笑顔の、裏側で
——あれは、本当に言うべきじゃなかったのかもしれない。
診察のあと、扉の外に出た私は、しばらく廊下の壁にもたれて立ち尽くしていた。
「……嘘、つかないでね」
そう言ったとき、リディアの顔が一瞬、強ばったように見えた。あれは、きっと傷ついた顔だった。
でも、私は——あのとき、どうしてそんな言葉が出てきたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、リディアの笑顔が、ひどく遠く感じられたから。
その笑みの奥に、何か隠している気がして、それが、どうしようもなく苦しくなった。
ごめんなさい、なんて、今さら言ってもきっと意味がない。
けれど胸の奥がずっと、冷たい水で満たされたようにざわついていた。
——私は、リディアのことを、わかってきたと思っていたのに。
優しい人。誰よりも思いやりのある人。
でも、それだけじゃなかった。
あの人は、自分の痛みを誰にも見せないまま、ただ「平気よ」と笑い続ける。
私は、あの笑顔に……何を返せばよかったんだろう。
◇
それからしばらくして、屋敷に一台の馬車が入ってきた。
「——訪問ですか?」
窓辺で読書していたリディアのもとへ、グレイスが静かに近づいてきた。
「ええ、伯爵家からのお使いのようです。お嬢様にお目通りを、と」
リディアは本を閉じ、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「わかりました。応接室へご案内して」
立ち上がる姿は、まだ少し痛々しかったけれど、それでもその表情には曇りはなかった。
私は思わず、その背中を見送ってしまった。
◇
リディアが応接室へ向かってからしばらくして、私は廊下の隅に身を寄せ、そっと扉の外に立っていた。
聞き耳を立てていたわけじゃない。ただ、どうしても気になったのだ。
中からは、穏やかな声と、やや威圧的な男の声が交互に聞こえていた。
「……お若い当主さまにしては、お見通しが利くようだ。だがしかし、世の中というのはな、理屈では動かぬものですぞ」
「承知しております。けれど、どんなに理屈が通らずとも、我が領地の民を不利に晒すような取り引きは受けかねます」
その声は、はっきりと冷静だった。
「……いかにも父君譲りの気骨ですな」
皮肉めいた声音に、私は思わず足を止めた。扉の奥から聞こえてくるやりとりに、耳が自然と傾く。
「父もまた、“譲ってはならないもの”を守ってきた人でした。私はその意思を継ぐ者です」
リディアの声は落ち着いていて、変わらない口調だった。その穏やかさが、かえって強く響く。
「ほう……ご立派な言葉ですね。ですが、理想ばかり掲げても、国は回りませんよ。当主の務めとは、譲るべきところを見極めることでもあります」
静かな廊下に、伯爵の声が響く。押しつけがましく、重たく感じた。
「譲るべきものを、私は見誤らぬよう努めているつもりです」
それに続いたリディアの言葉は、まるでひとつの形のように整っていて、少しも崩れなかった。
私はそっと視線を落とす。胸の奥が、きゅっと小さくなる。
「その自信、いつまでも続けばよろしいが……。若さは、時に判断を鈍らせるものですからな」
「ええ。だからこそ、私は耳を傾けるべき言葉と、聞き流すべき言葉を、しっかり見極めていきたいと思っています」
その言葉を聞いたとき、私は思わず指先に力を込めていた。扉の向こうのリディアの姿は見えないけれど、その声の静けさから、少しだけ輪郭が浮かんでくる気がした。
怒っているわけでも、怯えているわけでもない。
ただ、まっすぐに——話している。
……あの人はやっぱり、すごい人だと思った。
数分後、扉が開いた。
先に姿を現したのは、丸背の老執事。そして、その後ろから、伯爵と思しき男が現れた。灰色の外套を羽織り、どこか苛立った様子で顎をしゃくるように顔を逸らしている。
私はとっさに廊下の柱の陰へと身を寄せた。
「……やはり、まだ“お嬢様”の域を出てはおらぬようで」
伯爵は鼻で笑うと、踵を返しかけ——ふと、何かを思い出したように振り返った。
「そうそう、ひとつだけ。……余計な詮索かもしれませんが」
リディアは目を細めた。
「なんでしょうか?」
「こちらの屋敷に、“随分と目を引くお嬢さん”がいらっしゃるとか。金髪の、まだ若い娘だと伺いましたが……」
一瞬、空気が凍りついた気がした。
私は、廊下の陰で固く拳を握った。
わかっていた——自分のことを言っているのだと。けれど、それ以上に、あの人が何を言い出すのかが怖かった。
「……あなたがそのような噂に興味を持たれるとは思いませんでした」
リディアの声は静かだった。落ち着いていて、揺れがない。
「ふふ、興味などとんでもない。単なる心配ですな。若く未熟な当主が、思わぬ“装飾品”に手を出したと聞けば、こちらも警戒せざるを得ませんので」
“装飾品”——その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
あの人がリディアに何かを言うたびに、冷たいものが喉元を這うようだった。
「“装飾品”とは随分な言い回しですね。私には、その人のことをそう呼ぶ理由が見つかりません」
すぐに返されたその言葉に、心がわずかに揺れた。
声は淡々としていたのに、そこにはどこか……あたたかさがあった。
私を否定しない。軽んじない。ただ静かに、守ってくれている気がした。
「奴隷とは、そういうものでは?」
伯爵の声は皮肉に満ちていた。
次のリディアの言葉を、私は息を詰めて待った。
「そのように扱うつもりなら、最初から迎え入れたりはしませんでした」
胸の奥が、ふっとほどけた。
