第12話
登校した有田は、すぐに一限の準備を始めた。ノート、教科書、グレージュ合成皮革の小さなペンケースを机に広げ、資料に目を通し始めた。
「萌、おはよう」
「おはよう。どうしたの? 元気ないみたいだけど」
「いや、それがさ……」
有田が授業の準備をしてしばらくすると、ホームルームを終えた佐々木が職員室へと戻ってきた。その表情は、有田の知る佐々木らしくない、晴れ間のない曇りに曇った曇天のように淀んでいた。
「木下くん、まだ休んでるんだ……」
「そう。ホームルームで出席とったんだけど、今日も休みだったの。かれこれ一週間くらい休んでるんだけど、その理由をさっき聞いちゃってさ」
「え?」
有田は、周囲に話が聞こえないように体勢を少し低くした。佐々木も周囲をキョロキョロと見回した後、しゃがんで続けた。
「校長先生に呼ばれてね。どうやら、生徒からいじめを受けてた可能性があるって」
有田は、目を見開いた。それは、まさか木下がいじめられていたなんてと心痛したからというのもあるが、やはりいじめが横行しているのだと再確認したからでもあった。
有田には心当たりがある。恐らく佐々木も同じことを考えているはずだ。
「それって、もしかしてさ……」
「校長先生は誰とは言わなかったけど、たぶん塚田くんたちだよね」
「校長先生、木下くんから直接聞いたのかな?」
「いや、他の人から聞いた話だって言ってた。それを見ていた生徒なのかな……? それで、今日の六限の総合の授業で、いじめの話をしなくちゃいけなくて、億劫だなって」
「どんな話するの?」
「まぁ、いじめがあった事実を周知して、後はそれを見てた人がいたら、報告してもらうようにする感じかな」
「そっか」
「校長先生が、これ以上の大事にならないように穏便にって。保護者会で説明するような規模になると面倒だからだろうけど。うちは私立だからね。世間に知られたらやっていけなくなるだろうし、焦ってるんでしょ」
有田自身、何だかざらざらとした気分になったが、学校運営というのは、自分が想像し得ないほどの苦労があるのだろうと、末端の人間らしく飲み込んだ。
以前の判断といい、佐々木は随分とその辺の事情を把握しているようで、出世に貪欲なわけではなさそうだから、教師としての経験の差なのだろうが、有田は佐々木の行動をただ見守ることしかできないと思ったのだった。
一限、有田は一組の授業だ。出席をとる。やはり木下はいない。
有田は授業をしながらクラスの様子を伺った。みんなの目は、黒板とノートを往来するだけで、特段変わったことは何もない。至って普通の、いや、模範的な授業風景だった。
有田は、窓際最後尾、金魚の水槽前の席に座る宇野に意識を向けた。
あの時、体育館裏で見た光景は夢か幻だったのか、そう思わせるような悠然とした態度でノートに板書を書き写していた。
三限は五組の授業。塚田たちのクラスだ。同じく、模範的な授業態度。有田が指名すると、塚田、土屋、本郷、橋本は、ハキハキと教科書の文章を読んだ。問題をあてても、しっかり正解する。とても優秀だ。
あまりにも気持ちの良い時間が流れ、有田は、彼らが何か不審な動きを見せないかと警戒するつもりでいたにも関わらず、気がついた時には、授業終わりのチャイムが鳴り響いていた。
挨拶後のクラスは、すぐに賑やかになった。そんな学生らしい喧騒の中、有田は次の授業の準備のため、早々に片付けを済ませ、教室を後にしようとした。
「有田先生!」
教壇から降りた瞬間、爽やかながらも不安定な、変声期特有の低音を聞いた。
振り返ると、笑顔で立つ塚田の姿があった。
有田はぎょっとしてしまった。そんな反応をするとは、有田自身思ってもみなかった。何だろう、触れてはいけないものに触れられているような、本能的に避けようとしている感じだ。
自分のこの反応で、有田は確信した。夢でも何でもなく、実際にわたしは、体育館裏でいじめの現場を目の当たりにしたのだと。
「つ、塚田くん。どうしたの?」
