第5話

夜の森はとても静かでどこか怖い雰囲気が漂っている。

よく知っている場所だとしても、違う世界へと迷いこんだように思える。

紬はランプを持って家の裏へまわり、そこからもう少し奥へと進んでいく。

切り株がいくつか見えると少し開けた場所に出る。

ランプを切り株の上に置いて紬は草の上に寝転がり空を見た。

「綺麗……」

そこには満天の星と月。

まるで宝石を散りばめたように見える。

月明りが寂し気に感じてしまうけれど、とても優しいのだと思う。

月は静かに確かにそこにいて優しく見守ってくれている。

(星に願いを、月に祈りを、か。……なにかの本で読んだような気がする)

夜空を見ていると、いつか読んだ言葉をふと思い出した。

風が髪を揺らし頬を撫でる。

土と草の匂い。木々が揺れる音。

なんだか自然の一部になったような一体感がある。

とても心地よく感じる瞬間。


「―――月に祈り?」


そう、祈りだ。

思いを込めると特別なものになるかもしれない。

(そうと決まれば水を用意しないと!)

慌てて家へと戻り、水を入れたコップをふたつほど窓際に並べて置く。

時間帯にもよるけれど、比較的月の光が入りやすい場所。

「これでいいかな」

あとは朝に回収すればいいだろう。

これでうまくいけばいいなと紬は心を躍らせていた。



翌朝。

どこかでピチャピチャと水の音がする。

部屋を見渡すと窓際にほろろがいた。

(あぁ、ほろろかぁ……)

そう思ったのも束の間。

「ほろろダメー!そのお水は飲まないでっ!」

窓際まで紬は走り寄り、ほろろを抱きかかえた。

まさかほろろがそこのお水を飲むなんて思っていなかった。

ちょっと不機嫌そうに「みゃあ~」と鳴くほろろを床へと下ろし、コップを回収して水を水瓶へと移す。

「少し減っちゃったけど、仕方ないよね」

月の光を浴びた水が用意できた。

あとは晴留に話を聞ければ完成するかもしれない。

外へ出て日の光を浴びながら深呼吸をする。

今日も空気がおいしい。

だんだん眠気が襲ってくる紬はいつもの定位置へふらふらと歩いていく。

大きな木の側まで行くと、もたれて座り込み眠りに落ちる。


「ぽかぽか……あったかい……むにゃ」


紬は気持ちよさそうに眠っている。

「全く、どこでも寝るんだな」

宵月は呆れた声で言い放ち、ため息をつく。

「起きてくださいよ、紬さん」

「んぅ……ご飯、おいしい」

紬は幸せそうな顔で寝言を言っている。

宵月は「夢でもご飯食べてるなんてかわいいな」とブツブツ言いながらにやけた顔をしている。

これではいけないと宵月は首を横に振り、紬を起こそうとした。

「紬さーん。起きないなら強制的に連れていきますけどいいですよね」

俺はラッキーだなとか言いながら宵月は紬を抱えようとする。

宵月が手に触れたとき、紬が目を覚まし、何度か瞬きをしたあと。

「……うわぁっ!」

「残念。起きましたね」

にっこりと微笑む宵月とは対照的に状況がわからない紬はちょっとしたパニック状態。

「ななな、なん、で。どど、どう、して、ここ、に……」

「晴留さんが来られるというので呼びに来たんですよ」

こういう紬を見るのも新鮮でいいなと宵月はクスクス笑いながら答える。

「……わざわざ、ありがとうございます」

動揺したのが恥ずかしくて紬はそっぽを向きながらお礼を伝える。

「では、行きましょうか。動けそうにないならアレでもいいですけど」

宵月は含みをもたせた笑みを浮かべ、ジェスチャーをする。

「だ、大丈夫です!そんなことしてもらわなくていいですからっ!!」

紬はサッと立ち上がり、赤くなった顔を隠しながら荷物を取りに行く。



―――お姫様抱っこなんて恥ずかしすぎるでしょ!!



