消失する共感
教室の空気が、どこか遠く感じられた。
それは、遮音されたガラスの向こうで行われている日常を、ただ眺めているような距離感。
言葉は聞こえる。動きも見える。
でも、なぜか“届かない”。
「昨日さ、佐伯が泣いてたの見た? なんか彼氏にフラれたらしいよ」
「マジ? かわいそ」
女子たちの会話が、耳に入った。
綾人はその中のひとり――佐伯という女子の席に目を向けた。
うつむき、頬杖をついて、じっとノートを見つめている。
どことなく目元が赤い。
泣いたのだろう。失恋――なるほど、そういうことか。
綾人は、まったく何も感じなかった。
「かわいそう」という感覚が、頭には理解できるのに、
心が何の反応も返してこない。
以前なら、気まずくなって目をそらしていたかもしれない。
不器用に励まそうとして言葉に詰まっただろう。
でも今は、ただ見て、ただ理解して、それだけだった。
彼女の痛みが「遠いもの」にしか思えなかった。
まるで、別の種類の生き物を観察しているように。
放課後、望月と帰り道が重なった。
「お前、なんか最近……顔つき変わったな。怖いくらい冷静っていうかさ」
綾人は軽く笑った。
「よく言われる」
「いや、別に悪いってわけじゃないけど……前より話しにくくなったっつーか、感情が見えないっていうか……」
その言葉にも、心は揺れなかった。
望月は、気まずそうに笑ってごまかした。
その姿を見て、綾人は気づく。
「ああ、俺は“怖がられてる”んだ」
そして、その感覚すら――どこか他人事だった。
帰宅すると、母が玄関で誰かと電話していた。
慌ただしい声。受話器を持つ手が震えている。
「え……でもそんな急に……はい……はい……」
電話を切った母が、蒼白な顔で綾人を振り返った。
「綾人、おばあちゃんが倒れたって。病院……救急搬送されたって……」
そう言われたとき、綾人は一瞬だけ目を細めた。
その理由を、自分でもわからなかった。
「行く?」
「行かなくていい。母さんひとりで行ってあげて。俺、ここにいる」
母は戸惑いながらも、バッグを掴んで出ていった。
その背中を、綾人は黙って見送った。
閉まった玄関の向こう――
遠ざかる足音を聞きながら、綾人はただ椅子に座り、窓の外を見た。
春の光は傾きかけ、柔らかく部屋を照らしている。
“おばあちゃんが倒れた”。
その事実が、頭の中にはあった。
でも、心がまったく追いつかない。
悲しみというものが、どこにあるのかわからない。
数週間前まで、家族が倒れたと聞けば血の気が引いたはずだった。
父の怒声に怯え、誰かの痛みに心を寄せていた“自分”が、
今はどこにもいない。
「俺、死を“悲しい”と感じなくなってるのか」
そう呟いたとき、やっと微かに心が揺れた。
それは“怖さ”に近かった。
ただし、それは「おばあちゃんが死ぬかもしれないこと」に対してではなかった。
「それすら、もう何も感じない自分」への、
鈍く冷たい恐怖だった。
それは、フィアネクスが最初に奪った“恐怖”の、
はるか奥にあった“共感”という柱の崩壊だった。
そして――
その静けさが、あまりにも心地よく、
同時に、あまりにも取り返しのつかないもののように思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます