笑顔の、裏側で

 ——あれは、本当に言うべきじゃなかったのかもしれない。


診察のあと、扉の外に出た私は、しばらく廊下の壁にもたれて立ち尽くしていた。


「……嘘、つかないでね」


そう言ったとき、リディアの顔が一瞬、強ばったように見えた。あれは、きっと傷ついた顔だった。


でも、私は——あのとき、どうしてそんな言葉が出てきたのか、自分でもよくわからなかった。

ただ、リディアの笑顔が、ひどく遠く感じられたから。


その笑みの奥に、何か隠している気がして、それが、どうしようもなく苦しくなった。


ごめんなさい、なんて、今さら言ってもきっと意味がない。


 けれど胸の奥がずっと、冷たい水で満たされたようにざわついていた。


 ——私は、リディアのことを、わかってきたと思っていたのに。


 優しい人。誰よりも思いやりのある人。


 でも、それだけじゃなかった。


 あの人は、自分の痛みを誰にも見せないまま、ただ「平気よ」と笑い続ける。


 私は、あの笑顔に……何を返せばよかったんだろう。


 



 それからしばらくして、屋敷に一台の馬車が入ってきた。


 「——訪問ですか?」


 窓辺で読書していたリディアのもとへ、グレイスが静かに近づいてきた。


 「ええ、伯爵家からのお使いのようです。お嬢様にお目通りを、と」


 リディアは本を閉じ、椅子からゆっくりと立ち上がった。


 「わかりました。応接室へご案内して」


 立ち上がる姿は、まだ少し痛々しかったけれど、それでもその表情には曇りはなかった。


 私は思わず、その背中を見送ってしまった。


 