はないろへ着いた紬と宵月は、晴留の待つ席へと向かった。

「あ、紬さん、宵月さん、こんにちは」

晴留は笑顔で迎えてくれた。

「こんにちは、晴留さん。わざわざ来ていただいてすみません」

「いえいえ、全然構いませんよ」

「あの、早速なんですけど……」

紬は持ってきた小ビンを三つテーブルの上へ置いていく。

「晴留さんにはこの三つの中で一番好きな香りを選んでもらいます」

「香り、ですか?」

晴留は不思議そうに首を傾げた。

不思議に思うのも仕方ない。普通に考えればランプ作りに香りは必要ではない。

「一応、サンプルがあるのでそちらをお見せしますね」

紬は目の前に試作のランプを置いて灯りをつける。

ハーブの香りが辺りにふわっと広がり、穏やかな空気に包まれる。

「……いい香り。ランプに火が灯ると香りがするなんて。それにデザインも素敵。こんなに素敵なものが試作なんですか?」

晴留はうっとりしながら、ランプを眺めている。

「えっと、試作品です。癒しの効果がありそうなものを試してみたんですけど、晴留さんの好みがわからないので、どれがいいのか知りたくて」

紬が晴留の好みを聞こうとしたところ、向こうから和奏が飲み物を持ってやって来た。

「ねぇ、紬ちゃん」

和奏はみんなの前に飲み物を置きながら、見惚れるほど素敵な笑顔を紬に向けている。

「は、はい」

「このランプ……新作なの!?かわいいー!それにこの香り。いい匂いがしてるんだけど!」

目を輝かせながら和奏が紬に詰め寄ってくる。

「あ、あの、わ、和奏さん。依頼者さんのランプ、なので。……それに、これは、試作品で」

「えぇっ!これが試作品なの!?ねぇ触ってもいい?」

「……いい、ですよ」

前のめりで聞いてくる和奏に押され気味の紬は、チラリと宵月のほうを見る。

「さぁ、晴留さん。今のうちに香りを選んでくださいね」

小ビンを晴留に差し出し、ひとつずつ確認してもらっていた。

どうやら助けてくれないみたいだ。

「ねぇねぇ、この香りはどうなってるの?」

「えっと、火を灯すと香るようになっていて。リラックス効果を兼ねているんです」

「なにそれ!すっごくいいじゃない!」

和奏は「いいなぁ、かわいい」と呟きながらランプをくるくる回して見ている。

「試作品でよかったら、またあとでお渡ししますね」

「いいの!?紬ちゃんありがとう!」

紬に抱きつく和奏。それを聞いていた宵月はふぅと息を吐いた。

「料金はいただきますよ」

「えー、宵月さんの守銭奴ー」

少し拗ねたような顔をしている和奏だが、ランプがもらえるとわかって嬉しそうにしている。実際には購入することになっているのだけれど。


「じゃあ、ごゆっくり~」


ご機嫌で戻って行った和奏を見て宵月は晴留に申し訳なさそうに謝る。

「晴留さん、お騒がせしてすみません」

「い、いえ。……店主さんって紬さんのランプがお好きなんですね」

店内のランプは紬のもので統一されていて、雑貨の売り場にも販売用にとランプを置いてくれているのだ。

ただ、新しいものを見たときの和奏は目の色が変わって、先ほどのように前のめりで詰め寄ってくる。

「あの、それで好きな香りはありましたか?」

「どれもいい香りだったから迷ったんですけど、ミックスしてあるのがいいかなって」

紬は忘れないようにノートに書き込んでおく。そして晴留に尋ねる。

「それから、晴留さんのお悩みを聞かせてもらえないでしょうか?」

「私の、悩みを……?」

「もちろん、話せる範囲で構いません」

「……ランプを作るのに関係があるのですか?」

晴留は怪訝そうな顔をして紬を見る。

確かにランプを作るだけなら話を聞く必要なんてない。

けれど、紬が作ろうとしているのはただのランプではなく、相手に寄り添えるためのものを作ろうとしている。

「私は晴留さんの気持ちに寄り添うものを作りたいんです。できれば、ずっと使ってもらえるものを。……それに、新しいものを作るのは、結構好き、なので……」

最後は少し声が小さめになっていった紬を見て晴留はクスっと笑う。

「……わかりました。私も紬さんの作ってくれるランプがどんなものになるのか、見てみたいです」

晴留がそう言ってくれて紬も嬉しくなる。

「では、少し休憩してそれからお話を聞きましょうか」

話がまとまったところで宵月が声をかけた。




穏やかな空気が流れている、はないろの店内ではコーヒーのいい香りがしている。

その店内の一角で晴留はポツポツと話し始めた。


「―――私、人間関係で悩んでいて」


特に仕事での人間関係で悩んでいた。

最初のころはまだ良かった。

それがだんだん、周りからもあれこれ言われ始めて。なにか失敗をしたわけでもないのに、理不尽に怒られることが増えていく。

職場で話せる人もいなくて、孤立していき、仕事も楽しくなくて、ただつらいだけになってきた。

だけど、仕事を辞めるということもできなくて。

「毎日が不安でつらくて苦しいんです。今日はなにを言われるんだろう、怒られないようにしなきゃ、とか。周りの人たちも私を見てなにか言ってるような。……だんだん、全員が私のことを悪く言っているように思えてきて」

