ぎこちない手
朝の空気は、ひんやりとしていて気持ちがよかった。
私は静かに廊下を歩く。寝巻きのまま、髪もまだといていない。だけど今は、それどころじゃなかった。
昨夜のことが、胸の奥にまだ残っている。
リディアが、怪我をしてまで私をかばってくれたこと。
そして、そんな彼女に向かって、私は言ってしまった。
——あなたが怪我したの見て……すごく、すごく嫌だった。怖かったの。
言うつもりなんてなかったのに。あんなふうに、心の底が勝手に言葉になってしまった。
あのあと、リディアは笑って、「心配してくれて嬉しいわ」と言ってくれた。
そのとき胸の奥が、ほんの少し、温かくなった気がした。
私、あの人のことを……ちゃんと、優しいと思ってる。
——だから、少しだけ、何かしてあげたい。
そう思ったのは、きっと初めてだった。
だけど——
本当に私が行って、邪魔にならないだろうか。
何か言われたら、何て返せばいい?
……そもそも、優しくなんて、できるのかな。
でも、何もしなければ、きっとまた、何も変わらない。
廊下を歩いていると、ふと昨夜のグレイスの言葉を思い出した。
「お嬢様には困ったもんだよ。怪我人なんだから、寝てるのが仕事だってのに……あの方は、平気な顔して起きてきて、本を開いたり、書き物をしようとしたりするんだから」
少し呆れたような口調。でも、その奥には、確かに心配の色がにじんでいた。
——無理してるんだ。
そういえば昨日も、包帯の巻かれた足をかばいながら歩いていた。左腕は力を入れるたびに、うっすらと顔をしかめていた気がする。
それでも、あの人は誰にも弱音を吐かない。
いつもどおりでいようとする。誰にも心配をかけたくないから。
私には、そういうところが……少し、眩しくて、でも見ていられなかった。
だから——
少しだけでもいい、何かできたらと思った。
このぎこちない手でも、ほんの少しでも、何か。
私は向きを変えて、厨房へと足を向けた。
◇
厨房に立つグレイスの姿を見つけて、私はそっと声をかけた。
「……リディアさま、朝は何を飲むの?」
グレイスは眉を上げ、少し意外そうに私を見た。
声をかけてきたのが私だったからか、それとも質問の内容のせいか。
けれど、驚きの色はすぐに和らぎ、にこりと微笑んでみせた。
「こちら。温めたミルクと、蜂蜜を少し。……そうそう、怪我してるから、あまり動かないようにって、言ってあげておくれ」
優しく差し出されたカップを、私は両手でそっと受け取る。
盆の上に静かにカップを載せる。
手元に意識を集中させることで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
それでも、胸の奥には小さな波が残っている。
——これでいい。今の私にできることを、ただ静かに。
そっと息を吐いて、私は足を踏み出した。
◇
扉の前に立つと、胸の音がうるさかった。
——行かなきゃ、意味がない。
私は意を決して、そっと扉をノックする。
「……どうぞ」
返ってきた声は、昨日と変わらず穏やかだった。
扉を開けて入ると、リディアは椅子に座って、本を読んでいた。足はまだ包帯が巻かれたままだ。
「フィオ?」
彼女が驚いたように目を見開く。
私は無言のまま近づいて、盆を差し出した。
そっと机に置き、俯いたまま、声を絞り出す。
「……グレイスが、持っていって……って言ってた」
リディアは静かにカップに手を伸ばした。左腕はまだ包帯に覆われ、わずかに動かすだけでも痛みが走るのだろう。
右手だけで、そっとカップの取っ手を持ち上げる。少し不安定そうに見えたが、慎重に角度を整えて口元へ運ぶ。
その一連の動きが終わったあと、彼女はそっと私を見て、微笑んだ。
「ありがとう。とても美味しいわ」
その言葉が、胸の奥にしんと沁みた。
私なんて、ぎこちなくて、不器用で、何の役にも立っていないと思っていたのに。
——でも今、リディアは私のほうを見て、笑ってくれている。
その瞬間、胸の奥にふっと小さな灯がともったような気がした。
うまく笑い返すことも、気の利いた言葉も出てこなかったけれど——
それでも、今だけは、逃げずにこの人の隣にいたいと思った。
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