誰かのための強さ
執務室にこもって、私は古い書簡を静かに読み返していた。
机の上には、かつて父が記した文書の束がある。領内の情勢、農地の分配、税の見直し——あらゆる報告と決断の記録が、几帳面な筆跡で並んでいた。
ページをめくる手を止める。ふと、便箋の裏に走り書きのような文字が目に留まった。
——「民の声に耳を傾けよ。ただし、惑わされるな」
思わず、その一文に目が留まった。
それは、幼い頃のある記憶を呼び起こす言葉でもあった。
「人の上に立つ者は、常に民の支えでなければならぬ。たとえ己に迷いがあっても、それを顔に出してはならん。上が揺らげば、下はもっと揺れる」
そのとき、私は父の膝の上に座っていた。まだ小さく、父の手のひらに包まれることが何より安心だった。
「胸の内ではどんなに怖くとも、堂々と前を向いていなさい。それが——お前の強さになる」
あのときの私は、うなずくことしかできなかった。
父の言葉の意味は、あの頃の私にはわからなかった。
けれど、父の手の温かさだけは、今もはっきりと覚えている。
その言葉の隣で、母が静かに微笑んでいた。あたたかな陽だまりの中、あのひとときが、まるで夢のように蘇る。
——父のようになりたい。
私は何度もそう思ってきた。
けれど今、その「強さ」が、少しだけ重く感じる日がある。
……そんな気持ちを胸にしまいながら、私は書簡を閉じて、執務室を後にした。
◇
執務室を後にし、廊下を歩く。窓から差し込む柔らかな陽光は、まるで何もかもが穏やかであるかのように、床に美しい影を落としていた。
——けれど、そんなふうに見えるだけ。
私は歩きながら、ふと壁際で立ち止まった。
両親が亡くなってから、まだ一年ほどしか経っていない。けれど、その短い歳月のなかで、私の世界はまるで何年分もの重みを背負わされたかのように変わってしまった。
子どもでいられた時間は、思っていたよりずっと短かったのだと思う。
守られる側から、守る側へ。
誰かの背中に隠れていたはずの自分が、いつの間にか前に立たなければならなくなっていた。
頼れる人はいない。弱音を吐けば、誰かが不安になる。だから、何があっても笑っていなければならなかった。
怖くないと、言い聞かせて。
迷ってなどいないと、自分に嘘をついて。
だけど、心のどこかでは気づいている。もう限界が近いということに。
それでも立ち止まれない。立ち止まってしまったら、父のようにはなれないから。
「……」
気配に気づいて、ゆっくりと視線を上げる。廊下の先、曲がり角の陰に、誰かの気配があった。
——フィオ。
息を潜めるように立っていたその姿に、私はそっと目を細める。
彼女は何か言いかけていたのかもしれない。けれど私が静かに微笑んでみせると、その唇はそっと閉じられ、気配とともに足音も遠ざかっていった。
それは、まるで彼女の優しさをひとつ、取りこぼしてしまったような気がして——
私は胸の奥で、そっと小さな痛みを抱きしめた。
◇
夜が来ると、あたりは静まり返る。
寝室の窓の外には、まだ雪の気配はない。けれど、冬の風はもう十分に冷たくて、肩をすくめたくなるような空気が部屋の隅にまで入り込んでいた。
私はベッドに横たわり、目を閉じる。
けれど、眠れない。
こうして一人になると、昼間には押し込めていた考えが、するすると這い出してくる。
父の言葉。母の笑顔。フィオのまなざし。
どれも胸を刺すように、静かに、でも確かに私を揺さぶった。
——私は、父のようにはなれない。
そんなことは、最初からわかっていた。
あの人のように誠実で、真っ直ぐで、何もかもを信じて任せられるような器には、到底及ばない。
けれど、なろうとしなければならない。
そうでなければ、誰がこの家を、領地を、守っていくのか。
……誰が、あの子を守るのか。
フィオの顔が浮かぶ。
あの子は、どこか自分に似ている。
誰にも心を開かず、笑い方も、泣き方も、まだよく知らない。
けれど、ほんの少しずつ——彼女は変わってきている。
私に「ありがとう」と言ってくれて、私を心配してくれて、そしてあの夜、「嘘をつかないで」と言ってくれた。
その言葉が、嬉しかった。
同時に、怖くもあった。
私はあの子にだけは、自分の弱さを見せてはいけないと思っていた。
守る側として。領主として。
そう思い込んでいたのに——
……本当は、もう誰かに「平気じゃない」と言いたかったのかもしれない。
「誰かに……助けてほしいって、思ってるのかな……私……」
そんなことを、声に出してみる勇気はない。
ただ、胸の中に生まれたその言葉を、私はそっと、ひとりきりで噛みしめた。
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