精神的にも追い詰められてきている。

晴留は自分がおかしいのではないかと思うことだってある。

他の人となにか違うことをしているのだろうかと。

誰にも話せなかったことを今日、晴留は俯きながら話した。

「……なるほど。それでランプが欲しいということだったんですね」

宵月の言葉に晴留は黙って頷く。

紬はというとノートになにやらたくさん書き込んでいる。

「紬さん、なにを書いて……」

紬の手元を覗き込んだ宵月は言葉を失った。

落書き、いや、殴り書き。

「お話から思いつくものを忘れないうちに絵にしてみたんです」

胸を張って言っている紬だが、絵にもなりきれていないものがそこには書かれていた。紬の絵は壊滅的に下手だった。

あえてそこには触れず、宵月はコホンと咳払いをして晴留に言う。

「晴留さん、お話を聞かせていただいて、ありがとうございました。出来上がり次第、またご連絡をしますね」

「はい。楽しみにしています」

悩みを打ち明けたせいか、晴留は少しすっきりした表情をしていた。



そのあと、はないろの店内では。

「和奏さんはこの三つの香りだったらどれが好きですか?」

小ビンを並べて香りを選んでもらっていた。

「んー、どれもいい香りね!」

かなり真剣に和奏は香りを何度も何度も確かめていて「これがいいかな、でもでもこっちも捨てがたい」と言っている。

紬はお茶をひとくち飲んで、家に帰ったら早速作ってみようと考えていた。

「これに決めた!このハーブの香り」

楽しそうだなと思いながら和奏から小ビンを受け取り、試作品のランプを渡そうとすると宵月がそれを止める。

「ダメですよ紬さん。ちゃんと代金をもらってから渡さないと」

「でも、試作なので」

「普通のものと変わりなく使えるんですから、商品には違いないですよね」

そう言われてしまうとそうなんだけれど。

試作なのにお金をもらっていいのか悩んでしまう。

「宵月さん、あんまり細かいと女の子から嫌われちゃうわよ?」

和奏はクスクス笑いながら、からかうように宵月に言う。

「俺がしっかりしないと、紬さんの利益が出ませんからね。それに細かいくらいで嫌うような女性は選ばないので」

紬はこれくらいのことで嫌ったりしないだろうと思う宵月。

「ねぇ、紬ちゃんはどう思う?細かいこと気にする男の子って」

和奏は紬に話を振る。

「……仕事上はいいと思いますけど、個人的には、ちょっと」

「個人的にはちょっと、とは、どういうことですか?紬さん」

個人的には、が気になった宵月はすかさず紬との距離を詰めて聞き返す。

「え、あの。……ち、近いん、です、けど」と言いながら紬は後ずさる。

「紬ちゃんも大変ね」

ふたりのやりとりを見て和奏は微笑ましそうな表情でそう呟いた。




その日の夕方。

家へと帰って来た紬は、昨日用意しておいた水を使ってランプを作ろうと意気込んでいた。

道具と材料を机に並べてノートを広げて置く。

それから水をひとくち飲んで心を落ち着かせる。作業前のおまじないのようなものだ。

