ほんとうのきもち
怪我をしてから数日が経った。
痛みはまだ残っているものの、日常の雑事に戻ろうとする私を、グレイスは「お嬢様の仕事は静養です」と言って退け続けていた。
けれど、それ以上に意外だったのは——
「……それ、持つ。落とさないように気をつけるから」
そう言って、そっと手を差し出してきたフィオだった。
ぎこちない手つきで食器を運び、時にはバランスを崩して「きゃっ」と小さく悲鳴をあげる。乾いた皿を布で拭こうとして落としそうになり、洗濯物をたたもうとして山を崩す。
そのたびにグレイスが「危ないよ、ほら見てごらん」と苦笑混じりに声をかけ、フィオは気まずそうに「……ごめんなさい」と眉をひそめる。
でも——
「気にしなくていいわ。ありがとう、フィオ」
私がそう声をかけると、フィオは一瞬きょとんとして、それから小さく「……うん」と頷いた。
その返事が、どこかくすぐったくて、私は思わず笑みをこぼしてしまう。
以前の彼女なら、こんなふうに自分から手伝おうとはしなかった。何か言えば怯えたような目をして、距離を取ろうとしていた。
けれど今は違う。
不器用ながらも、手を伸ばしてくれる。
まだぎこちなくても、そこには確かな「意思」がある。
その変化が、私には何より嬉しかった。
少しずつ、日々が変わっていく気がした。
◇
その日は珍しく、天気がよかった。
窓から差し込む日差しに誘われて、私は椅子を押して立ち上がろうとした。左足にはまだ痛みが残っていたけれど、少しくらい歩いても平気なはずだった。
……そのつもりだったのだが。
「だめ」
ぴしゃりとした声が飛んできて、私は思わず動きを止めた。
振り返ると、フィオがじっとこちらを見ていた。
「昨日も立ち上がろうとして、顔しかめてた。……無理しないでって、グレイスが言ってた」
ぴくりと眉が動くのが、自分でもわかった。
「大丈夫よ、少し動くだけ……」
「だめ」
彼女は小さく首を振った。すぐさま踵を返して部屋を出ていくと、数秒後には廊下の向こうからグレイスの「あーあ、また無理しようとしてたのかい!」という声が聞こえてくる。
あまりに素早く、的確な“通報”だった。
やがて部屋に戻ってきたフィオは、どこか満足げな顔で私を見た。
「……だから、だめだって言ったのに」
私は苦笑をこぼすしかなかった。
思えば、あんなに他人の言葉に反応を見せなかったフィオが、今では私やグレイスの言葉をよく覚えている。そして、こうして誰かのために何かをしようとしている。
「ありがとう。心配してくれてるのね」
そう言うと、彼女はきまりが悪そうに目をそらした。
けれど、耳の先がほんのり赤くなっているのが見えて、私はそっと微笑んだ。
……そうして、日々は静かに過ぎていった。
◇
数日後、屋敷に侍医がやってきた。
応接間のソファに座った私は、左足の包帯を外されながら静かに診察を受けていた。隣では、フィオが緊張した様子で椅子の端に座っている。
「足のほうは、打撲と軽度の骨の圧迫ですな。少し腫れはありますが、位置のズレや骨折は見られません。数週間の安静で問題ないでしょう」
医師の言葉に、私はほっと息をついた。
「後遺症などは?」
「左足に関しては、残らない見込みです」
「……よかった」
私は小さくうなずいた。だが、医師は少し表情を曇らせ、視線を左腕へと移した。
「ただ——左腕のほうは、打ちどころが悪かった。蹴られた際に骨ではなく皮膚と筋に直接ダメージを受けている。擦過傷も深く、裂けた部分もありました」
彼は一呼吸置いて、続けた。
「縫合した箇所に関しては、回復します。ただ……」
「傷が、残る可能性があると?」
医師は静かにうなずいた。
「はい。位置は上腕から前腕にかけて、外側ですな。長袖であれば隠れますが、ドレスのように肌を見せる服装では……難しいかと」
私は静かに視線を伏せた。
「……後遺症がなかっただけでも、ありがたいです」
努めて穏やかな声で答えると、医師は深くうなずき、席を立った。
診察が終わったあとも、部屋の空気はどこか重たく沈んでいた。