 リディアが応接室へ向かってからしばらくして、私は廊下の隅に身を寄せ、そっと扉の外に立っていた。


 聞き耳を立てていたわけじゃない。ただ、どうしても気になったのだ。


 中からは、穏やかな声と、やや威圧的な男の声が交互に聞こえていた。


 「……お若い当主さまにしては、お見通しが利くようだ。だがしかし、世の中というのはな、理屈では動かぬものですぞ」


 「承知しております。けれど、どんなに理屈が通らずとも、我が領地の民を不利に晒すような取り引きは受けかねます」


 その声は、はっきりと冷静だった。


 「……いかにも父君譲りの気骨ですな」


 皮肉めいた声音に、私は思わず足を止めた。扉の奥から聞こえてくるやりとりに、耳が自然と傾く。


 「父もまた、“譲ってはならないもの”を守ってきた人でした。私はその意思を継ぐ者です」


 リディアの声は落ち着いていて、変わらない口調だった。その穏やかさが、かえって強く響く。


 「ほう……ご立派な言葉ですね。ですが、理想ばかり掲げても、国は回りませんよ。当主の務めとは、譲るべきところを見極めることでもあります」


 静かな廊下に、伯爵の声が響く。押しつけがましく、重たく感じた。


 「譲るべきものを、私は見誤らぬよう努めているつもりです」


 それに続いたリディアの言葉は、まるでひとつの形のように整っていて、少しも崩れなかった。


 私はそっと視線を落とす。胸の奥が、きゅっと小さくなる。


 「その自信、いつまでも続けばよろしいが……。若さは、時に判断を鈍らせるものですからな」


 「ええ。だからこそ、私は耳を傾けるべき言葉と、聞き流すべき言葉を、しっかり見極めていきたいと思っています」


 その言葉を聞いたとき、私は思わず指先に力を込めていた。扉の向こうのリディアの姿は見えないけれど、その声の静けさから、少しだけ輪郭が浮かんでくる気がした。


 怒っているわけでも、怯えているわけでもない。


 ただ、まっすぐに——話している。


 ……あの人はやっぱり、すごい人だと思った。


数分後、扉が開いた。


 先に姿を現したのは、丸背の老執事。そして、その後ろから、伯爵と思しき男が現れた。灰色の外套を羽織り、どこか苛立った様子で顎をしゃくるように顔を逸らしている。


 私はとっさに廊下の柱の陰へと身を寄せた。


 「……やはり、まだ“お嬢様”の域を出てはおらぬようで」


伯爵は鼻で笑うと、踵を返しかけ——ふと、何かを思い出したように振り返った。


「そうそう、ひとつだけ。……余計な詮索かもしれませんが」


 リディアは目を細めた。


「なんでしょうか?」


「こちらの屋敷に、“随分と目を引くお嬢さん”がいらっしゃるとか。金髪の、まだ若い娘だと伺いましたが……」


 一瞬、空気が凍りついた気がした。


 私は、廊下の陰で固く拳を握った。

 わかっていた——自分のことを言っているのだと。けれど、それ以上に、あの人が何を言い出すのかが怖かった。


「……あなたがそのような噂に興味を持たれるとは思いませんでした」


 リディアの声は静かだった。落ち着いていて、揺れがない。


「ふふ、興味などとんでもない。単なる心配ですな。若く未熟な当主が、思わぬ“装飾品”に手を出したと聞けば、こちらも警戒せざるを得ませんので」


 “装飾品”——その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 あの人がリディアに何かを言うたびに、冷たいものが喉元を這うようだった。


「“装飾品”とは随分な言い回しですね。私には、その人のことをそう呼ぶ理由が見つかりません」


 すぐに返されたその言葉に、心がわずかに揺れた。


 声は淡々としていたのに、そこにはどこか……あたたかさがあった。

 私を否定しない。軽んじない。ただ静かに、守ってくれている気がした。


「奴隷とは、そういうものでは?」


 伯爵の声は皮肉に満ちていた。

 次のリディアの言葉を、私は息を詰めて待った。


「そのように扱うつもりなら、最初から迎え入れたりはしませんでした」


 胸の奥が、ふっとほどけた。


「……綺麗事もほどほどに。そうでないと、どちらも不幸になる」


「承知しています。この身に誰かを預かるということは、その人の尊厳と未来に、私自身の名前を賭けるということです。——だからこそ、私は“持つ者”としての責任を、軽んじることはありません」


 変わらぬ声。強い意志のこもったその口調に、胸がじんわりと温かくなる。


 ——ああ、この人は、やっぱり……ちゃんと、私のことを考えてくれてるんだ。


 気づかれないように、そっと目を伏せた。

 肩にかかっていた小さな不安が、少しずつ、ほどけていくようだった。

 

