第4話 共感覚


 僕は彼女と何度も花屋で会った。彼女は会う度に用意できていないブーケを詫びたし、僕はそれを特に気にすることなく彼女を励ました。花を知らない彼女、花を聞くこともできない彼女、その事実を打ち明けることもできない彼女。その全てが苦しくて、察していながら何もしない自分のいやしさが嫌になる。でもそれ以上に、僕は彼女と会話がしたかった。


 僕のこの一連の行為を他人に伝えたならば、きっと返ってくる言葉は軽蔑けいべつを込めたものに違いない。そう理解している。でも理解していても自制することができない。僕は未だに日吉ひよし高木たかださんと再会したことを言えていない。飲みの場で打ち明けられる瞬間は幾つもあった。彼女の名前が話題に上がった時についでのように言ってしまえば良かったのに、僕はそれができなかった。ブーケはもう別の店で買って渡してしまった。赤とピンクの薔薇ばらでできたプリザーブドフラワーが詰まった写真立ては、彼とその彼女にとても喜ばれた。


 少しして、彼女から食事に誘われた。もう何度目だろうか。店先で会話を続ける内に、徐々に学生時代の自分を取り戻していったのだろうか、時折彼女の言葉や表情の端から本来の彼女らしさを感じ取れるようになってきた。僕はそれが嬉しかったし、同時に悲しくもあった。あの頃、彼女の自信に満ちた姿は確かにあって、それは僕の記憶違いや日吉のうろ覚えでもなく、確かな現実だ。


 今ここで不安定に立つ彼女からその記憶の断片が破片となって転がり出る度に、僕は胸が苦しくなった。



「こうして同級生と一緒にごはんをするなんて、思ってもなかった」


「僕もだよ。まさか高木たかださんとまた会えるなんて思わなかったから」


 僕の言葉に彼女は小さく微笑む。街の片隅にある小さなレストランで、小ぢんまりとした隠れ家のような店だった。僕らはまるで誰にも見つからないように、息を潜めるように身を縮こまらせながら、店内の奥にあるテーブルでひっそりと座っている。


帷子かたびらくんも知ってると思うけどさ」


 食後のリラックスし始めたタイミングで高木さんはそう言って口火を切った。彼女が置いたティーカップから陶器のぶつかり合う音がして、カップの中のコーヒーが揺れた。


 僕が顔を上げると、彼女は店の入り口にある小さな窓を見つめていた。外を眺めるとか、そういうものではなく、ただ「窓」という枠から見える景色を無感情に見つめている。いつの間にか背は丸まり、彼女の姿は小さくまとまっていた。まるでこの小さなレストランに適合するかのように小さく、息を潜めるように、小さく。


「当時を知ってる人からしたら、今の私は別人のように見えると思うんだ。だって私は、自信に満ち溢れていたし、自分の生き方を決められる。死に方まで分かったように振る舞えたからね」


「うん、高木たかださんは、そういう人だった」


 確固たる自分を持っている。日吉ひよしは彼女をそう評した。僕も同意見だった。彼女は確固たる自分を持っていて、彼女の言うように生き方も、死に方も全てを選べる。それくらいの自信を持っている存在だと思っていた。


「あの頃は良かった。自分が進む道はあっちだって、私も、私以外の人たちも言ってくれた。指し示してくれた道筋を辿るように進めばいいって、すごく楽だったんだ」


 高木たかださんの視線は変わらず窓にある。昼光色で彩られた店内に唯一差し込む白い光と、昼過ぎの街中を人々が通り過ぎていく。シフト生活の恩恵とも言える平日の穏やかな日常を横切るのは、大抵仕事を連想させる姿か、自分達と同じように点在する休日を持て余す姿だった。


「なんでこうなっちゃったのかな」


 彼女はぽつりと呟いた。その言葉には悲観も、絶望も、後悔も無かった。ただ単純に今の自分の現状を俯瞰ふかんして語るような、今ここにいる自分が街中の一人の人物のような言い方だった。ほんの少し上から僕と彼女の食事を眺めて、予定していたロードマップが狂い、やり直しも効かないままただ望まないエンディングを待つような、そんな諦観ていかんに満ちた言葉で、僕はどう声をかけるべきか分からず口を閉ざして彼女の横顔を見つめていた。


帷子かたびらくんはさ、今幸せ?」


「僕は……」


 僕は、どうなのだろう。


 少なくとも自分の特性にあった仕事はできていると思う。成績も悪くないし、何か絶望的な失敗をしたことも、挫けてしまったこともない。ただ漠然と好きだった「インテリア」に関連した仕事をしている。


 けれども、彼女の言う「幸せ」という言葉に即答できないのは、そこに「確固たるもの」が無いからだ。自分は椅子を売ることに関しては周りよりも秀でているのかもしれない。けれども果たしてそれは、自分である必要があるのだろうか。ある時突然自分がいなくなったとしても、あの店は、この世界は変わらず廻るのではないのだろうか。


 その不安が、漠然ばくぜんとした不安が拭えないのだ。明確な理由がない不安ほど厄介なものはないと思う。


 そういう意味では、彼女と僕は同じなのかもしれない。


「分からない」


 同じだからこそ、この問いに答えが出ない。


 確固たる自分の立ち位置が崩れ去った先に、自分以外の代替品があることをおそらく知ってしまった彼女と、代替品があるかもしれないことに漠然とした不安を覚える僕。


 既に事が起きてしまった人間に何を伝えたとして、彼女を癒すものにはならない。


「そっか」


 高木たかださんはそう言って笑った。見つからない落とし所にがっかりしたような、けれども事実を突きつけられなかったことに安堵したような、そんな曖昧な笑みだった。



   ○


 

