第3話

 朝――というか昼前。珍しく、そうめんじゃなくて冷や飯と味噌汁だった。しかも置き手紙付き。


「体がだるいから病院行ってくるね」


 ん?いつもなら「そうめん冷やしといたよ」って書く母ちゃんが、だるいなんて言葉を使うのはかなりレア。それを読みながら、俺は冷や飯を三口でかっ込んで考える。


 ……これ、ひょっとしてヤバいやつじゃね?


 でもまあ、病院行ったんなら大丈夫だろ、うん。たぶん、夏バテとか風邪のひきはじめとか、そういうアレだ。


「とりあえず、昼まで寝よう」


 布団へ戻る。現実から一時撤退。それが俺の戦法。戦わずに勝つ、それが現代ニートの流儀。


 でも、布団の中で考えちゃうんだよな。母ちゃんのだるいっていう手紙の字が、いつもより震えてたような気がする。いや、気のせいかもしれないけど。普段なら気にもしないようなことが、なんか引っかかる。


 母ちゃんは俺のために毎日そうめん作ってくれてた。「今日も暑いから、これでいいでしょ?」って笑いながら。文句言ったことなんて一度もない。むしろ俺の方が「またそうめんかよ」とか言ってたのに。


 布団の中で目を閉じても、なんか落ち着かない。外からはセミの声。いつもの昼下がりなのに、なんか空気が違う。


 結局、昼寝できずに起きあがった。


 ――数時間後、親父が帰ってきた。顔色が悪い。いや、本人のじゃなくて、言ってきたセリフの方がだ。


「母さん、検査で引っかかったって。今日は入院させるってさ」


 ……え?


 俺はとりあえず頷いたふりをして、麦茶を一気にあおった。そのまま風呂場に逃げて、蛇口ひねって、シャワー出して、鏡見て――出た言葉はこうだった。


「働きたくないでござる……」


 シャワーの音に紛れて、出てくるのは言い訳と焦りと、あと謎の古語。働けとか言われたわけじゃないのに、脳が『もしも』を想像しだす。

 母ちゃんが倒れた⇒家事やる人がいない⇒飯がでない⇒生活の崩壊⇒俺が……動く?


「……いやいやいやいや!」


 風呂場で大声出したら親父に「どうした!?」って怒鳴られた。


「湯加減が最悪だっただけ!」って答えといたけど、心の中ではこう叫んでいた。


「俺が動くわけにはいかん!」


 人生は持ち場が大事だ。俺の持ち場は縁側とそうめん。それを崩すのは文化の崩壊であり、平和の終焉だ。


 でも、シャワー浴びながら考えてしまう。母ちゃんがいないってことは、明日の朝飯は誰が作るんだ?親父?あの人、目玉焼きすら焦がすぞ。俺?俺が?料理なんてカップラーメンにお湯入れるぐらいしかできないけど。


 風呂から出て、なんとなくキッチンを見る。普段は母ちゃんの領域で、俺は近づかない聖域だった。でも今日は妙に静かで、なんか寂しい。冷蔵庫に貼ってある買い物メモが、急に重要な文書に見えてくる。


「牛乳、卵、豆腐、ネギ……」


 母ちゃんの字だ。この人、俺が何も言わなくても、俺の好きなものちゃんと覚えてくれてたんだな。


 親父がリビングでニュース見てる。いつもの光景だけど、今日はなんか一人で見てるのが気になる。普段なら母ちゃんが隣にいて「また暗いニュースばっかり」とか言ってるのに。


「親父、母ちゃんの病気って、どんな感じなの?」

「詳しいことはまだわからん。明日、先生と話するってさ」


 親父の声が、いつもより小さい。心配してるんだな、この人も。普段は強がってるけど、やっぱり母ちゃんがいないと不安なんだろう。


 俺も不安だ。でも、その不安を認めたくない。認めたら、何かしなきゃいけない気がするから。


 落ち着かなくて、なんとなく外に出た。いつものように海に向かう。でも今日は足取りが重い。いつもなら「今日もキジムナーに何言われるかな」とか考えながら歩くのに、今日は頭の中がもやもやしてる。


 海に着いても、いつものテンションじゃない。砂浜に座って波を見てるけど、全然集中できない。頭の中は母ちゃんのことでいっぱいだ。


 でも――あいつなら、何かこう、俺の背中を押さずに引っ張ってくれるかもしれない。


「おい、キジムナー!出てこいよ!」


 声に出して呼んでみる。でも返事はない。


「なんか、ヤバい状況なんだよ!いつものツッコミが欲しいんだって!」


 また叫んでみる。でも、波の音しか聞こえない。


 だけどこの日は、どれだけ浜辺を歩いても、あいつの姿はなかった。

 波は静かに打ち寄せてるのに、いつものツッコミが聞こえない。その静けさが、ちょっとだけ、心に刺さった。


「まじかよ……こんな時にいないなんて」


 一人でぶつぶつ言いながら、砂浜に寝っ転がる。空は夕焼け色に染まってて、きれいだけど、なんか悲しい。


 キジムナーがいたら、きっとこう言うだろう。「お前、初めて人を心配してるじゃん」とか、「母ちゃんのありがたみがやっとわかったか」とか。そして最後に「でも、お前なりにできることやってみたら?」って。


 俺なりにできることって何だ?


 家に帰る途中、コンビニに寄った。いつもなら菓子パンとか買うんだけど、今日は弁当コーナーをじっと見つめてる。明日の朝、親父に何か食べさせなきゃいけない。俺も食べなきゃいけない。


「おにぎりでも買うか……」


 レジで会計してる時、店員さんが「お疲れ様です」って言ってくれた。いつもなら何とも思わないけど、今日はちょっと救われた気がした。


 家に帰ると親父がテレビの前で居眠りしてた。リモコンが手から落ちそうになってる。普段なら「だらしねーな」とか思うところだけど、今日は毛布かけてあげた。


 自分の部屋に戻って、ベッドに横になる。天井を見上げながら考える。母ちゃんが入院してるって現実が、じわじわと染み込んでくる。


「俺、どうすればいいんだろう……」


 小さくつぶやく。答えは出ない。でも、明日は来る。明日も、明後日も。母ちゃんがいない明日が。


 そう思ったら、急に涙が出そうになった。でも、泣いちゃダメだ。俺が泣いたら、誰が家を守るんだ。


「……明日、病院に行ってみるか」


 初めて、自分から何かしようと思った。働くとかじゃなくて、ただ母ちゃんの顔を見に行くだけ。それぐらいなら、できるかもしれない。


 外から虫の声が聞こえてくる。いつもの夜だけど、いつもとは違う夜。俺の人生で、初めて「明日のこと」を真剣に考えた夜。


 キジムナーがいない海は、やっぱり寂しかった。でも、今度海に行った時、あいつに報告できることがあるかもしれない。「俺、ちょっと頑張ったぞ」って。


 そんなことを考えながら、俺は眠りについた。明日という未知の領域に向かって。

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