さぁやるぞ!と道具に手を伸ばしたところで、足元になにかが纏わりついている。

そのなにかとは、飼い猫のほろろ。

とてつもなくかわいい顔でこちらを見ている。

「……ほろろ。私は今からお仕事するんだよ?だから、ちょっと向こうへ行っててね」

しゃがみ込んで優しく頭を撫でながら、ほろろに言い聞かせる。

さて、始めるかと立ち上がり道具に触れる。が、足元からほろろが離れない。

「みゃぁー」

「だからね、お仕事が……」

ほろろと目が合う。

構ってくれないの?ダメなの?と言わんばかりの顔で紬を見ていた。

かわいい。だけどここで負けるわけには―――。


「よしよし、かわいいなぁ~、ほろろ」


ダメだった。

ほろろを抱き上げて膝の上に乗せて喉元を撫でる。

最近ほろろとの時間も少なかったし、寂しかったのかもしれない。それに紬だって気を抜く時間が必要だ。


ほろろとの時間を満喫した紬は、窓際に水を入れたコップを並べて月の光を入るようにしておいた。

一日経つと水の鮮度が変わる。数日置いた水でランプを作ったときは濁ったようなランプが出来た。

それはそれで、見方によれば味のあるものになるのだけれど、欲しいと思う人はまずいないだろう。

鮮度が良いと思った以上の仕上がりになるのも実証済。

なので当日に作ることが難しければ、新しいものを用意しておく。

今回は、ほろろが近づかない場所にコップを置いているので、多分大丈夫だろう。




住宅街の真ん中辺り。

街路樹が立ち並び、所々にベンチが置いてある通りを部屋の窓から眺めながら、宵月は軽く息を吐く。


―――あんまり細かいと女の子に嫌われるわよ。


「俺が細かいんじゃなくて、紬が無頓着なだけなのに」

それに紬も紬だ。個人的にはちょっと、とはどういうことなのか。

しっかりしてる人が側にいたほうが安心できると思うのに。

紬に関して言えば、どこでも寝てる、伝えたことをすぐに忘れる、代金のもらい忘れ、など。

生活する上で困ることが普通にあると思う。

だから紬には頼もしい人が隣にいるべきだと。

ただそれは宵月の価値観でしかないのだけれども。

でも、仕事以外ではあまり言わないようにしたほうがいいのかな……。


―――私、細かい人って嫌なんです。


もしも、紬にそんなことを言われたら当分立ち直れないかもしれない。

言いそうにないんだけれど、幻聴が聞こえてきそうでこわい。

耳を手で塞ぎながらソファに腰をかけ、気持ちを落ち着かせようとした。

そういえば、あの殴り書き。一体どんな形になるのだろう。

どう見ても絵には見えなかったのだけれど。




日が昇る少し前。

早朝から動き出した紬は、昨夜置いておいたコップを無事に回収して今日こそはと、やる気を出していた。

水瓶にコップの水を入れて、透明でキラキラした粉とミックスした香りを数滴。そこに柑橘の花を入れる。

それをぐるぐるかき混ぜて、意識を集中させて形を作っていく。

(晴留さんが幸せに過ごせますように)

