第5話 モノクローム


 学生時代、僕には何も無かった。


 いや、それは言い方が曖昧だ。言い換えるとすれば、自分がどうなりたいのか考えることができなかった。漠然とした夢もなければ、単純な夢もない。ただ淡々と日々の学業と交友関係と、家族生活を繰り返すだけで、そこに将来性は無かった。


 ただ、そこに焦りがあるかといえば、それもなかった。結局のところ何に焦るべきかも分からなかったのだ。幸い中の上くらいの頭は持ち合わせていたから進路に困ることもなかった。このままうまくやり過ごせるのなら、それも良いのかもしれない。


帷子かたびらくん、教室で何たそがれてんの?」


 振り向くと、教室の入り口に高田たかださんの姿があった。ジャージと極端に短い短パンを身に纏って、ベリーショートに切り揃えられた髪は汗で湿って額にぺったりと張り付いている。


「たそがれてるわけじゃないんだ、これが書けなくてさ」


 僕は彼女に見えるように進路希望書を差し出す。まだ一筆も入っていない真っ白い用紙を見て、高田たかださんは「え、まだ悩んでるの?」と目を丸くしている。提出締め切りはもう一週間も過ぎている。


「適当に書いちゃえばいいのに」


「その適当な進路も思いつかないんだよ。ほんと、何したいんだろ」


「そんな悩み方する人もいるんだねえ、レアだレア」


 もう一度彼女を見つめると、高田たかださんは悪戯いたずらっぽく笑うと僕の前の席に手を掛ける。このままどっかりと雑に座りそうだなと思っていたら、彼女はわざわざ席の向きを直し、音を立てないように静かに座った。


 その所作の意外さに驚いて、彼女の綺麗な姿勢を見ていると、高田たかださんは少し恥ずかしそうに体を屈めた。


「何よ」


「いや、わざわざ椅子の向き変えて座るんだと思ってさ。ほら、運動部特有の背もたれに寄りかかる感じを想像してたから」


「とんだ偏見よ、それ。あたし以外に言わない方が身のためだよ……いや、あたしに言うのも失礼だわ」


 自問自答の末に怒り出す彼女を見て僕は思わず笑う。


 コロコロと変わる彼女の表情は見ていて飽きない。怒りつつも相手にしてくれるということは、それなりに会話を楽しんでくれているのだろう。


「なんかさ、座り方って人が出るでしょ。前屈みだと卑屈っぽく見えるし、背もたれにどっかり座っちゃうと増長してるように見えたり。姿勢ってその人を物語っている気がするから、あたしはそういう見られ方も意識してるの。ほら、スポーツ一本でいこうとしてるじゃない? 今の君みたいなものじゃない、もっと悪意に満ちた偏見を押し付けてくる人もいると思うのよ、だから、自分で潰せるとこは全て予め潰しておくの。そうしたら最強だと思わない?」


「最強か」


「そこだけ拾わないでよ、結構良いこと言ってたと思わない? どちらかというと最強の前の言葉拾って欲しいんだけど!」


「いや、立派だと思うよ。確かに、座り方って人が出るよね。僕はわりと屈みがちかな、日吉ひよしとかはああ見えて背もたれにどっかりだし、なんなら足も組むよ」


「完璧な自分に酔ってるのよ、アイツ。ああやだやだ、あたしアイツのそういうとこ嫌いだわ」


「良いやつだけどね」


「良いやつだからよ、いい奴だからその分ダメなとこが余計に目がつく」


 高田たかださんはそう言って頬杖をつく。先日彼女の友人を日吉ひよしが振ったのも、毒づく理由の一つだろう。その理由も気に食わなかったのだと思う。


 日吉ひよしは自分を謙っていつも告白を断る。自分なんかよりも良い人がいる、と。自分がどうか、という理由で断ることがない。相手の為だと思ってのことだろうが、それでも彼はその断り方を貫いている。あまりにも頑なだから、何かしら理由があるのだろう。


