感情の模倣

「それでさ、結局あの先生が怒鳴ってさー、クラス全体が凍りついたんだよ。なあ? 中谷?」


放課後、教室の後ろで望月が笑っていた。

綾人は、わずかに口元を上げて応えた。

「……そうだな。すごかった」


笑顔を作る。

相づちを打つ。

表情筋を動かし、声に抑揚を与える。


――まるで、「演技」だった。


他人と話すとき、綾人はそうやって“それらしく”振る舞うようになった。

怒るタイミング、笑うタイミング、驚く表情、沈む目線。

すべては、以前の“自分がしていたこと”を思い出して、なぞるように行っている。


「感情がない」ことは、周囲に悟られてはならない。

そう考える自分がまだ“どこかにいる”ことが、綾人の中の最後の人間性だった。


彼は今や、他人の感情に「反応」するのではなく、「再現」していた。



「佐伯、だいじょうぶ?」

「うん、……ありがとう」


昼休み、女子たちの輪の中で、佐伯がまた泣いていた。

今度は祖父の訃報だったらしい。


綾人は遠巻きに見ていた。

誰かが背中をさすり、ハンカチを渡し、静かな空気が流れる。


――そこに“入らないといけない”と、頭が判断した。


綾人はゆっくりと近づき、柔らかな声を作る。


「佐伯……無理しなくていい。大変だったな」


佐伯が顔を上げた。

その目にはうっすら涙が浮かんでいた。


「……ありがとう、中谷くん」


綾人は、ほんの一瞬だけその言葉に“あたたかいもの”を感じた気がした。

だが、それもすぐに霧散した。


表情は保っていた。

けれど、心の奥は何も反応していなかった。


「これは“感情のやりとり”じゃない」

「俺がやっているのは、“感情の模倣”だ」


佐伯の涙が、光に滲んで揺れる。

だが綾人の目は、それを美しいとも、痛ましいとも感じなかった。


“ただの水分”にしか見えなかった。



夜、帰宅してから、綾人は風呂の鏡を覗き込んでいた。


目を細めて笑ってみる。

驚いたふり。悲しんだふり。

苦しそうな顔。微笑む顔。怒る顔。


どれも「知っている顔」だった。

でも、その裏側に“揺れ”がなかった。


「演技は上達してる。

 でも……この顔の奥に、“何もない”」


それは、演じる役者が脚本も舞台も忘れて、ただ動いているような空虚さ。


綾人はバスタオルで顔を拭きながら、ふとつぶやいた。


「俺、どうして“それらしく振る舞おう”としてるんだ?」


怖くない。悲しくない。

なのに、どうして“悲しいふり”をしようとする?


なぜ、“人間らしく”見せたいと思う?


答えは、ない。


ただ、そうしないと“周囲から浮く”ことは理解している。

それは恐怖ではない。計算だった。

だからこそ、より深く、冷たかった。


まるで、彼の中の“人間性”が最後の手順を残して、

自分の役割をなぞっているだけのようだった。


演技は、やがて終わる。

役を降りたとき、舞台の上には――

“誰もいなかった”と気づく日が、来るのかもしれない。


そしてその日、綾人はきっとこう思う。


「悲しい、とは何か。

 ……俺は、忘れてしまった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る