第5話 モノクローム
学生時代、僕には何も無かった。
いや、それは言い方が曖昧だ。言い換えるとすれば、自分がどうなりたいのか考えることができなかった。漠然とした夢もなければ、単純な夢もない。ただ淡々と日々の学業と交友関係と、家族生活を繰り返すだけで、そこに将来性は無かった。
ただ、そこに焦りがあるかといえば、それもなかった。結局のところ何に焦るべきかも分からなかったのだ。幸い中の上くらいの頭は持ち合わせていたから進路に困ることもなかった。このままうまくやり過ごせるのなら、それも良いのかもしれない。
「
振り向くと、教室の入り口に
「たそがれてるわけじゃないんだ、これが書けなくてさ」
僕は彼女に見えるように進路希望書を差し出す。まだ一筆も入っていない真っ白い用紙を見て、
「適当に書いちゃえばいいのに」
「その適当な進路も思いつかないんだよ。ほんと、何したいんだろ」
「そんな悩み方する人もいるんだねえ、レアだレア」
もう一度彼女を見つめると、
その所作の意外さに驚いて、彼女の綺麗な姿勢を見ていると、
「何よ」
「いや、わざわざ椅子の向き変えて座るんだと思ってさ。ほら、運動部特有の背もたれに寄りかかる感じを想像してたから」
「とんだ偏見よ、それ。あたし以外に言わない方が身のためだよ……いや、あたしに言うのも失礼だわ」
自問自答の末に怒り出す彼女を見て僕は思わず笑う。
コロコロと変わる彼女の表情は見ていて飽きない。怒りつつも相手にしてくれるということは、それなりに会話を楽しんでくれているのだろう。
「なんかさ、座り方って人が出るでしょ。前屈みだと卑屈っぽく見えるし、背もたれにどっかり座っちゃうと増長してるように見えたり。姿勢ってその人を物語っている気がするから、あたしはそういう見られ方も意識してるの。ほら、スポーツ一本でいこうとしてるじゃない? 今の君みたいなものじゃない、もっと悪意に満ちた偏見を押し付けてくる人もいると思うのよ、だから、自分で潰せるとこは全て予め潰しておくの。そうしたら最強だと思わない?」
「最強か」
「そこだけ拾わないでよ、結構良いこと言ってたと思わない? どちらかというと最強の前の言葉拾って欲しいんだけど!」
「いや、立派だと思うよ。確かに、座り方って人が出るよね。僕はわりと屈みがちかな、
「完璧な自分に酔ってるのよ、アイツ。ああやだやだ、あたしアイツのそういうとこ嫌いだわ」
「良いやつだけどね」
「良いやつだからよ、いい奴だからその分ダメなとこが余計に目がつく」
「
「自分の良いところ?」彼女は頷く。
「そうしたらすぐにでも決まるよ、自分のこれからが。誰にだってあると思うんだ。自分がこうなりたいっていうものが。
「そう、かな。
「あたしは結構早い段階で見つけちゃったからね、こればっかりはタイミングよタイミング」
そうだなあ、と彼女は僕をじっと観察し、それから何かを思い付いたのか、パッと花が咲くみたいな自信に満ちた笑みを浮かべると、自分の座る椅子を指差した。
「その人がよく見える椅子を作るとか、どう?」
「椅子?」
「そう、完璧なフィット感があって、どうやっても良い姿勢でしか座れなくなるの。そうしたらみんな、座る姿勢もよく見えるし、イメージも最高! どう?」
「どう、って言われても……椅子かあ」
「イマイチ?」
「いいじゃない、もしかしたら
「救われるって……そんな大した着眼点じゃないと思うけど」
「それくらい考えたっていいじゃない。自分の何かが人の心を動かすかもとか、感動させるかもとか、そんな可能性があるかもって、それくらい自信もって突き進んだってバチは当たらないよ。何より自分の心にも健康的だよ。あたし天才、あたしスゴイって思ってた方が次の日の寝起きが良いみたいな」
「何それ、いつもそんなこと考えてるの?」
僕の失笑じみた笑いに彼女は自信に溢れた笑みで応える。
「あたしは、そうやって毎日、自分を褒めて生きていくことにした」
窓辺に寄りかかって笑う彼女は、とても輝いて見えた。他の人にはただ西日が窓に差し込んでいたからだとか、そう諭されるかもしれない。ただ、それでも確かに彼女はあの時、自分の煌めきを確信して生きていて、それが確かに彼女自身から出ていたと思う。
風に揺れるカーテンと彼女の短い髪と、前を開いたジャージのはためき。あ、涼しいと彼女は笑って窓の外に目を向ける。彼女と同じ部員たちが精一杯に練習する光景、野球部の号令、サッカー部の目まぐるしいアピール。暮れかけても止まない情熱の融けるグラウンドを二人で眺める。
「そろそろ戻らないと」
「まだまだやるの?」
「もちろん、むしろこれからだよ。ちょっと
彼女は右足をぐりぐりと捏ねてから軽く二、三度ジャンプする。それが復調の証だとでも言うかのように。
「じゃあ、頑張って」
「
「僕も?」
「そ、良い椅子職人になれることを祈ってるよ」
「流石にそれは需要が狭すぎない?」
と、と、と、と軽快な足取りで教室を出た
僕は窓辺から離れて再び自分の机に戻る。それからペンを持ち、進路希望書の第一希望にこう書いた。
「インテリアデザイナー」
とりあえずなりたいものを書いておけば、それに必要な項目は担任から出してもらえるだろう。今自分の中に「どうなればいいのか」は浮かんでいないから、そういうところは要相談だ。ただ少なくとも、道筋を一つ書き出せた。あとは、どう生きるかだ。
第一希望だけ埋まった用紙を頬杖をつきながら眺め、それから余白の隅に僕は高田さんの名前を書いてみた。あれだけ
僕は、
きっと、彼女が僕のことをクラスメイト以上の目で見てくれることなんてないと分かっている。一生打ち明けることのない気持ちだと分かっていても、この気持ちには嘘をつけない。
あの輝きに触れているだけで、僕も彼女のように生きられるのではないかと、そう思わされる。この先の自分なんて分からないけれど、将来また彼女と出会った時、せめて笑われないように生きていたい。
そして、いつか、この叶うことのないこの気持ちと共に、自分がどう生きたのか伝えようと思う。
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