第11話
一組の教室。朝礼の十五分前に教室に入った宇野は、制服を着たメガホンたちを掻き分け、窓際最後尾の席に鞄を置き、すぐ後ろの水槽を見に移動した。
雲の隙間から夕日が覗いているような模様の琉金が二匹、ゆったりと泳いでいる。エアポンプは、正常に空気を送り続けている。それを確認した宇野は、穏やかな表情で餌を撒いた。
席へと戻った宇野が、鞄から出した教科書を机の中へとしまう。奥で突っかかる感じがあり、机の中を覗いた。そしてため息を吐きながら、木の枝や泥のついた根付きの雑草を取り出し、それらをゴミ箱に捨てた。
これが宇野の、相変わらずな一日の始まりだった。
ある日の昼休み。宇野は一人机に向かい、弁当を食べようとしていた。蓋を開けると、大好物である甘めの卵焼きが入っており、自然と宇野の頬は緩んだ。
しかし、一瞬にして幸せな時間は消失した。宇野の視界から弁当箱が消え、気がつくと右手の床に、ご飯やおかずが散乱していた。
視線を正面に移すと、そこには塚田と、取り巻きの三人がいた。どうやら、こいつらが弁当箱を蹴飛ばしたらしい。
「おい、金は持ってきたかよ?」
プラスチックの弁当箱が転げ回るけたたましい音が教室中に響き渡り、活気のあったクラスは一瞬にして静まり返った。
「やばくない?」
「かわいそ……」
「また五組の塚田たちかよ。あいつらに目つけられたら面倒だ。関わらないように無視無視……」
昼休みらしい廊下の喧騒に乗って、教室のあちらこちらから、冷ややかな言葉が流れてくる。
宇野は無言で立ち上がり、拾った弁当箱に、ご飯とおかずを素手で戻していく。
「お前、それ食う気?」
宇野は塚田を無視し続ける。
「無視すんなよ、ムカつくなぁ!」
そう言って塚田は、宇野の胸ぐらを掴み、後ろのロッカーに叩きつけた。
宇野は打ちつけた左肩を押さえ、無言で塚田を睨みつけた。
「やめなよ!」
そう言って宇野と塚田の間に入ったのは、学級委員の木下だった。
銀縁の丸眼鏡を掛け、ネクタイをしっかりと締めた小柄な男子が、両手を広げ、勇敢な目つきで、見上げるように塚田を睨んだ。
「どけよ木下」
「これ以上やったら先生に報告するから」
「別にいいよ。そうしたらオレたちもチクるから。宇野に殺されそうになったって」
「え、どういうこと?」
「そいつにハサミで刺し殺されそうになったんだよ」
木下は驚き、首だけで振り返る。目が合った宇野が、すぐに目を逸らしたことに気がついた。
「君たちがこんなことするからでしょ?」
「だったら殺してもいいってのかよ」
木下が口を結ぶ。
「木下の所為で、何か萎えたわ」
塚田と三人は、周囲に威圧感を与えるような態度で教室を出ていった。
それからしばらくして、教室の活気は徐々に戻り始めた。
「宇野くん、大丈夫?」
「うん、ありがとう」
二人は、床を掃除しながら軽く会話を交わした。
「何で先生たちに言わないの?」
「さっき言ってたけど、あいつらにハサミ向けたことあるんだ。だから先生に言ったとしても、たぶん喧嘩だと勘違いされて、喧嘩両成敗で終わると思う。というか、そう結論づけたいはずだよ。先生たちはさ」
「そうなのかな?」
流し場で雑巾を洗いながら宇野は、いじめられたことのない木下には分からないだろうなと、心の中で責めるように呟いた。
「とにかく、何かあったら相談してよ。学級委員だし、力になれると思うから」
「……うん」
こうして二人は、宇野の昼飯を買いにカフェテリアへと向かった。
その日の午後。帰り支度を済ませた宇野は、琉金に餌をあげ、廊下に出た。
「宇野くん」
肩を軽くとんとんと叩かれ、宇野が振り返ると、同じく帰路につこうとしていた木下の姿があった。
「方向同じだよね? 一緒に帰ろう」
宇野は面倒だなと思いつつも、こくりと頷き、二人は金木犀の香りを感じながら裏門を出た。
「偉いよね。金魚の世話一人でやっててさ」
「だって、誰もやらないじゃん。それに、あの子らは、ぼくをいじめないから」
木下は数秒黙ってから、口を開いた。
「宇野くんの連絡先教えてよ。学校では言いにくいことも、メッセージなら言いやすいでしょ?」