「これって、この時代の話っていうことで合ってますか?」
塚田は、ノートと教科書を広げ、質問をした。
「あ、うん、合ってるよ。で、この出来事の時に、別でこの出来事が起こってるってこと」
「あぁ、なるほど! ありがとうございます!」
有田は、平然を装い対応した。
こんなにも真面目な彼が、いじめに手を染めていることが不思議でならない。体育館裏で見たものが、またしても半信半疑になり、有田の心を掻き乱していた。その結果、塚田の前でどう振る舞えば良いのか分からなくなり、無理矢理な笑顔をつくろうと必死になっていた。
「有田先生、今日調子悪いですか?」
「えぇ? どうして? そう見える?」
「はい。何と言うか、浮かない顔してます」
「い、いや、そんなことないよ!」
「そうですか。お体には気をつけて」
「ありがとう。まぁ、季節の変わり目で風邪ひきやすい時期ではあるから、気をつけないとね。塚田くんも気をつけてね!」
「はい! ありがとうございます! では……」
塚田は律儀に頭を下げて、席へと戻っていった。
有田は廊下に出て深呼吸をした。
真面目に質問し、気の遣える塚田。いじめをはたらく塚田。一体どちらが本物の塚田なのか。
いや、きっと二人合わせて塚田という人物なのだろう。思春期という歪さが、一時的に悪影響を及ぼしているだけだ。
有田は思った。教師がしっかり向き合えば、塚田たちは変わるのだろうと。
やはり教師として、塚田たちを止めなければ。有田は息巻くように、再び深呼吸をした。
六限の時間、有田は職員室で、その時を待っていた。
昼休みに学年主任の千代田から、放課後に緊急の職員会議を行うと通達を受けていた。議題はもちろん、それである。
この時間、一年生は、いじめについて先生からあれやこれや追及を受けていることだろう。その結果を共有する場として、職員会議が設けられたのだ。
しばらくして、各組の担任がぞろぞろと戻ってきた。そこには佐々木もおり、戻ってくるなり、ため息を吐いて机に伏せていた。
有田は、佐々木に耳打ちした。
「お疲れ様。どうだった?」
「どうって……何もないよ。みんな何かしら知ってるんだろうけど、だんまり。紙を配って、匿名で知ってること書いてもらって集計したけど、何もなし。まあ、あとでコソッと教えてくれてもいいって伝えたけど、本当に来るかどうか……」
「……誰か来るかな?」
「さあ。でも、萌が体育館裏で見た件も考慮すると、校長先生に話したの、たぶん宇野くんだよ。木下くんと帰ってるところを何度か見かけたし、何か知ってると思う。はぁ、あたしに言ってくれれば良かったのに。まさか職員会議になるなんて……。せっかく今日バド部休みなのにさ。何時に帰れるんだろ……」
佐々木は頭をぽりぽり掻きながら、ため息混じりにぼやいていた。
約一時間後。一年生担当の先生は、担任、講師問わず会議室に集められた。
真っ白な壁に、長い茶髪で色白の女性が佇む絵画。四角形の囲いを作るように四つの長机が並べられ、いかにも会議室という場所に十数人がちらちらと入ってきた。そこには校長もおり、上座にどっしりと構えている。重くのしかかる空気に、有田は息を詰まらせていた。
しばらくして、咳払いをした校長が口火を切った。
「えー、では職員会議を始めます。担任の先生方に関わらず、みなさんに伝わっているかと思いますが、一年生の間でいじめが行われていると。その件について、先ほどの総合の時間でクラスごとに話し合いを行なっていただいたと思いますので、その情報共有と今後の対応を検討したいと思います」
有田は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「では、一組の佐々木先生からお願いします」
「はい。一組では……」
一組から五組まで、担任たちは六限での教室の様子を詳細に語った。
そのどれも、結果は同じだった。
「いじめをしている生徒も、認識している生徒もいないと……」
