ほんとうのきもち


 怪我をしてから数日が経った。


 痛みはまだ残っているものの、日常の雑事に戻ろうとする私を、グレイスは「お嬢様の仕事は静養です」と言って退け続けていた。


 けれど、それ以上に意外だったのは——


 「……それ、持つ。落とさないように気をつけるから」


 そう言って、そっと手を差し出してきたフィオだった。


 ぎこちない手つきで食器を運び、時にはバランスを崩して「きゃっ」と小さく悲鳴をあげる。乾いた皿を布で拭こうとして落としそうになり、洗濯物をたたもうとして山を崩す。


 そのたびにグレイスが「危ないよ、ほら見てごらん」と苦笑混じりに声をかけ、フィオは気まずそうに「……ごめんなさい」と眉をひそめる。


 でも——


 「気にしなくていいわ。ありがとう、フィオ」


 私がそう声をかけると、フィオは一瞬きょとんとして、それから小さく「……うん」と頷いた。


 その返事が、どこかくすぐったくて、私は思わず笑みをこぼしてしまう。


 以前の彼女なら、こんなふうに自分から手伝おうとはしなかった。何か言えば怯えたような目をして、距離を取ろうとしていた。


 けれど今は違う。


 不器用ながらも、手を伸ばしてくれる。

 まだぎこちなくても、そこには確かな「意思」がある。


 その変化が、私には何より嬉しかった。

少しずつ、日々が変わっていく気がした。



その日は珍しく、天気がよかった。


 窓から差し込む日差しに誘われて、私は椅子を押して立ち上がろうとした。左足にはまだ痛みが残っていたけれど、少しくらい歩いても平気なはずだった。


 ……そのつもりだったのだが。


 「だめ」


 ぴしゃりとした声が飛んできて、私は思わず動きを止めた。


 振り返ると、フィオがじっとこちらを見ていた。


 「昨日も立ち上がろうとして、顔しかめてた。……無理しないでって、グレイスが言ってた」


 ぴくりと眉が動くのが、自分でもわかった。


 「大丈夫よ、少し動くだけ……」


 「だめ」


 彼女は小さく首を振った。すぐさま踵を返して部屋を出ていくと、数秒後には廊下の向こうからグレイスの「あーあ、また無理しようとしてたのかい!」という声が聞こえてくる。