宇野は乗り気になれなかったものの、営業トークのように軽快で、ぐいぐいくる木下の態度に圧倒され、しぶしぶ交換した。宇野が折れたのは、連絡するかどうかはこちらが決めれば良いことで、連絡先を教えること自体に何も不都合なことはないのだろうと思ったからだった。
「ありがとう。じゃ、僕はこっちだから。またね!」
そう言って木下は、団地に続くアスファルトを颯爽と歩いていってしまった。
宇野は、木下に多少の煩わしさを感じていた。
塚田には、小学校の頃から目をつけられている。それからずっと、人間という生物に対する興味を失い、まして不信感さえ募らせている始末。
それに塚田の言っていた通り、宇野の父は小さな会社を経営しており、生活に困ったことは今まで一度もない。むしろ裕福よりだ。だから人間が自分に近づいてくる場合、何か裏がある、そう勘繰ってしまう程度に歪んでしまっていた。
しかし木下のような存在は、初めて触れた人種でもあった。いじめを認識していて、手を差し伸べるような、逆風を自ら進んできたような奴は、今まで一人もいなかった。
宇野には木下が、夕立のような存在に感じた。湿度は増すが、気温を下げてくれる、不快感と多少の心地良さをもたらす奴に思えたのだ。
それでもしばらくの間、木下に連絡することはなかった。
それから三週間ほど経った頃から、木下は学校に来なくなった。
普段の学校生活の中で、宇野が木下と会話をすることは多くなかった。しかし、一緒に下校をする唯一の仲。それが故に、宇野にとって木下は、疑問を抱いてやるというか、多少心配をしてやる程度の相手にはなっていた。
宇野には心当たりがあった。学校に来ない理由ではなく、来なくなる以前の行動で気になる点があったのだ。
一緒に下校をし始めて一週間が経った頃だった。
日を追うごとに、木下から下校の誘いを受けることが少なくなっていった。ほぼ毎日のように一緒に下校していたのに、週に三日、二日と、最近は今まで通り、宇野一人で下校する日が続いていた。
木下は学級委員であり、科学部に所属してもいる。忙しくしているのだろうと思っていたが、そういうわけではなかったのかもしれない。
「毎日学校には来てたけど、顔色悪かったような」
ここ数日の違和感を思い出していた。授業中、昼休み、廊下ですれ違った時、木下の顔面は、蒼白とまではいかないが、青ざめていたように思う。
「病気か何かか?」
宇野は帰路につきながら、木下のことを考えさせられていた。別に心の底から木下を心配していたわけではなく、あの時助けてもらった恩を返せていないことに、後ろめたさを感じていたからだろう。そうでない限り、人間に対しそんな感情は湧かないと、宇野は自分自身を理解していた。
金木犀の香りがふわりと宇野の嗅覚を刺激し、ふと連絡先を交換した日を思い出す。
「そういえば、まだ一回も連絡してないな」
木下が身を挺して庇ってくれて以来、牽制が効いたのか、塚田たちは何もしてこなくなった。もとより連絡する気などなかったが、塚田たちからのいびりがない、平和な日常が続き、相談することが特になかったため、すっかり忘れていた。
宇野は、急に心苦しくなった。ここまでの恩恵を受けておきながら、何も返さず平然と過ごしている自分が恥ずかしくなったのだ。
連絡先を交換したことは幸いだった。木下に何か返せるとしたら、恐らくこのタイミングだろう。
木下に見舞いの連絡をしてやることで、恩返しのとっかかりにでもしよう、それで少しでも心を軽くしよう。
それが当初の腹づもりだった。
「塚田たちに目をつけられた」
木下からの返信は、宇野の心を抉るかたちとなった。
どうやら塚田たちは、あの日以来、標的を宇野から木下へと変えたようだ。
宇野は、胸を痛めている自分に少し驚いた。標的が変わり、自分に平和が訪れて喜悦を感じる薄情な人間だと自分自身を分析していたからだ。
でも実際は違った。何だろう、いじめられていた時と同じこの心の痛みは。宇野の心臓は、呼吸が詰まりそうなほどの勢いで鼓動していた。
「宇野を庇うキモい奴、お前も金出せって、うちの団地前の公園で待ち伏せするようになって。学校でも体育館裏に来いとか、コンピュータールームに金持って来いとか。初めは適当にあしらってたんだけど、彼らが手を出し始めて、その苦痛に耐えられなくてさ」
