第3話 花屋の娘
その花屋に立ち寄ったのは、本当に偶然だった。
日吉と横浜駅の改札前で別れた後、ふと彼の結婚祝いをまだ準備できていないことに気がついた僕は、なんとなく花のブーケが良いのではないかと思い、改札を通らずそのまま人の流れに身を任せるようにポルタの地下街へと向かった。日吉の好みはともかく、相手の好みも分からない中で、日吉にも聞かずに贈り物を考えるのなら、花だろうと思ったのだ。ブーケくらいのサイズであれば場所を取ることもない。
しかし、結婚する人に贈る花といえば何になるのだろう。
「あの、すみません」
「はい、いらっしゃいませ」
ちょうど店先のディスプレイを整えていた女性に声をかけると、彼女は少し高めの丁寧な挨拶と共に振り返る。後ろで一つにまとめられた髪の揺れに一瞬気を取られ、少し遅れて僕は目の前の女性の顔をよく知っていることに気がついた。彼女もまた、僕を覚えているようで、戸惑いのような表情を浮かべていた。
「
初めに言葉を口にしたのは、
「久しぶり。
「うん、まさかここで同級生に会えるなんてびっくりした。
「僕はベイクオーターで仕事してるんだ。家具売ってる」
「そっか、全然知らなかった。案外近くにいたんだね、私たち」
久しぶりに会った相手との話題で、今どんな仕事をしているか、という題目はかなり便利だ。少なくとも
状況はわからない。けれども一つ分かることがあるとすれば、彼女に疑問を投げかけてはいけないということだった。僕がどうしてと思っている事柄を、恐らく彼女は抱え込んでいるからだ。
彼女は「確固たるものを持っている」人だった。そしてその「確固たるもの」というものは、彼女自身の自信に繋がっていて、決められた未来であり、生涯だった。全ての生き方を決めるに値するポイントを持っていたはずの彼女が、ここで花屋をしていること自体、本来はあり得ないことだ。
僕と彼女はしばらく黙ったまま時間を過ごしていた。互いに目が泳いでいるし、次の会話も見つからない。気がつくと遊ばせていた手元はエプロンを握りしめており、それがある種の拒絶のように見えて、僕はひどく傷つけられた気がしてしまった。
「
ともかくこの場を離れたかった。彼女は僕、というよりは旧来の自分を知っている存在を拒絶している。
僕がここで何かできることは何もないと思った。僕は彼女と親友と呼べる間柄ではない。クラスメイトで、彼女の生き方に憧れて、そして勝手に恋心を抱いていただけの一個人に過ぎないのだから。
「結婚祝いを何もしてなかったから、花のブーケを買いたくて。ほら、プレゼントって何買えばいいか分からないからさ、変に気の利いたものを贈るより、花がいいんじゃないかなって。それでポルタの方行けば花屋があるんじゃないかなって思って」
「
「そうなんだ、検索して探した方が良かったのかな」
「いや、別に、うちみたいな小さいとこ見つけてくれて嬉しいっていうか、貴重な接客ができて良かった」
「それなら、うん、良かった」
数年ぶりの想い人と会うのは、こんなにもやりづらいものなのだろうか。僕は居心地の悪さに彼女から目を逸らし、ディスプレイに並べられた花に目を向ける。
「結婚祝いの花でおすすめってあるかな?」
「あ、その……」
「その、プレゼントっていつの予定?」
「特に決めてないけれど……。もう結婚して少し経っているし、できれば早めに渡せたらってくらいかな」
「少し、考えさせてもらってもいい? その、日吉くんでしょ、せっかく同級生のお祝いなんだし、気合入れて選びたいし、ブーケもこだわったものを作りたくてさ」
彼女の言葉を聞いた時、僕の胸がぐっと引き締まるのを感じた。呼吸は難なくできるけれど、どことなく息苦しいこの感覚は、なんだろうか。何か、損なうことを避けていた何かにヒビが入るような、痛みにも似た感覚だった。
内心はひどく痛めつけられていた中で、表面上は平静を保つことができたのは奇跡だったと思う。少なくとも学生としての生活を終えて数年間接客経験を積んできたことが功を奏したのかもしれない。どんなにコンディションが最悪でも、それは客に通じない。店長に口すっぱく教えられてきたその言葉が、まさかこんなところで役に立つとは思いも寄らなかった。
僕はそっか、と答えて笑いかける。
「
彼女に、絶望を悟られては行けない。装う僕の脳裏にその言葉が、ずっとこびりつくように付き
「あと、これは
「うん、全然いいよ、全然いつでも」
彼女が同郷と会いたくないことは分かっていた。それでも彼女はそう答えるだろうということも分かっていた。ただ、それでも僕は彼女との繋がりを、ここで終わらせたくなかった。
何故彼女が今ここにいるのかは分からない。それを聞くこともできない。かつての面影を失った彼女に絶望した僕が、それでもどうして彼女を気にかけてしまうのか、それも正直上手く説明ができない。ただ単純に彼女が好きだったという言葉で纏めるにはどうにも具合が悪い。
「じゃあ、また来るよ。注文書に名前と番号書いておくからさ、気が向いたら連絡して」
「うん……分かった。良いブーケにするね」
そう言って僕は彼女の店の注文書に情報を書き込み、店を後にした。
人混みを割るように進み、階段を登って一番手前の改札を通ってプラットフォームに向かう。電車はあと数分しないと来ない。僕はできるだけプラットフォームの奥の方に進んでいく。地面をずっと見つめたまま、僕は歩き続ける。途中肩がぶつかって僕はよろけてしまい、そのまま壁に寄りかかる。
いや、思い出すまでもなく、彼女の胸の奥には、常に喪失感があるに違いない。
花の名前も挙げられず、ブーケを見繕うと答えた彼女の焦りに満ちた表情を見れば、同業ならすぐに分かる。
彼女はあの花屋で満足に働けていないということを。
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