 しばしの沈黙のあと、伯爵は鼻で笑い、ゆっくりと踵を返した。


 「……まったく、近頃の若者は口ばかり達者で困りますな」


 皮肉とも負け惜しみともつかない声音。だが、それ以上言葉を重ねることはなかった。


 足音だけが、廊下の奥へと遠ざかっていく。


 私は、その背中を見送るリディアの姿を想像しながら、静かに目を閉じた。 



 しばらくして、扉の向こうからグレイスの声がした。


 「お疲れ様でした。……やれやれ、いけ好かない男ですね」


 「ええ。でも、来てくれてよかったわ。改めて自分の立場を知る、いい機会だったもの」


 リディアの声は、どこまでも静かだった。


 その後ろ姿が、扉の隙間から少しだけ見えた。


 若いのに、威厳があった。

 年上の伯爵を前にしても、言葉ひとつ乱さない。

怒鳴り返すことも、怯えることもなく、静かに、正しく、相手を黙らせた。


その姿は、まるで“完璧な当主”だった。


まっすぐに背筋を伸ばして、目を逸らさず、誰よりも冷静で——

あのとき言っていたことも、本当だったのかもしれないと思った。


傷跡なんて、気にしていないのかもしれない。

舞踏会のことも、ドレスのことも、最初からどうでもよかったのかもしれない。


あの微笑みは、強がりなんかじゃなかったのかもしれない。

私が勝手に、そう思い込みたかっただけで。


そう思えば思うほど、胸のどこかが、ひんやりとした。

リディアを、少しだけ遠くに感じた。




夜更け。屋敷は静まり返っていた。


 寝室の天蓋の下、私は目を閉じたまま、息を潜めていた。けれど、眠れなかった。さっきまでの出来事が、何度も頭の中で反芻されていたからだ。


 あの伯爵とのやりとり——

 リディアは、何ひとつ動じなかった。まるで、最初からそういう言葉がくると分かっていたみたいに、冷静で、堂々としていた。


 強い人。そう思った。

 あの人は、誰に何を言われても、微笑みを崩さずにいられる。


 ——でも。


 何かがひっかかっていた。

 胸の奥で、小さな棘のように。


 私は、そっと寝台を抜け出す。

 足音を立てないように、廊下を歩いた。なぜそうしたのか、言葉にはできなかった。ただ、確かめたくなったのだ。あの人が、本当に何も感じていなかったのかどうかを。


扉が少しだけ開いていた。書斎の扉だ。中に明かりが灯っている。

 私は静かに近づき、気配を消すようにして隙間から中を覗いた。


 リディアがいた。机に向かって座り、手帳のようなものを開いている。

 姿勢はいつも通りで、背筋も伸びていた。けれどその肩が、ふと、小さく揺れた。


 一度、また一度。呼吸とは少し違う動きだった。


 私は目を凝らす。彼女は、静かにまぶたを伏せ、手元にそっと指を添えていた。

 肩がふるりと揺れて、指先が頬に触れた。

それが何を拭ったのか、私は一瞬わからなかったけれど——すぐに、息を呑んだ。


 音も言葉もなかった。ただ、静かに——

 彼女は、一人きりで、泣いていた。


 涙は、こぼれ落ちるというよりも、流れ落ちるというよりも、

 ……ただ、そこに在るようだった。


 その背中を見ているうちに、私は思わず息を呑んだ。


 リディアが、泣いてる。


 誰にも見せない場所で、誰にも気づかれないように、何でもないふうに……でも確かに。


 私は、手を伸ばすことも、声をかけることもできなかった。

 ただ、そこに立ち尽くしていた。


 


 翌朝。


 リディアは、いつも通りだった。

 食卓に現れ、私や使用人たちに穏やかに微笑み、昨日のことなどなかったかのように紅茶を口に運ぶ。


 完璧だった。

 笑みも、言葉も、仕草も、まったく乱れがなかった。


 けれど私は知っている。

 昨夜、彼女が書斎で、誰にも見られないように涙を流していたことを。


 「……強がらなくていいのに」


 思わず、そんな言葉がこぼれていた。


 リディアがこちらを見た。わずかに目を瞬かせたあと、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。


 その表情は、どこにも綻びがなかった。

 まるで、最初から何もなかったかのように。


 私は、昨夜の光景を思い出す。

 静かな書斎、伏せられた瞳、机の上に落ちていた、涙の跡。


 ……あれは、見間違いなんかじゃなかった。


 笑っているから大丈夫だなんて、きっと違う。

 傷ついていないから平気なふりができるわけじゃない。


 たぶん、それを見せないようにしているだけ。

 自分が傷ついていることを、誰にも知られたくないんだ。


 私は、手元のティーカップに視線を落とした。

 ゆっくりと回る琥珀色の波紋の向こうで、自分の胸の奥が静かにざわめいている。


 「……あの人も、怖いんだ」


 呟いた言葉に、自分でも驚いた。

 けれど、不思議と、間違ってはいない気がした。


 私には、まだ“優しさ”というものがよくわからない。

 けれど今はただ——


 「大丈夫」と微笑む誰かに、「そうじゃなくてもいいんだよ」と伝えたい。


 その想いだけが、確かに胸の奥に残っていた。

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