 長い接客の末辿り着いたクロージングでの会話で、客の手に残っていたのは一台のロッキングチェアだった。


 長い同棲の末に結婚を決めたことで、今後少しづつ自分の時間を失っていくことを憂いてリビングに一つ「自分を感じられるスペース」を作りたいのだという。ソファやダイニングチェアとは違う自分だけの椅子。相手との時間も、後の子供との時間も大切にしたいが、それでもどこか一つ、自分にとって線が引ける区切りのような存在が部屋に欲しかったそうだ。


 彼の話を聞いて、丁度入荷したばかりのロッキングチェアのことを思い出し、彼に紹介すると、彼はそれをいたく気に入った。スピンドルを組み合わせた抜けの良いバックレストが特に気に入ったのだという。オーク材を使ったアンティーク調のブラウンカラーが部屋には合わない、と奥様はあまり気に入っていない様子だったが、彼はむしろその異物感が欲しいのだと言った。北欧テイストでまとめられた二人の世界に、馴染まないものが一つ欲しい、と。


帷子かたびらさんは、椅子が好きなんですか?」


 会計と配送の手続きを終えた後、彼はそう僕に尋ねた。よく聞かれる問いだった。あまりにもぴったりの椅子を持ってきてくれるから、ある種マニアのような人間なのではないかと。僕はいつも通り頭を振る。


「いえ、人並みです。ただ、なんでしょう。お客様の生活を考えた時に、ぱっと脳裏に椅子が浮かぶんです。インテリアの特長を伺えばその中に置かれた時のトーンや、体格や重視される点を伺えば、実際にどのように座られるのか」


「なるほど。つまり帷子かたびらさんは、空白を埋めるのが得意なのですね」


 彼の言葉に僕は少し呆けてしまった。空白を、埋める……。


 動揺が顔に出ていたのか、彼は恥ずかしそうに笑って肩を竦めた。


「ああ、いやすみません。分かりにくかったですね。お話を聞いていると、帷子かたびらさんはその人の何か損なってしまったものというか、埋めたいものを感じ取れる人なのかな、と思ったんです。丁度僕なら、妻との生活で少なくとも自分の領域を失うかもしれない、という空白に」


「そんな束縛しませんよ」


 奥様にちくりと刺された彼は誤魔化すように笑いかけ、それから再び僕に向き直る。


「共感覚って言葉をご存知ですか? 文字や音、感情などの様々な感覚に色を感じるというものです。ある種スピリチュアルなものなのですが、人によっては痛みを赤く感じたり、明るい音は黄色く感じたりするそうです。勿論それこそ、十人十色で、全く同じ共感覚の人はいないみたいですが」


「つまるところ、僕にとってはそれが椅子だと?」


 彼は頷く。


「まあ、果たしてこれを共感覚と同じカテゴリに属して良いのかは正直分かりません。貴方のこれまでの経験則から選んだものが偶然、僕がまさに求めていた椅子だったという可能性もありますから。ただ、人のぴったりの椅子を感じて、選べるという共感覚があるとしたら、それはとてもロマンティックだと思います」


「ロマンティック、ですか」


「あなた、帷子かたびらさん困ってるわ」


「ああ、すみませんでした。こういう話は好きで、ついきっかけがあると話したくなってしまうんです。では、あのロッキングチェアは来週の午後によろしくお願いします」


 彼はサインを終えて、妻と共に店を後にした。二人の背中を見送りながら、僕は最後に言われた言葉を思い返す。



 共感覚。



 あまりにも荒唐無稽な理由づけだと思いつつ、否定しきれない自分がいた。


 それこそが、自分の才能だと信じたいのかもしれない。


 何もないと思っていた自分に与えられたギフテッドだと。


帷子かたびらくん、ずいぶんと不思議な話をしていたわね」


 客を見送り終えて振り返ると、店長が立っていた。僕はサインを終えた発注シートを彼女に手渡す。彼女はそれをじっくりと眺めてから、お疲れ様、と淡々とした口調で一言言って、僕の肩を叩く。


「ねえ、私、あなたの能力を買っていないわけじゃないのよ。だからさっきのお客様の言っていたことも理解できるの。人にはなんだって得手不得手があるのだから、あなたはたまたま椅子に興味があって、それでいて人の座るべきものがわかる。とても能力のある社員よ」


 でもね、それだけじゃダメなのよ、と店長は続けた。


「この先もその能力を活かしたいのなら、その才能を客観的に見られないといけない。人間、どこでどんな風にぷっつりと切れるか分からない。本来自分が唯一無二と思っていたものが通用しなくなった時、確固たる自信を失った先の絶望は、とても根深くなるのよ」


 だからね、と彼女は言う。


「幅を広げてほしいのよ。いつか今みたいに椅子を売ることができなくなった時、空っぽになった自分を恐れないように、その場凌ぎしのぎでもいいから、いくつか手札を持っておいてほしいの。今までの道筋が辿れなくなった時は、手を替え品を替えて。そうやって途絶えた道をつぎはぎして繋いだら、また元の道に戻れるかもしれないからね」


「店長も、あったんですか、そういう……時期が」


 僕の問いかけに呆れたように店長はあは、と声を出して笑った。普段から帳簿を見つめてむすっとした表情を浮かべる姿よりも、今の彼女の姿はとても魅力的に見えた。


「あるに決まってるじゃない。じゃなきゃここで店長なんてやってないわよ。挫折もしたし、思い通りにいかないこともあったし、これが自分だ!ってものがへし折れた時には死にたくもなったわよ」


 でも、結局死ななかった。店長はそう呟いてから僕を見て微笑む。


「一つ、プライベートな話をしてあげようか、私はね、建築家になりたかったの」


 そう言って店長は、彼女は僕の背中を二回叩き、それからウインクをした。

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