 あまりに素早く、的確な“通報”だった。


 やがて部屋に戻ってきたフィオは、どこか満足げな顔で私を見た。


 「……だから、だめだって言ったのに」


 私は苦笑をこぼすしかなかった。


 思えば、あんなに他人の言葉に反応を見せなかったフィオが、今では私やグレイスの言葉をよく覚えている。そして、こうして誰かのために何かをしようとしている。


 「ありがとう。心配してくれてるのね」


 そう言うと、彼女はきまりが悪そうに目をそらした。


 けれど、耳の先がほんのり赤くなっているのが見えて、私はそっと微笑んだ。


……そうして、日々は静かに過ぎていった。



数日後、屋敷に侍医がやってきた。


 応接間のソファに座った私は、左足の包帯を外されながら静かに診察を受けていた。隣では、フィオが緊張した様子で椅子の端に座っている。


 「足のほうは、打撲と軽度の骨の圧迫ですな。少し腫れはありますが、位置のズレや骨折は見られません。数週間の安静で問題ないでしょう」


 医師の言葉に、私はほっと息をついた。


 「後遺症などは?」


 「左足に関しては、残らない見込みです」


 「……よかった」


 私は小さくうなずいた。だが、医師は少し表情を曇らせ、視線を左腕へと移した。


 「ただ——左腕のほうは、打ちどころが悪かった。蹴られた際に骨ではなく皮膚と筋に直接ダメージを受けている。擦過傷も深く、裂けた部分もありました」


 彼は一呼吸置いて、続けた。


 「縫合した箇所に関しては、回復します。ただ……」


 「傷が、残る可能性があると?」


 医師は静かにうなずいた。


 「はい。位置は上腕から前腕にかけて、外側ですな。長袖であれば隠れますが、ドレスのように肌を見せる服装では……難しいかと」


 私は静かに視線を伏せた。


 「……後遺症がなかっただけでも、ありがたいです」


 努めて穏やかな声で答えると、医師は深くうなずき、席を立った。


 診察が終わったあとも、部屋の空気はどこか重たく沈んでいた。


 フィオは、じっと手のひらを見つめたまま黙っていた。何かを言いたそうに口を開きかけては、また閉じる。


 「フィオ?」


 声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを見た。その目は、怯えにも似た光を宿していた。


 「……腕に、傷が残るの?」


 「ええ。そうなるかもしれないわ」


 私が穏やかに答えると、フィオは苦しげに唇を噛んだ。


 「……私のせい、だよね。守ろうとして……怪我したのに……」


 「それは違うわ」


 私は即座に首を横に振った。


 「私は、自分の意思でそうしたの。誰かのせいにするつもりはないし、あなたが自分を責めることじゃない」


 フィオは何も言わなかった。ただ、拳を膝の上でぎゅっと握りしめて、視線を落としたまま、わずかに肩を震わせていた。


 私はそんな彼女をそっと見つめながら、声の調子をほんの少しだけ和らげて言葉を継いだ。


 「ねえ、フィオ」


 左腕に巻かれた包帯を一瞥し、口元に笑みを浮かべる。


 「これで、もう舞踏会とか晩餐会とか、“肌を見せるドレス”を着て出る理由がなくなったのよ。正直、ああいうのはちょっと苦手だったから、むしろ助かったくらい」


 冗談めかして言ったつもりだった。


 「……それ、本当?」


 静かな声だった。けれど、逃げられない問いだった。


 私は笑おうとした。いつものように、平気な顔で「ええ」と答えようとした。


……でも、言葉が続かなかった。

フィオのまっすぐな瞳が、私の嘘を見透かしているようで、喉の奥がつまる。


 「本当、って……?」


 声が出たときには、もう掠れていた。


 「傷が残っても平気だって。舞踏会がなくなって助かったって」


 フィオは目を逸らさない。小さな体で、逃げずに、私を見ていた。


 私は、視線を落とした。包帯の上から、自分の左腕を撫でる。

 指先に、包帯越しの僅かな硬さが触れた。その下にある皮膚が、元の姿に戻ることはもうないのだと、あらためて実感する。


 ——それでも、構わない。


 そう思いたかった。


 「……ええ、本当よ」


 少し間を置いて、私はそう言った。


 「私は、もともとああいう場が得意じゃなかったし……こうして理由ができたのなら、それはそれで、悪くないもの」


 笑おうとした唇は、思ったよりも乾いていた。


 「だから、心配しないで」


 視線を上げて、フィオを見つめる。


 彼女は何か言いたげだったけれど、そのまま言葉を呑みこんだようだった。小さく唇が動いて、また閉じる。


 私は微笑んだ。できるだけ自然に、できるだけ優しく。


 ——それが私にできる、精一杯の強がりだった。


 「……そう、なんだ」


 フィオがぽつりとそう言った。


 その声は、まるで自分に言い聞かせるように小さくて、私は少しだけ胸が締めつけられるような気がした。


 彼女は視線を逸らしたまま、膝の上で小さく拳を握っている。俯いた顔はよく見えなかったが、長い睫毛がほんの微かに震えていた。


 それでも、私に何かを責めるような色はない。ただ、静かな戸惑いと、言葉にできない想いが、そこにあるようだった。


 「……嘘、つかないでね」


 不意に、フィオがそう呟いた。


 私は思わず彼女の顔を見たが、フィオはこちらを見ようとしなかった。


 その言葉に、咄嗟に何か返すことができなかった。


 ——嘘、だなんて。

 私は、嘘をついたつもりなんてなかった。

 ただ、誰かを心配させたくなかっただけで。


 それでも、彼女には伝わってしまったのだろうか。私の言葉の裏にある“痛み”のようなものが。


 「……わたし、まだ“優しさ”が、どういうものなのか、よくわかってないけど……たぶん、それって……」


 言葉を探すように口を開いたフィオは、すぐに言葉を切った。そして、そっと息を吐く。


 「……また、来るね」


 そう言って立ち上がった彼女の足取りは、ほんの少しだけ速かった。


 閉じられた扉の向こうに、余韻のような沈黙が残っていた。

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