第三幕:窓の向こう


午前二時をまわったころだった。

 部屋の温度は、なぜか一気に五度ほど下がったように感じた。音もなく、風もない。それなのに、空気だけが変質する。

 息を吸い込むたび、肺の奥が冷えていく。冷たいのではない。“外”の気配に触れている感覚だった。


 窓の向こうに、何かがいた。


 カーテンのすき間──暗闇に混ざる輪郭は、“誰かの肩”に見えた。

 だがそれは、あまりに静かだった。視線を感じることもなければ、音を立てるでもない。

 ただ“そこにいる”ということだけが、さえの頭の中に沈殿していく。


 


 ゆっくりとカーテンに手をかけた。

 触れた指先はしびれていた。心の奥では、叫び声をあげるような直感があった。──開けるな。戻れ。見るな。


 だが──もう遅かった。


 


 開いた窓の向こうに、妹が立っていた。


 濡れた髪。細く折れた首。落ちたときに穿かれていた白いスカート。

 あの夜と同じ姿が、そこに立っていた。


「……ゆら……?」


 問いかけは震え、涙のような言葉になって喉から漏れた。


 妹は口を開いた。唇は動いている。だが、声がない。

 まるであの日のカセットテープのように、“音のない懇願”だけが伝わってくる。


 ──「ここ、開けて」

 ──「一緒にいたい」

 ──「忘れないで」


 


 さえは、思い出してしまった。


 あの夜。

 妹は、叫んでいた。「お姉ちゃん、あの人がいる、見てるの、こっちに来た」

 怖かった。怖くて──自分は、妹の部屋のドアを開けなかった。


 そして……。

 ──気づいたときには、もう妹は窓の外にいた。落ちて、動かなくなっていた。

 自分は、「どうして開けなかったのか」も忘れようとして、記憶ごと蓋をしていた。


 だが、それだけではない。


 妹が転落した“時間”。その直前、自分の手が、妹の部屋の窓にかかっていた。


 


 その記憶だけが、抜け落ちていた。まるで、“誰か”がそれを持っていったかのように。


 


 ──ごうっ、と音がして、風が吹き込んだ。

 窓のガラスが震え、妹の姿が一瞬、空気に滲んだように揺れる。

 その時、妹がはっきりと口を動かした。


 


 「開けたのは、お姉ちゃんだよ。」


 


 崩れる。全てが。


 その瞬間、さえの目に映った“妹の顔”が、ふっと歪んだ。


 それはもう、ゆらではなかった。


 “ゆらの形をしたもの”が、そこに立っていた。


 中身が空洞で、表面だけをなぞったような姿。

 でもそれは、あまりに“ゆらに似ていた”。


 そして彼女の背後──闇の向こうに、もうひとつの“何か”が立っていた。


 


 ──あの人だ。


 


 見ている。形がない。けれど確かに“そこ”にいる。

 ただ静かに、永遠に、誰かの心の中を覗いている。

 その目に映る限り、人は自分の罪と向き合い続けなければならない。


 だから、人は“あの人”から逃げたくて、誰かに渡すのだ。

 窓を開けることで、“次の覗き手”に。


 


 ──ごめんね、とさえは呟いた。


 


 自分が忘れようとしたもの。逃げたもの。すべてがここにあった。

 そしていま、この窓の前にいる自分は、もう人間ではなかった。

 罪と記憶を閉じ込めた、この部屋の、新しい住人になった。


 


 それが罰なのか、それとも、誰にでも起こりうる“無意味な継承”なのか──もう、どうでもよかった。


 


 窓のむこうから、“あの人”が、そっと顔をこちらに傾けた。


 その瞬間、すべての音が止んだ。


 





 三日後。

 花月荘に、新しい住人が越してきた。


 大学進学を機に上京してきた18歳の少女だった。

 荷物を置き、部屋に入ると、妙にきれいなカーテンがかかっていた。


 


 夜。少女はふと目を覚まし、窓を見た。

 2階のはずなのに、誰かが外に立っていた。


 姿は見えない。だが、確かに“視線”を感じた。


 ガラスに映るのは──


 自分の顔。だけど、“誰かの目”が、その奥にあるようだった。


 


「お姉ちゃん……見られてるよ……。

……もう、見られちゃってる──」

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窓のむこうの、あの人は Naml @kita_

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