校長は、残念がるように言葉を漏らした。どこか意味深長な反応だと、その場にいた誰もが思ったはずだ。それもそのはず、いじめがあると告げた人物がいるのだから。そしてその人物を校長だけが知っている。しかも、いじめられて不登校になった生徒が木下であるということを、ここにいる全員が察している。
しかし、会議の中でその人物と木下の名前は出てこなかった。
「先生方には、引き続き生徒たちの様子に目を配っていただきたい」
校長の言葉で、有田は散会を悟った。いじめの実態も、今後の具体的な対応についても、不明瞭のまま会議が終わってしまう。木下が学校へ来られるようにするためにどうするのか、そういった類の話をする場ではなかったのか。そしてこのままでは、恐らく宇野も不登校になってしまう、そんな気がした。
心配と、堕落した空間が、有田の胸を搾るように押し潰した。
「あの……」
押し潰された衝撃で、有田は口を開いていた。一瞬にして有田に視線が集まる。
「有田先生、どうかされましたか?」
微笑む校長だったが、有田は何だか睨まれているように感じた。校長だけではない、周囲の先生たちからも。
まさに蛇に睨まれた蛙。有田は、動揺して言葉が出てこなかった。ふと、右斜め前の席に座る佐々木に視線を送った。
佐々木は眉間に皺を寄せて有田を見ながら、首を左右に小刻みに振っていた。
「すいません。なんでもないです……」
「そうですか。では先生方、よろしくお願いします」
校長は、少し声を張った。これで本当にお開きですと、声質で示すように。
先生たちが筆記具を片して席を立ち始める。有田は戸惑いながらも彼らに続いた。
有田は校長と佐々木の言葉を思い出していた。
「これ以上の大事にならないように穏便に」
「担任の責任になる」
「正義感で教師やってる人に任せればいい」
二人の言葉だが、あの場にいた全員が、そう思っていたに違いない。
最も穏便なのは、隠蔽である。
外部に漏れなければ、問題がないのと同じだ。だから問題に触れない。自分とは関係がないことだと蓋をする。
先生だけでなく、生徒も同じ考えなのだろう。いじめがあることを認識していても、黙っておけばいじめっ子に目をつけられることもなく、穏便に学校生活を送ることができる。だから言わない。たとえ匿名で告発したとしても、その内容を取り上げたクラス会なり学年集会が放課後に開かれ、帰宅時間が遅くなるような面倒事に発展する。だから書かない。
また、もし学校でいじめがあると生徒から保護者に伝わったとしても、それがいじめられた本人でない限り、大きな問題にならないということも校長は分かっているのだろう。
何故なら、保護者が注意する点は、いじめられているのが自分の子どもなのかどうかだけだからだ。いじめの実情を知ったタイミングは仰天するだろうが、とりあえず自分の子どもじゃなくて良かったとすぐに安堵し、そういった問題は先生たちがなんとかしてくれるだろうと冷静になる。
そのような生徒と保護者の心理を理解し、穏便に事を運ぶスキルを活かして学校運営を行なっているのが校長なのだろう。
有田はあれこれと思考し、落ち着いた結論と、その結論に落ち着かせてしまう環境に自身が置かれていることに失望した。
正義感と隠蔽の間に生きることに、嫌気がさしていたのだった。
有田はふと思い出す。そんな環境でも、校長に直接意見した人物がいることを。
恐らく生徒、宇野だ。自身がいじめられているにも関わらず、木下のために行動したのだろう。そんな勇気ある行動をとった宇野とは異なり、自分は、いや、学校にいる大人たちは、一体何をしているのか、本当にみっともないと恥じていた。
それに何より、あの時見て見ぬふりをしてしまった贖罪として、自分がいじめを止めなければならないと思った。宇野や木下を守れるのは自分しかいないと、有田は腹を括ったのだった。
「わたしがやるしか……」
有田は、冷たくなってきた夜の向かい風を押し返しながら、校門を出た。
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