1時間の注視

午後4時、綾人は机に向かっていた。


宿題も課題もない。

スマホは電源を切っていた。

音楽もテレビも、何も流れていない。


静寂の中、彼はただ一つのものを机の上に置いていた。


《Fearnex》のパッケージ。

銀色の反射が、斜めから差し込む夕日を弾いて、机の木目に波紋のような光を描いていた。


その裏面に、小さな赤い文字で書かれた警告。


『――よく考えて、服用してください。これはあなたの恐怖を消すものです。』


綾人は、それを見つめていた。

目を逸らさず、瞬きすら惜しむように。


意味のない行為だとは思わなかった。

むしろ、これは“自分がまだ人間であるか”を確かめる行為のように感じられた。


文字はもう何度も読んでいる。

暗記するほど繰り返した。

だが、今こうして見ているのは、「読むため」ではなかった。


それが“何を意味しているのか”を、自分に問い続けるためだった。


時計の針が、トク、と音を立てる。

4時から5時までの、長い一時間。


それはまるで、内側に沈めた石が、静かに底を打つような時間だった。



『これはあなたの恐怖を消すものです』


その一文が、今さらのように重く響いてくる。

恐怖は、もう感じない。

でも――


「恐怖を消した俺は、俺か?」


ふと、そんな言葉が、どこからともなく脳裏に浮かんだ。


パッケージの銀面に、ぼんやりと映った自分の顔。

感情のない目。

呼吸の静かな輪郭。

口元に影が差し、まるで別人のように見える。


このパッケージに書かれているのは、

本当に“警告”だったのか?

それとも“免罪符”だったのか?

自分を人間から解放する“手続き”だったのか?


『よく考えて』

――あの言葉に従うなら、いまの自分は“考えすぎてしまっている”のではないか。


フィアネクスは“恐怖を消す”薬だ。

だが、恐怖とは何だったか。


震え、息切れ、羞恥、緊張、不安。

それらは確かに不快だった。

でも同時に、それらは“誰かの痛み”を感じ取る感覚の母体でもあった。


恐怖を感じたからこそ、優しくなれた。

怯えたからこそ、誰かの孤独がわかった。


今の綾人は、それを――もう、わからない。


それでも、恐怖は戻ってこない。

戻るには、あと約2週間。


「長いな……」


声に出したその言葉も、熱を帯びていなかった。


再びパッケージを見る。


文字は、そこに変わらず存在している。

この薬は、冷静に言えば「ただの選択肢」だった。


でも、使ってしまった人間にとって、それはもう“不可逆な線”だった。


綾人は、小さく息を吐いた。

その吐息もまた、まるで他人のもののようだった。


1時間が経過しても、彼の視線はパッケージから離れなかった。


もはや、それは彼自身の「墓標」のようにも見えていた。

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