第2話 帷子と日吉


帷子かたびらはさ、チャレンジよりは安定を取るタイプだよね」


 僕のひとりごちた言葉の羅列を咀嚼そしゃくしながら日吉ひよしはそう言ってはにかむ。注文したばかりのビールを一気に飲み干し、美味そうに声を上げている姿を見て、僕も思わずビールが飲みたくなって追加注文した。それくらい気持ちのいい飲み方だった。


 日吉ひよしは何をするのも綺麗に見えるし、仕草や行動が全て気持ちいい男だ。普段からあまり飲みの場を好まない僕でも、日吉に誘われると思わず乗ってしまうくらいに。


「別に今の仕事が嫌なわけじゃないんだろ? それにお前のファンもいるんだろ、悪くないじゃん」


「たまたま運が良かっただけだよ。僕の得意な領域と客の波長が合っていただけで」


「でも、それで毎月ちゃんとノルマを達成できているんだろ。それはお前の特徴だよ。上から今の実績で先がないとか言われてるなら、転職でもすればいいじゃないか。それこそメーカー側とかさ、椅子を専門に取り扱う店を選んでも良いと思うけど」


 気軽に聞こえる発言だが、日吉の目は変わらず人の良さそうな柔和にゅうわな目のままで、冗談には聞こえない。基本的に彼は嘘を言わない。批判もせず正しい時に、正しい言葉を口にする。彼はその実直さという強みを活かして人生を歩んでいる。不正解がない。つまりいつも正解を選び取ることができる。ある意味、反則みたいな特性を持った男だった。


 それにしても、学生生活を終えてからも続く関係はそうそうない中で、日吉ひよしとの関係が今も続いているのは奇跡のようなものだと思う。


 共有の趣味や趣向で知り合った友人も、サークル活動の仲間たちもそれぞれの新たな社会的なコミュニティを形成して、離れていってしまった。離れていってしまったとはいえ僕自身もその1人で、出席数は多くないがそれなりの交友関係もあったジャズ研究会の面々とは卒業後全く会っていない。研究会の面々とも既に縁は切れている。だからか、日吉ひよしとの関係が今も続いているのは正直意外だった。


 高校の課外学習で、僕たちは西洋美術展のフィールドワークで一緒になった。僕は大して絵の知識があるわけではないが、偶然彼と同じ絵の前で立ち止まったことがきっかけで、彼に話しかけられたのだ。未だに彼が語る絵画の魅力にとっぷりと浸かることはできないけれど、彼の絵の魅力を語る姿は好きだった。


「まあ、ストレスとかにってなければいいんだ。面倒臭いとか、だるいとか、人間ある一定のラインを越えなければそれなりの発散でどうにかなるから。ちょうど今日の美術展とかね」


 そう言って日吉ひよしは売店で買った冊子とチケットを取り出すと、栞のように本に挟み込む。彼は訪問した先で良かった体験ができた時に必ず冊子とチケットを買い、本に挟む。家に帰るとそのまま書棚に飾るそうだ。先日は小さな個展で見た少女をモデルにした水彩画が良かったらしく、嬉しそうにチケット入りの冊子を持って僕に熱く語っていた。


「なんかさ、日吉ひよしがいてくれて本当に良かったよ」


「急にどうしたの?」


「いや、こうして食べながらくだ巻いて、仕事の愚痴も話せる人がいるって環境、すごく助かっててさ。元々友達もそこまで多いわけじゃないから」


「なんだか照れ臭いな、大したことないって」


 そう言って人当たりの良い、温和な笑みを浮かべながら日吉ひよしはグラスを空にする。グラスを握る左手の薬指に指輪が光るのを見て、僕は彼に笑いかける。


「式の準備は順調?」


「いや、難航してる。俺はそんなにこだわりがないんだけど、相手がね。景観とか、食事とか、あとは花もか。見学会でたっぷり渡された資料とずっと睨めっこだよ。納得しないと首を縦に振らないから、あと一週間そこらはずっと睨めっこしてると思う」


 困ったよ、と日吉ひよしは言うが半分以上は照れ隠しだろう。


「今度、改めてお祝いさせてよ」


「気にすることないよ、こうしてしょっちゅう遊んでくれてるだけで、十分さ」


「そうかな、でもこれからはお嫁さんにも悪いし……」


「いいんだよ、お互いにそういうことはうまくやっているんだ」


 彼はいつの間にかオーダーしていたグラスを手に取り、一口飲んで続ける。


「全ての時間を一緒に過ごすことが全てじゃないからさ。俺と彼女は、うまい具合に合致しただけなんだよ。こう在りたいっていう道筋が、偶々ふたつ並んでいて、そこに俺と彼女が立っていた。それだけ」


「なんか、いいね、そういう関係」


帷子かたびらにもそういう相手ができると楽しいと思うんだけれど」


 考えてみたが、まるで思いつかない。職場に数人いる異性ともシフト時間だけの関係で、それ以上でも以下でもない。互いに仕事の得手不得手みたいなものは理解し合っているし、その時によって立場を変えたりもしているが、それも職場を回すための物事に過ぎない。プライベートの話なんてしたこともない。


「僕はないなあ、まだまだ独身だよ」


「高校の時のさ、高田たかだとか今何やってるんだろうね」


 突然彼が口にした名前に僕は思わずギョッとした。日吉ひよしは僕の反応を見て、小さな笑みを口元に浮かべる。


帷子かたびら、好きだったんだろ」


「いや、まあ、そうだけどさ……」


「実際いい子だったしな、綺麗で人当たりも良くて。何より自分に自信があった。確固たるものを持っている人って、本当に綺麗に見えるよ」


日吉ひよしもそう思う?」


「もちろん、俺は帷子かたびら高田たかだ、結構相性が良いと思ってたんだけどな」


「それは、流石に、ないよ」


 僕は俯く。流石にそれはリップサービスだろう。いや、日吉ひよしの言葉を間に受けすぎても良くないという自制心のせいか、自己評価の低さからくるものなのか、彼のその言葉だけはどうしても信じることができなかった。僕程度の人間が、高田たかださんと相性が良い訳がない、と。


帷子かたびらはさ、良いもの持ってるよ」


 彼の言葉に顔を上げると、彼は頬杖をついて僕をじっと見つめていた。


「自分が想像する完璧ってさ、案外実行不可能なレベルのものだったりするんだよ。だから皆謙遜けんそんする。でもその謙遜は裏返すと自分はこんなもんじゃないって言ってるようなものだ。俺はさ、自分にない良いものを持ってる人が好きなんだ」


 日吉ひよしは一息入れるように水を口にする。案外長く喋るのも大変だな、なんておどけているが、目はけして笑っていない。彼の瞳の中に僕が映っている。僕は日吉を見ているのか、それとも僕自信を見つめているのか、だんだんわからなくなってくる。


「そろそろ受け入れても良いんじゃないか」


 日吉ひよしの言葉に何も言えないまま、僕は一口水を飲む。気づかないうちにカラカラになっていた喉を冷たい水の感触が通っていく。


 そろそろ受け入れても良いのではないか。それは一体何をだろう、自分の自信の無さか、謙遜のように見えて実は完璧主義であるという裏返しに対してか。それとも、高田たかださんに対して抱いていた想いに対してなのか。


 僕には、正直判断がつかなかった。

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