ぎこちない手

朝の空気は、ひんやりとしていて気持ちがよかった。


 私は静かに廊下を歩く。寝巻きのまま、髪もまだといていない。だけど今は、それどころじゃなかった。


 昨夜のことが、胸の奥にまだ残っている。


 リディアが、怪我をしてまで私をかばってくれたこと。

 そして、そんな彼女に向かって、私は言ってしまった。


 ——あなたが怪我したの見て……すごく、すごく嫌だった。怖かったの。


 言うつもりなんてなかったのに。あんなふうに、心の底が勝手に言葉になってしまった。


 あのあと、リディアは笑って、「心配してくれて嬉しいわ」と言ってくれた。


 そのとき胸の奥が、ほんの少し、温かくなった気がした。


 私、あの人のことを……ちゃんと、優しいと思ってる。


 ——だから、少しだけ、何かしてあげたい。


 そう思ったのは、きっと初めてだった。


 だけど——

 本当に私が行って、邪魔にならないだろうか。

 何か言われたら、何て返せばいい?

 ……そもそも、優しくなんて、できるのかな。


 でも、何もしなければ、きっとまた、何も変わらない。


 廊下を歩いていると、ふと昨夜のグレイスの言葉を思い出した。


 「お嬢様には困ったもんだよ。怪我人なんだから、寝てるのが仕事だってのに……あの方は、平気な顔して起きてきて、本を開いたり、書き物をしようとしたりするんだから」


 少し呆れたような口調。でも、その奥には、確かに心配の色がにじんでいた。


 ——無理してるんだ。


 そういえば昨日も、包帯の巻かれた足をかばいながら歩いていた。左腕は力を入れるたびに、うっすらと顔をしかめていた気がする。


 それでも、あの人は誰にも弱音を吐かない。

 いつもどおりでいようとする。誰にも心配をかけたくないから。


 私には、そういうところが……少し、眩しくて、でも見ていられなかった。


 だから——

 少しだけでもいい、何かできたらと思った。

 このぎこちない手でも、ほんの少しでも、何か。


 私は向きを変えて、厨房へと足を向けた。



厨房に立つグレイスの姿を見つけて、私はそっと声をかけた。


  「……リディアさま、朝は何を飲むの?」


 グレイスは眉を上げ、少し意外そうに私を見た。

 声をかけてきたのが私だったからか、それとも質問の内容のせいか。

 けれど、驚きの色はすぐに和らぎ、にこりと微笑んでみせた。


 「こちら。温めたミルクと、蜂蜜を少し。……そうそう、怪我してるから、あまり動かないようにって、言ってあげておくれ」


 優しく差し出されたカップを、私は両手でそっと受け取る。


 盆の上に静かにカップを載せる。

 手元に意識を集中させることで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

 それでも、胸の奥には小さな波が残っている。


 ——これでいい。今の私にできることを、ただ静かに。


 そっと息を吐いて、私は足を踏み出した。



 扉の前に立つと、胸の音がうるさかった。


 ——行かなきゃ、意味がない。


 私は意を決して、そっと扉をノックする。


 「……どうぞ」


 返ってきた声は、昨日と変わらず穏やかだった。


 扉を開けて入ると、リディアは椅子に座って、本を読んでいた。足はまだ包帯が巻かれたままだ。


 「フィオ?」


 彼女が驚いたように目を見開く。


 私は無言のまま近づいて、盆を差し出した。

 そっと机に置き、俯いたまま、声を絞り出す。


 「……グレイスが、持っていって……って言ってた」


 リディアは静かにカップに手を伸ばした。左腕はまだ包帯に覆われ、わずかに動かすだけでも痛みが走るのだろう。

 右手だけで、そっとカップの取っ手を持ち上げる。少し不安定そうに見えたが、慎重に角度を整えて口元へ運ぶ。


 その一連の動きが終わったあと、彼女はそっと私を見て、微笑んだ。


 「ありがとう。とても美味しいわ」


 その言葉が、胸の奥にしんと沁みた。


 私なんて、ぎこちなくて、不器用で、何の役にも立っていないと思っていたのに。


 ——でも今、リディアは私のほうを見て、笑ってくれている。


 その瞬間、胸の奥にふっと小さな灯がともったような気がした。

 うまく笑い返すことも、気の利いた言葉も出てこなかったけれど——


 それでも、今だけは、逃げずにこの人の隣にいたいと思った。

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