「……綺麗事もほどほどに。そうでないと、どちらも不幸になる」
「承知しています。この身に誰かを預かるということは、その人の尊厳と未来に、私自身の名前を賭けるということです。——だからこそ、私は“持つ者”としての責任を、軽んじることはありません」
変わらぬ声。強い意志のこもったその口調に、胸がじんわりと温かくなる。
——ああ、この人は、やっぱり……ちゃんと、私のことを考えてくれてるんだ。
気づかれないように、そっと目を伏せた。
肩にかかっていた小さな不安が、少しずつ、ほどけていくようだった。
しばしの沈黙のあと、伯爵は鼻で笑い、ゆっくりと踵を返した。
「……まったく、近頃の若者は口ばかり達者で困りますな」
皮肉とも負け惜しみともつかない声音。だが、それ以上言葉を重ねることはなかった。
足音だけが、廊下の奥へと遠ざかっていく。
私は、その背中を見送るリディアの姿を想像しながら、静かに目を閉じた。
◇
しばらくして、扉の向こうからグレイスの声がした。
「お疲れ様でした。……やれやれ、いけ好かない男ですね」
「ええ。でも、来てくれてよかったわ。改めて自分の立場を知る、いい機会だったもの」
リディアの声は、どこまでも静かだった。
その後ろ姿が、扉の隙間から少しだけ見えた。
若いのに、威厳があった。
年上の伯爵を前にしても、言葉ひとつ乱さない。
怒鳴り返すことも、怯えることもなく、静かに、正しく、相手を黙らせた。
その姿は、まるで“完璧な当主”だった。
まっすぐに背筋を伸ばして、目を逸らさず、誰よりも冷静で——
あのとき言っていたことも、本当だったのかもしれないと思った。
傷跡なんて、気にしていないのかもしれない。
舞踏会のことも、ドレスのことも、最初からどうでもよかったのかもしれない。
あの微笑みは、強がりなんかじゃなかったのかもしれない。
私が勝手に、そう思い込みたかっただけで。
そう思えば思うほど、胸のどこかが、ひんやりとした。
リディアを、少しだけ遠くに感じた。
◇
夜更け。屋敷は静まり返っていた。
寝室の天蓋の下、私は目を閉じたまま、息を潜めていた。けれど、眠れなかった。さっきまでの出来事が、何度も頭の中で反芻されていたからだ。
あの伯爵とのやりとり——
リディアは、何ひとつ動じなかった。まるで、最初からそういう言葉がくると分かっていたみたいに、冷静で、堂々としていた。
強い人。そう思った。
あの人は、誰に何を言われても、微笑みを崩さずにいられる。
——でも。
何かがひっかかっていた。
胸の奥で、小さな棘のように。
私は、そっと寝台を抜け出す。
足音を立てないように、廊下を歩いた。なぜそうしたのか、言葉にはできなかった。ただ、確かめたくなったのだ。あの人が、本当に何も感じていなかったのかどうかを。
扉が少しだけ開いていた。書斎の扉だ。中に明かりが灯っている。
私は静かに近づき、気配を消すようにして隙間から中を覗いた。
リディアがいた。机に向かって座り、手帳のようなものを開いている。
姿勢はいつも通りで、背筋も伸びていた。けれどその肩が、ふと、小さく揺れた。
一度、また一度。呼吸とは少し違う動きだった。
私は目を凝らす。彼女は、静かにまぶたを伏せ、手元にそっと指を添えていた。
肩がふるりと揺れて、指先が頬に触れた。
それが何を拭ったのか、私は一瞬わからなかったけれど——すぐに、息を呑んだ。
音も言葉もなかった。ただ、静かに——
彼女は、一人きりで、泣いていた。
涙は、こぼれ落ちるというよりも、流れ落ちるというよりも、
……ただ、そこに在るようだった。
その背中を見ているうちに、私は思わず息を呑んだ。
リディアが、泣いてる。
誰にも見せない場所で、誰にも気づかれないように、何でもないふうに……でも確かに。
私は、手を伸ばすことも、声をかけることもできなかった。
ただ、そこに立ち尽くしていた。
◇
翌朝。
リディアは、いつも通りだった。
食卓に現れ、私や使用人たちに穏やかに微笑み、昨日のことなどなかったかのように紅茶を口に運ぶ。
完璧だった。
笑みも、言葉も、仕草も、まったく乱れがなかった。
けれど私は知っている。
昨夜、彼女が書斎で、誰にも見られないように涙を流していたことを。
「……強がらなくていいのに」
思わず、そんな言葉がこぼれていた。
リディアがこちらを見た。わずかに目を瞬かせたあと、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。
その表情は、どこにも綻びがなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
私は、昨夜の光景を思い出す。
静かな書斎、伏せられた瞳、机の上に落ちていた、涙の跡。
……あれは、見間違いなんかじゃなかった。
笑っているから大丈夫だなんて、きっと違う。
傷ついていないから平気なふりができるわけじゃない。
たぶん、それを見せないようにしているだけ。
自分が傷ついていることを、誰にも知られたくないんだ。
私は、手元のティーカップに視線を落とした。
ゆっくりと回る琥珀色の波紋の向こうで、自分の胸の奥が静かにざわめいている。
「……あの人も、怖いんだ」
呟いた言葉に、自分でも驚いた。
けれど、不思議と、間違ってはいない気がした。
私には、まだ“優しさ”というものがよくわからない。
けれど今はただ——
「大丈夫」と微笑む誰かに、「そうじゃなくてもいいんだよ」と伝えたい。
その想いだけが、確かに胸の奥に残っていた。
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