忘れずに思いを込めて。


―――カラン。


そっと取り出してみると。

「……なんか歪な形してる」

変に歪んでいてランプとしては使えなさそうだ。

次の日も、その次の日も何度作っても歪んでいるものしか出来ない。

「うぅ。今日も失敗だぁ……」

家の外にある木の板の上で、失敗したランプに布を被せてハンマーで細かく砕きながら紬は嘆いてた。

作り方自体は間違っていない。

変わったことは、使う水と思いを込めること。

やっぱり水が変わると失敗しやすいのだろうか。

でも月の光を入れた水を使いたいし、どうすれば……。

そのとき、少し向こうから足音が聞こえた。

「あれ?紬さん、なにしてるんですか?外で作業なんて珍しいじゃないですか」

物珍しそうに近づいてくる宵月。

「ちょっとランプの粉砕を。中だと片づけが大変なんです」

宵月は紬の手元を見ながら、なるほど、と頷く。

「それはどうするんですか?」

「作るときに再利用するんですよ」

材料にして再利用するので無駄にはならない。

ランプを作るときに入れている、あのキラキラした粉になるのだ。

布を外して砕いた破片を刷毛で集めて布の袋へ入れていく。

「とりあえず、中へどうぞ」

袋に詰め終わった紬は宵月を家の中へと誘った。


宵月がほろろの相手をしてくれているうちにお茶を入れて、テーブルにコップを置く。

「ほろろ、よかったね。宵月さんが遊んでくれて」

紬はほろろに声をかけながら椅子に座る。

ほろろも宵月を気に入っているのか、膝の上に座ったままだ。

「たまにはこういうのもいいですね。癒されます」

宵月はほろろを撫でながら顔が緩んでいる。

こんな表情の宵月を見るのは初めてで、ものすごく珍しい感じがする。

やっぱり動物の癒し力はすごい。

じーっと宵月を眺めていると、視線に気が付いたのか宵月はコホンと咳払いをした。

「……製作状況はどうですか?」

「それが、その。……全くうまくいかなくて」

「うまくいかない?」

「……はい」

紬は試作品では物足りなさを感じたことを宵月に話し、少し材料を変えてみたことを伝えた。そこからうまくいかないのだと。

「んー……。水が問題なのはわかりましたけど、月の光を入れようと思ったのはどうしてですか?」

「えっと、夜空を見ていたらどこかで読んだ本の一節が浮かんできて、これだって思ったんです。水は記憶する、ので」

紬は少し俯きながら小さな声で話す。

「……一番、祈りが届きそうだったから」

「だったら、もう少し方法を考えましょう。例えば、水を月の光に当てている時間を変えてみるとか」

ハッとして紬は顔を上げる。

時間なんて気にしてなかった。

もし時間が問題なのだとすれば、今度は成功するかもしれない。

「宵月さん、ありがとうございます!私、宵月さんの前向きに考えてくれるところ素敵だなって思います!」

「……っ、それは、よかったです」

にこにこした紬に素敵だと言われた宵月は拳を握りしめ、喜びを噛み締めていた。(俺が素敵……。紬にとって俺は素敵な人!)


入れ物をどうしようかと探していた紬は、適当なものが見つからなかったので作ることにした。

「えっと、お水はこれくらいで。三日月の絵を入れて、粉を二杯分っと」

ぐるぐるかき混ぜて均一になったところで意識を集中させる。


―――カラン、コロン。


「出来た!」

500mlぐらい入る大きさの取っ手付きビーカーで、底に三日月のマークが入っている。

「紬さん、それは……」

「手頃なものがなかったので作りました」

「俺が話を通しておくので次はグラスを売りに出しましょう」

「……え」

ランプ以外に作れるものがあるのなら、それも商品として売り出すべきだと宵月は言っているのだけれど。

「あの、私。忙しいのは嫌、なんですけど。のんびり生活したいって、宵月さん知ってますよね?」

紬が人里から離れた森に住んでいる理由。

「あ、ええと。それはわかっていますよ。でも新しい商品を置いてもいいじゃないですか。……せめて、ひとつだけでも」

商売根性がたくましい宵月。さすがは商会の息子。

「……今からお水を汲みに行くので、宵月さんも帰ってくださいね」

紬は少し冷たく言い放ち、しょんぼりした宵月が出ていく。


(あー、嫌な言い方しちゃったなぁ……。)

紬は、とぼとぼ歩きながら川へと向かう。

ひとつ仕事が増えたくらいで、そこまで忙しくはならないけれど。

慣れるまで神経を使うからそこが大変なのだ。

新しいことに挑戦するのは嫌じゃないけれど、今のままがいいと思う自分もいる。

変わることを恐れていては、なにも出来なくなってしまいそうだ。

今度会ったら謝らないと、と思いながら紬は川の流れを眺めていた。




家にいてもなんだか落ち着かなくて紬は、和奏に話を聞いてもらうことにして、はないろへ向かった。

カウンター席に座り、クリームソーダを注文した紬は、和奏が作っているクリームソーダを興味深々で見ながら話しかける。

「和奏さん、宵月さんが新しいもの作れって言うんですよ~」

グラスに氷がカランと音を立てながら入り、青い液体を入れて、ソーダを注いで混ぜる。

「新作ランプのこと?」

紬はふるふると首を横に振る。

そしてアイスクリームとさくらんぼをのせて、出来上がったクリームソーダが紬の前に置かれる。

「……グラスなんです」

そう言って、紬はクリームソーダを飲む。

「グラスねぇ。それってどんな形のものかしら?」

「まだ形は決まってないですけど、作るとすれば、このクリームソーダのようなものか、スタイリッシュに見える細めのグラスでしょうか」

紬は答えながらアイスを頬張る。

それを聞いて、和奏の目がキラリと光ったのを紬は見ていなかった。

「ねぇ、紬ちゃん。新しいものに挑戦することは、可能性を広げることになるの。だから作らないのは、ちょっともったいないと思うわ」

和奏は紬の手を取り、ぎゅっと握りしめてこう言った。

「それでね、作ったら一番最初にここへ持って来てね」

とびっきりの笑顔で念を押すように言われて気がついた。

和奏も新しいものに目がなかった、と。

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