フィオは、じっと手のひらを見つめたまま黙っていた。何かを言いたそうに口を開きかけては、また閉じる。
「フィオ?」
声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを見た。その目は、怯えにも似た光を宿していた。
「……腕に、傷が残るの?」
「ええ。そうなるかもしれないわ」
私が穏やかに答えると、フィオは苦しげに唇を噛んだ。
「……私のせい、だよね。守ろうとして……怪我したのに……」
「それは違うわ」
私は即座に首を横に振った。
「私は、自分の意思でそうしたの。誰かのせいにするつもりはないし、あなたが自分を責めることじゃない」
フィオは何も言わなかった。ただ、拳を膝の上でぎゅっと握りしめて、視線を落としたまま、わずかに肩を震わせていた。
私はそんな彼女をそっと見つめながら、声の調子をほんの少しだけ和らげて言葉を継いだ。
「ねえ、フィオ」
左腕に巻かれた包帯を一瞥し、口元に笑みを浮かべる。
「これで、もう舞踏会とか晩餐会とか、“肌を見せるドレス”を着て出る理由がなくなったのよ。正直、ああいうのはちょっと苦手だったから、むしろ助かったくらい」
冗談めかして言ったつもりだった。
「……それ、本当?」
静かな声だった。けれど、逃げられない問いだった。
私は笑おうとした。いつものように、平気な顔で「ええ」と答えようとした。
……でも、言葉が続かなかった。
フィオのまっすぐな瞳が、私の嘘を見透かしているようで、喉の奥がつまる。
「本当、って……?」
声が出たときには、もう掠れていた。
「傷が残っても平気だって。舞踏会がなくなって助かったって」
フィオは目を逸らさない。小さな体で、逃げずに、私を見ていた。
私は、視線を落とした。包帯の上から、自分の左腕を撫でる。
指先に、包帯越しの僅かな硬さが触れた。その下にある皮膚が、元の姿に戻ることはもうないのだと、あらためて実感する。
——それでも、構わない。
そう思いたかった。
「……ええ、本当よ」
少し間を置いて、私はそう言った。
「私は、もともとああいう場が得意じゃなかったし……こうして理由ができたのなら、それはそれで、悪くないもの」
笑おうとした唇は、思ったよりも乾いていた。
「だから、心配しないで」
視線を上げて、フィオを見つめる。
彼女は何か言いたげだったけれど、そのまま言葉を呑みこんだようだった。小さく唇が動いて、また閉じる。
私は微笑んだ。できるだけ自然に、できるだけ優しく。
——それが私にできる、精一杯の強がりだった。
「……そう、なんだ」
フィオがぽつりとそう言った。
その声は、まるで自分に言い聞かせるように小さくて、私は少しだけ胸が締めつけられるような気がした。
彼女は視線を逸らしたまま、膝の上で小さく拳を握っている。俯いた顔はよく見えなかったが、長い睫毛がほんの微かに震えていた。
それでも、私に何かを責めるような色はない。ただ、静かな戸惑いと、言葉にできない想いが、そこにあるようだった。
「……嘘、つかないでね」
不意に、フィオがそう呟いた。
私は思わず彼女の顔を見たが、フィオはこちらを見ようとしなかった。
その言葉に、咄嗟に何か返すことができなかった。
——嘘、だなんて。
私は、嘘をついたつもりなんてなかった。
ただ、誰かを心配させたくなかっただけで。
それでも、彼女には伝わってしまったのだろうか。私の言葉の裏にある“痛み”のようなものが。
「……わたし、まだ“優しさ”が、どういうものなのか、よくわかってないけど……たぶん、それって……」
言葉を探すように口を開いたフィオは、すぐに言葉を切った。そして、そっと息を吐く。
「……また、来るね」
そう言って立ち上がった彼女の足取りは、ほんの少しだけ速かった。
閉じられた扉の向こうに、余韻のような沈黙が残っていた。
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