第五の旋律:消えた音の先に
夕暮れの空は、燃えるような橙に染まっていた。
窓辺に座った少女は、頬杖をついて外を見つめている。
その小さな背中に、寂しさがにじんでいた。
四女・翠音(みどりね)、小学四年生。
明るく元気な性格で、どこか奔放なところもあるが、その裏には人一倍の寂しがり屋の顔があった。
母と姉たちが家を出てからというもの、彼女はときおり、ぽつんと窓の外を眺めるようになった。
笑顔は絶やさず、学校でも明るく振る舞っている。だが、それは“がんばっている”笑顔だった。
「パパ、今日も遅いのかな」
誰に言うでもなくつぶやいた言葉が、静かな部屋に吸い込まれていく。
彼女の隣には、小さなカリンバ──親指ピアノが置かれていた。
金属の鍵盤を指で弾くと、コロン、と優しい音が鳴る。
この楽器を手に入れたのは、安藤がある日ふらりと立ち寄った民芸市でのことだった。
「これ、小さいけど音がすごく綺麗だよ。翠音、音が鳴るの好きだろ?」
その言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべた。
音楽の知識も技術もまだなかったが、「音が鳴る」ことの楽しさは、幼い心にもまっすぐ届いていた。
翠音は、姉たちが奏でるような大きな楽器を持っていない。
けれど、カリンバの一音一音は彼女にとって、父との時間を思い出させる“記憶の音”だった。
その日も、彼女は小さな指で一音ずつ鍵盤をなぞるように弾いていた。
──コロン、コロン……。
音は優しく、そして少し切なかった。
まるで、自分の胸の中の空白を埋めるように、響いていた。
そのとき、玄関の扉が静かに開いた。
「ただいま」
「あっ、パパ!」
跳ねるように立ち上がり、翠音は玄関へ駆け出していく。
「おかえり、ねえ聞いて! 今日、新しいメロディできたんだよ」
「そうか。じゃあ、今夜はそれ、パパのギターと合わせてみようか」
「うんっ!」
小さな手にカリンバを抱えた翠音の顔は、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
音楽は、まだ彼女にとって「技術」ではない。
けれど、その音には確かに、心がこもっていた。
──音がある限り、繋がっていられる。
安藤は、娘たちそれぞれが音に対して違う向き合い方をしていることに、改めて気づかされていた。
音楽は、演奏するためだけのものではない。
聞くこと。思い出すこと。作ること。そして、ただ誰かと一緒に鳴らすこと。
それぞれの娘が、それぞれの“音の記憶”を抱きながら、今を生きている。
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