にも、近いうちにお礼をしなければならないな。僕のせいで変な重荷を背負わせてしまった。申し訳ない。

 車は間もなく家の駐車場へと着く。随分と早い到着だったな。四十分程度か。あっという間だ。

「…………吾妻さん」

 呟いた言葉には何の意味もない。

 実際、僕の心は晴れやかなものだった。結果として何も成せなかったし、僕はどうしようもなく無様だった。だけど、それが良かったと思えた事が、彼女に真っ直ぐな気持ちを伝える事が出来た事が、自分勝手だが、彼女には本当に申し訳ないが。

 納得の出来る終わり方だった。

「好き、だったんだなぁ」

 だから、これは、今こみ上げてきている感情は、何の意味もない筈だ。あっていい筈がない。

「あ、ぁぁああ」

 僕にはそんな資格なんてない。彼女を純粋に求める気持ちなんて持ち合わせていい筈がない。全て僕の自己満足の世界だった。交わらないからなんだ。最初から交わる事なんてないとわかっていた事だろう。

「ぅ……あぁ」

 全部わかっていた。彼女の目には僕が映っていない事。確かに彼女は僕を見ていた。でもただそれだけだったという事。彼女に触れて、彼女と話して、その瞳には、僕は決して映っていなかった。彼女の心の中には、僕は住む事が出来ない。

「あがっ、つま……さんっ」

 何度も、何度も名前を呼んだ。何度も彼女の名前を呼んだ。僕のものになりますようにと、汚い想いが、言葉となって彼女の名前を呼んだ。呼べば呼ぶほど、空虚さが僕の体を苛んで蝕む。

「あああああぁああ……あ、ぐ……うあ……」

 泣きたくなんてない。こんな醜い感情を吐き出したくなんてない。お願いだから。頼むから。

「止まれ、よぉ……!」

 彼女に紡いだ言葉も、綴った言葉も、全て本物だった。何一つ噓偽りのないものだった。この先も彼女を想い続ける事は、わかりきっている事だ。愛している。愛しているんだ。でも、こんな醜いものを彼女に向ける事が僕には耐えられない。全部捨ててでも欲しかった。彼女が欲しかった。彼女の笑顔が僕に向けばいいと。独占したいなんて思ってしまった。過去なんてやり直したいなんて思わないけれど、思わないけれど……もし叶えられるなら、もしこんな憐れな男の願いが叶えられるなら、もっと純粋に彼女を想っていたあの頃に戻りたい。戻りたいよ。

 報われたいなんて、言わないから。

 恋人になりたいなんて我儘言わないから。

 せめて、彼女の心の中に住めるように、生きていきたい。傍に居たい。一緒に笑いたい。

 彼女を、僕が笑顔にしたい。

 ねぇ神様。

 どうか僕の願いを叶えてくれませんか。

 お願いします。こんな醜い愛を彼女に向けなくて済むように生きさせてください。

 こんな自分勝手で惨めな男の願いをどうか叶えてくれませんか。

 叶いもしない願いをただただ僕は願う事しか出来なかった。











 

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