第3話 少女の決意
午後の光が斜めに差し込む待合室。
人工の木目調の壁紙。ひび割れたソファ。機械的な受付音声。
空気はこもっていて、どこか湿っていた。
ひまりは、沈黙のなかで硬く座っていた。
予約時間にはまだ少しあったが、帰ろうとは思わなかった。
この空間だけは、母の声も、殴る手も、届かない。
だから、ここにいる理由は“制度”ではなく、“避難”だった。
そのときだった。
ドアの開く音、制服のすれる音。
ふと隣の列に視線を向けると、そこに座っていたのは――
佐原あいなだった。
薄いフードを被り、膝を抱えるように縮こまっていた。
前に病院で見かけたときと同じ。
でも今日は、もっと近くにいた。
鼓動が早くなる。喉が詰まる。
でも、なぜか言葉が出た。
「……こんにちは」
唐突すぎた。自分でもそう思った。
でも止められなかった。
あいなが顔を上げた。
細くて、目の下に深いクマがあって、頬は痩せていた。
でも、その瞳には光があった。まだ、消えていなかった。
「あ……前、会ったよね。病院……」
「うん。覚えてる」
ひまりは、ほんの少し微笑んだ。
あいなはうつむいて、声を落とした。
「……ここ、来るの初めて?」
「ううん。2回目」
「そっか。……わたしは、初めて。
……でも、もう決めてるから、たぶんすぐ終わると思う」
「……“決めてる”?」
あいなが一瞬黙ってから、口を開いた。
「もう、限界だから。
誰にも必要とされてないのに、毎日ちゃんと学校行って、
教室の空気吸ってるの、もうやだ。
“死にたい”って言ったら、迷惑かけるって言われるから、
せめて“ちゃんと死ぬ方法”を選ぼうって思って」
言葉の一つひとつが、棘みたいだった。
ひまりの胸の奥に刺さってくる。
でも、それは“痛い”というより、“同じ”だった。
だから、ひまりは言った。
「……死なないでって、言っていい?」
あいなが、驚いたように目を丸くした。
「……なんで?」
「理由なんて、ないよ。
でも……あなたがいなくなったら、
わたしの中に残ってた“きれいなもの”が、全部なくなっちゃう気がしたから」
「……会ったの、一回だけなのに?」
「一回だけでも、十分だった。
目を見ただけで、わかったの。
わたしと、“同じ”だったから。
この世界に“わたしの死”が残るなら、
せめて“誰かの生きる理由”になってほしいって……ずっと、そう思ってたから」
あいなは、言葉を失っていた。
声が震えていた。
何も言えずに、ただ、ひまりを見つめ返していた。
「だから……わたしが代わりに死ぬよ」
ひまりは、静かに言った。
「あなたの代わりに、“いなくなる役”を引き受ける。
そうしたら、あなたは少しのあいだだけでも、生きてていいって思えるかもしれない」
その言葉は、祈りのようで、決意だった。
あいなは、泣かなかった。
でも、口をきつく結び、震えながら頷いた。
ひまりの中で、その瞬間、何かが決まった。
それは、声に出すことで、初めて“形になった”ものだった。
「この子を生かすために、わたしの命を使おう」
それは初めて“わたしの命に意味が生まれた”瞬間だった。
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