第6話 二人の遺志
数時間後、ひまりの呼び出しもあった。
窓口では、さっきあいなを担当した同じ男が、まったく同じトーンで彼女の名前を呼んだ。
「岸野ひまりさん。代理者適正審査室へお進みください」
ひまりは無言で立ち上がった。
手の中に握っていた汗でふやけたハンカチをポケットに戻し、
書類の入った封筒を抱えながら、個室へと入っていく。
北条は一枚の書類に視線を落としたまま、彼女を一瞥する。
「……あなたが“代理者”になることを望んでいる、ということで間違いありませんか?」
声は事務的だったが、少しだけ、先ほどよりも静かだった。
音のトーンではない。感情の温度が、低くも温かかった。
「はい」
ひまりは、迷いなく言った。
「あなたが“代わりに死ぬ”相手は、佐原あいなさん。
あなたは彼女の意思を理解し、それを支える覚悟がある、ということでよろしいですね」
「……違います」
ひまりの返答は、北条の手を止めさせた。
「彼女の意思を“支える”ためじゃない。
あの子の“死にたい”は、ほんとうの意思じゃない。
だから、代わりに死ぬんです。
――“生き残らせるため”に」
沈黙。
その言葉は、きっと幾千人もの申請者と会ってきた北条にとっても、
初めて聞く言葉だった。
彼の口が、ほんのわずかに開いた。
何かを言おうとしたのかもしれないが、言葉にはならなかった。
「……そうですか」
北条は静かに、書類に判を押した。
「では、正式に代理者申請を受理します。
5日後、面談確認を経て、執行日を設定いたします。
その間に“自殺意思の確認”および“再意志照会”が行われます。
あなたにも、あらためて最後に“生きたいかどうか”を訊く機会が一度だけ与えられます。
それは制度上の義務であり――慈悲ではありません」
「……はい」
ひまりは、その義務の言葉を受け止めながらも、
ただ一つのことだけを思っていた。
あの子を、生き残らせる。
***
数日後。
テレビ番組では、ちょうど代理自殺制度に関する特集が流れていた。
「“死ぬ自由”と“生きる義務”が同居するこの社会で、果たして本当に“死を選ぶ権利”は正しいのか?」
そんなナレーションとともに、コメンテーターたちが茶を濁すような顔で語る。
「いやでもね、制度があるからこそ救われる子もいるんですよ」
「実際、殺人事件も減ってますしね」
「ただ、やっぱり10代の申請はどうかと……ちょっと早すぎる気がします」
当事者の声は、誰ひとりいなかった。
誰も“死にたいと言ってしまった子”と話そうとしなかった。
外では学生たちが、スマホ片手に談笑していた。
「代理申請したらしいよ、あの子」
「マジ? でもあの子ずっと病んでたし、納得」
「わたしも代理登録だけしてある~いつか使うかも」
それは、日常だった。
制度はもう“特別なもの”ではなかった。
ただの選択肢。
死の申し込み書が、コンビニのレジ袋よりも軽いという現実。
その中で、ふたりの少女だけが、その死を“ほんとうの命”として背負おうとしていた。
***
あいなとひまりは、再び病院で顔を合わせた。
制度の再意思照会面談のために指定された控室。
並んだ椅子に、ふたりは背中を丸めて座っていた。
「あのとき、ありがとう」
あいながぽつりと呟いた。
「……え?」
「“死なないで”って言ってくれたこと。
たぶん、あれ言われたの、初めてだった」
ひまりは答えられなかった。
胸が詰まって、言葉にならなかった。
代わりに、そっと自分の膝の上に置かれたあいなの手を握った。
骨ばっていて、冷たくて、それでも生きていた。
「……最後に、もう一回だけ言ってもいい?」
ひまりが、あいなに向き直る。
「お願いだから、生きて」
その言葉に、あいなは泣かなかった。
でも、手を握り返した。
その強さが、
彼女たちの中に、はじめて生まれた“本物の意志”だった。
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