第6話:浪速零地点
空堀防空壕跡の小さな部屋に、しんと静寂が流れていた。 雨上がりの夜、遠くで電車の走る音が響く。
証は、右肩に包帯を巻いたまま、窓辺に座っていた。 傷の痛みは引きつつあるが、胸の奥に引っかかるものは消えない。
懐飆はまだ戻っていない。
あの夜、銃声と共に全てが終わったように見えた。 だが、それは始まりだったのかもしれない。
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一、裏切りの兆し
数時間前――
懐飆は一人、難波の地下鉄構内へと降りていた。 かつて《蛇ノ目》の情報司令部があった廃ビルの下層。 今は誰も近づかない、封印された区域。
そこには懐飆が“何か”を預けた、過去があった。
「……懐かしいな」
足音が響くたび、記憶が蘇る。 幼い頃、《蛇ノ目》の養成機関で育てられた彼女は、組織の“スリーパー”だった。
感情を抑え、狙いを外さず、命令に従って人を殺す。
そんな彼女が、証と出会ってしまった。
「全部、変わってしもうた……」
懐飆はポケットから、小さな銀のペンダントを取り出す。 その中には、古びたUSBメモリが仕込まれていた。
《蛇ノ目》の全記録。潜入スパイのリスト、作戦記録、そして彼女の任務。
その任務とは──
“浪速の証人”を監視、必要あらば抹殺せよ
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二、揺れる心、雨の夜に
夜遅く、証の元へ懐飆が戻ってきた。
彼女の顔はどこか曇っている。普段のキレのある瞳は伏し目がちで、言葉も少ない。
「どうしたんや、何か……あったんか?」
証が問いかけると、懐飆は一瞬だけ笑った。
「なぁ証……うちは、なんでここまで来たんやろな」
「は? なに言うて……」
懐飆は膝をつき、証の前に座る。そして、
その瞳から、ひとすじの涙が落ちた。
「ごめんな証、うち、スパイだったんや」
証の心音が、一瞬止まったように感じた。
「……なんて?」
「ずっと、組織の命令で、あんたを見張ってた。殺すべきかどうか、判断するために。けど……あんたと撃って、あんたに救われて、気づいてしもうた」
証の視界が、ぼやけていく。 頭に血が上ったわけじゃない。 心のどこかが、壊れる音がした。
「なんで、いまそれを……」
「今やから、言えたんや。あの夜、撃たれた証を見て……うちはもうスパイには戻られへん思った」
懐飆は銀のペンダントを差し出す。
「これに、全部入ってる。《蛇ノ目》のすべて。うちはもう、あっちには戻らん」
証は手を震わせながら、それを受け取った。
「俺の“証”が、あんたのスコープの中にあったってことか……?」
懐飆は、ただ頷いた。
「でも、今は……違う」
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三、燃える記憶の焚火
その夜、二人は空堀の裏庭で、小さな焚き火を焚いた。
懐飆はそっとUSBを炎にくべた。 記録の証拠も、過去の自分も、そこで燃えていく。
「これで、全部終わりや」
「ちゃう、懐飆。これで全部始まったんや」
証は銃を構え、空に向かって一発、撃った。
──Bang!
雨が再び降り出す中、火の粉が舞った。
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四、零地点からの出発
翌朝、空堀の防空壕に新しい風が吹いた。
「懐飆、これからも一緒に撃ってくれるんか?」
「うちはもう、“誰かの命令”では撃たん。証の背中のためだけに撃つ」
「……そっか。おれも、あんたの涙のために撃つわ」
二人は、目を合わせて頷いた。
過去からの脱出は終わった。
ここから先は、証と懐飆、二人の“選んだ狙撃”の物語が始まる。
浪速の空は、今日も少し曇っていた。 けれどその雲の向こうには、確かに陽が昇っていた。
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