宇野は木下からのメッセージに目を通しながら、下唇を噛んだ。
「宇野くんの件がチクられるかもしれないって警戒したんだろうね。僕は人前ではなく、陰でコソコソとやられた。誰にも気づかれないように」
「親に相談はした?」
「できないよ。自分の子が学校でそんな目に遭ってるって知ったら、どんだけ悲しむか。想像しただけで胸が痛いよ。だから、単純に体調不良ってことで休んでる」
「他の人には?」
「それもしてない。だって、どうせ何もしてくれないでしょ? 宇野くん、そう言ってたもんね」
木下のメッセージから、忌々しげな感じを受けた。どうせ周囲は無関心を貫くだけだと諦めている。
宇野は思った、木下の判断は正しいと。やっと自分に共感する人物が現れたかと、喜びと切なさが入り混じった複雑な感情を抱いていた。それと同時に、木下が自分を恨んでいるのではないかと勘繰った。もし、あの時庇っていなかったら、こんな目に遭っていなかったのに、そう思っているのではないかと。もちろん、最も悪なのは塚田たちである。それなのに何故か、自分がそちら側のような気になってしまっていた。
自分にも木下を不登校にしてしまった原因がある。そう思い込んでしまった宇野は、知らず知らずのうちに、自分自身に冤罪を科していた。
「すごくモヤモヤするな……」
宇野は、木下のために何かしてやれないか、自然とそう考えていた。庇ってもらった恩返しという名目ではなく、どちらかというと罪の意識がそうさせたように思う。
宇野は考えた。自分一人でどうこうできる話ではない、セオリーは先生への報告だ。
しかし、担任に報告しても意味がないということは、小学生の頃に経験済みだった。だから、うんと飛び越えて校長に直接話そう。
宇野は意を決したように、スマホの電源を落とした。
翌日、宇野は誰もいない教室に荷物を置いた。吹奏楽部の雑然とした朝練の音が校内を響き渡っているだけで、人間の気配は全くない。
宇野は、廊下から職員室を覗いた。職員室も閑散としており、机に伏せているか、パソコンや書類を凝視して、周囲を全く気にしていない人間が数人いるだけだった。
宇野は隣の校長室を覗き込んだ。同じく書類か何かに集中する校長が、中央にどっしりと構えていた。
宇野がこの時間を選んだのは、誰にも邪魔されず、校長と真っ向から話ができると考えたからだ。校長は、部屋にいたりいなかったり、気まぐれな猫のような生活をしているが、この時間帯は部屋にいることを宇野は知っていた。
一応、労働時間外のはずだから、教師が途中で入ってくることはないだろう。生徒が校長とサシで、それも張り詰めた空気に包まれる中話し合っている場面に遭遇したら、教師は恐らく、どんな話をしたのか、校長と話す前に担任に断れなどと、あれこれしつこく言ってくるに違いない。
ただでさえ、こんな面倒なことをしているのに、余計な面倒は増やしたくない、そう思っていたのだ。
宇野は、あらゆる臓物が口から飛び出そうなほどに緊張し、震える右腕を左手で強く押さえながら、校長室の扉を叩いた。
「はーい」
適度な低音で明るい声質が、扉の奥から微かに聞こえた。
宇野は、ゆっくりと扉を押し開けた。
「おはようございます。一年の宇野です」
宇野は、声の震えを抑えるようにしながら、はっきりとそう言った。
「おはようございます。どうかしましたか?」
校長は六十代くらいだ。大きな団子鼻と黒髪のオールバックが特徴的で、太くて薄い眉毛が吊り上がっており、強面な印象がある。
キッと向けられた校長の目が、宇野の緊張をより煽った。
校長は、にかっと笑って表情を崩し、穏やかに宇野に問いかけた。
「そう緊張しないで。ゆっくりでいいから」
「あの……えっと……」
「大丈夫ですよ。何か大事な話かな?」
緊張で言葉が出てこない宇野を和ませるように、校長は更に声を柔らかくした。
宇野は、校長のその声で落ち着きを取り戻し、深呼吸をしてから要件をぶつけた。
「一組に、いじめられて不登校になった生徒がいます」
宇野は、秋季に似つかわしくない重苦しい空気を、校長室に流した気がしたのだった。
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