第七の旋律:追想の低音

朱音は大学の音楽棟で、一人練習していた。

人気(ひとけ)のないリハーサル室。お気に入りのバスクラリネットを抱き、柔らかな低音を響かせていく。

いつも通りの練習──そう思っていた。

だがその日、音が奇妙に震え始めた。

室内の空気が歪み、低音が音波のように壁を押し広げていく。

「……なに、これ……?」

目の前の譜面が揺れ、ふわりと空中に浮かんだ。

その譜面は、見たことのない旋律──どこか懐かしい、けれど記憶にない曲。

「……パパの、音?」

気づいたときには、彼女の足元にも魔法陣のような光が浮かんでいた。

バスクラのベルが、異世界の空気を通して響き渡る。

次の瞬間、彼女の身体はその光に包まれ、音のない世界へと吸い込まれていった。


──地面が揺れていた。

朱音が目を開けると、そこはまったく見覚えのない場所だった。

草も木もなく、灰色の大地が地平線の果てまで続いている。

息を吸うと、妙に乾いた空気が喉をくすぐる。

「……ここ、どこ……?」

手には、しっかりとバスクラリネットが握られていた。

楽器がなければ、自分が自分でいられないような不安が、彼女の胸を満たしていた。

遠くに、火の明かりが見える。

「……人……?」

ゆっくりと歩き出す。足音は吸い込まれて、まるで何も響かない。

音楽を学び続けた彼女にとって、これほど“無音”が恐ろしいと感じたことはなかった。

だが、一歩踏み出すたび、バスクラがわずかに音を鳴らす。

──ボォ……。

低くて温かい音。

まるで、自分の心を守るために、楽器がそっと語りかけてくれるようだった。

焚き火の周囲にいた人々は、朱音を見るなり、一斉に目を見開いた。

一人の若者が手元の石板に文字を描く。

『また音が……来た』

その瞬間、焚き火の奥から、父の姿が現れた。

「朱音……?」

「……パパ!」

駆け寄る彼女の腕に、安藤は一瞬呆然とし、それから力強く抱き締めた。

「よく……来てくれたな」

胸の奥からせり上がる安堵を、朱音は言葉にできなかった。

でも、確かに感じた。

父の声が“本物”の声として耳に届いたとき、この世界がほんの少しだけ色づいた気がした。

──音のない世界に、二つ目の音が加わった瞬間だった。

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