帷子かたびらくんもさ、何か見つかるといいね。自分のいいとこ」


「自分の良いところ?」彼女は頷く。


「そうしたらすぐにでも決まるよ、自分のこれからが。誰にだってあると思うんだ。自分がこうなりたいっていうものが。帷子かたびらくんにもきっとあるよ」


「そう、かな。高田たかださんみたいなのがあったらいいんだけど」


「あたしは結構早い段階で見つけちゃったからね、こればっかりはタイミングよタイミング」


 そうだなあ、と彼女は僕をじっと観察し、それから何かを思い付いたのか、パッと花が咲くみたいな自信に満ちた笑みを浮かべると、自分の座る椅子を指差した。


「その人がよく見える椅子を作るとか、どう?」


「椅子?」


「そう、完璧なフィット感があって、どうやっても良い姿勢でしか座れなくなるの。そうしたらみんな、座る姿勢もよく見えるし、イメージも最高! どう?」


「どう、って言われても……椅子かあ」


「イマイチ?」


 高田たかださんの言葉に僕は曖昧な頷きで返答する。


「いいじゃない、もしかしたら帷子かたびらくんのその、座り方で人を見る目に救われる人がいるかもしれないよ」


「救われるって……そんな大した着眼点じゃないと思うけど」


「それくらい考えたっていいじゃない。自分の何かが人の心を動かすかもとか、感動させるかもとか、そんな可能性があるかもって、それくらい自信もって突き進んだってバチは当たらないよ。何より自分の心にも健康的だよ。あたし天才、あたしスゴイって思ってた方が次の日の寝起きが良いみたいな」


「何それ、いつもそんなこと考えてるの?」


 僕の失笑じみた笑いに彼女は自信に溢れた笑みで応える。


「あたしは、そうやって毎日、自分を褒めて生きていくことにした」


 窓辺に寄りかかって笑う彼女は、とても輝いて見えた。他の人にはただ西日が窓に差し込んでいたからだとか、そう諭されるかもしれない。ただ、それでも確かに彼女はあの時、自分の煌めきを確信して生きていて、それが確かに彼女自身から出ていたと思う。


 風に揺れるカーテンと彼女の短い髪と、前を開いたジャージのはためき。あ、涼しいと彼女は笑って窓の外に目を向ける。彼女と同じ部員たちが精一杯に練習する光景、野球部の号令、サッカー部の目まぐるしいアピール。暮れかけても止まない情熱の融けるグラウンドを二人で眺める。


「そろそろ戻らないと」


「まだまだやるの?」


「もちろん、むしろこれからだよ。ちょっとくじいちゃったから休憩しろって言われてね。でも帷子かたびらくんと話してて大分休めたから、そろそろ復帰」


 彼女は右足をぐりぐりと捏ねてから軽く二、三度ジャンプする。それが復調の証だとでも言うかのように。


「じゃあ、頑張って」


帷子かたびらくんもね」


「僕も?」


「そ、良い椅子職人になれることを祈ってるよ」


「流石にそれは需要が狭すぎない?」


 と、と、と、と軽快な足取りで教室を出た高田たかださんは、最後に僕に向けて悪戯っぽく笑い、去っていった。廊下を駆ける音と、途中教師が注意する声が聞こえたが、しばらくして足音は消えてなくなった。。彼女は自分の青春に戻っていったのだ。このまま窓の外を眺めていれば、彼女は現れるだろう。持ち前の確固たる意思と輝きを持って。


 僕は窓辺から離れて再び自分の机に戻る。それからペンを持ち、進路希望書の第一希望にこう書いた。


「インテリアデザイナー」


 とりあえずなりたいものを書いておけば、それに必要な項目は担任から出してもらえるだろう。今自分の中に「どうなればいいのか」は浮かんでいないから、そういうところは要相談だ。ただ少なくとも、道筋を一つ書き出せた。あとは、どう生きるかだ。


 第一希望だけ埋まった用紙を頬杖をつきながら眺め、それから余白の隅に僕は高田さんの名前を書いてみた。あれだけ溌剌はつらつとしていて、誰よりも確固たる姿勢を持っているのに、名前はとても可愛らしい。本人はそれを嫌がっているようだけど、正直そのギャップも含めて、悪くないと思う。



 僕は、高田たかださんが好きだ。



 きっと、彼女が僕のことをクラスメイト以上の目で見てくれることなんてないと分かっている。一生打ち明けることのない気持ちだと分かっていても、この気持ちには嘘をつけない。


 あの輝きに触れているだけで、僕も彼女のように生きられるのではないかと、そう思わされる。この先の自分なんて分からないけれど、将来また彼女と出会った時、せめて笑われないように生きていたい。


 そして、いつか、この叶うことのないこの気持ちと共に、自分がどう生きたのか伝えようと思う。

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