第10話 少女の思いと男の覚悟
「生きたい」と言った瞬間、すべてが静止したように思えた。
北条は、ひまりの涙に何も言わなかった。
だが、その沈黙の中に、彼は確かに“決意”を抱いていた。
数秒後、彼はゆっくりと白衣の胸ポケットから、
医療端末の小型キーを取り出した。
審査官であり、医師でもある彼にしか使えない特別なアクセス権限だった。
「これは正式な記録操作キーだ。
通常は、重篤な誤投与や、申請者の体調急変による中止処理にしか使えない。
だが、今回は例外として使う。死んだことにする」
ひまりは、はっと息を呑んだ。
「制度上、“記録上の死者”になる。
戸籍、保険、住民票、学校記録、全部消える。
誰にも知られず、誰にも気づかれず――岸野ひまりはこの世界から消えるんだ」
言葉は重い。
しかしそれでも、ひまりはわずかに震えながらうなずいた。
「それでも、生きたいの」
北条は短く頷き、端末を操作する。
自分の指紋と認証キーを重ね、処理フラグを「死亡確認済」に書き換える。
画面に並ぶログには、こう表示された。
【代理者:岸野ひまり|死亡確認:北条清志|時刻:10:07】
【遺体:特殊処理区分|所在:不明】
【搬出:外部委託済(R型分類)】
実際には遺体など存在しない。
だが、「存在しない死体」の搬出報告をつけることで、
すべては形式上完了したことになる。
***
北条はさらに、隣室の保冷室用廊下への非常ドアを開いた。
この先は、通常職員も立ち入らない。
冷却保存の試験区域を通り抜けることで、搬出トラックの出入口に直結していた。
「これを着ろ」
北条は、作業員用の白いコートとキャップを差し出す。
「搬出人員に扮して、車の後部格納庫に乗り込め。
トラックは10分後に搬出される。送り先は、委託している葬儀屋――その先で処理する手配はもう済んでる。
道中で姿を変えろ。名前も、持ち物も、全部置いていけ」
彼の声は冷たかった。
だが、その目は痛むように揺れていた。
ひまりは、コートを着ながら尋ねた。
「もう……戻れないんですね、わたし」
「“岸野ひまり”としてはな」
北条は扉の横にある黒いケースを開き、
そこから新しい身分証を一枚取り出した。
名前:三咲 結花(みさき ゆいか)
生年月日、出身地、すべてが偽装されたもの。
「これが、お前の“再出発”だ。
持ち主はもういない架空の戸籍。お前が名乗れば、誰も疑わない」
ひまりはそれを受け取り、胸に抱きしめる。
「ありがとう……」
そして、静かに言った。
「……あいなと、もう会えなくなるんですね」
北条は目を伏せた。
「この制度において、互いの生存確認は禁止だ。
下手に関係者に接触すれば、制度自体が崩壊する。
お前は“死んだこと”になった。
それが、お前を守る盾でもある」
静かな沈黙。
「だが、赤の他人が会おうが知ったこっちゃない。制度に登録のない人間は管理下にないし、もとより死んだ人間を気にしてる奴なんていないさ。」
ひまりは目を潤ませながらも、しっかりと前を見た。
「……わたし、生きて探します。
もう一度だけでいい。あの夜みたいに、あいなと笑いたい。
誰にも見つからなくても、もし奇跡があるなら、会って――ありがとうって伝えたい」
北条は何も言わず、そっと頷いた。
「行け」
ドアが開く。
ひまりは、振り返らずにその先へと足を踏み出した。
彼女の名前は、もうひまりではない。
だが――
その胸の奥には、誰にも奪えない“あの夜の笑顔”が焼きついていた。
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