2話「夜の買い物と小さな申し出」

 日が落ち、街はすっかり夜の顔に変わっていた。


 マンションの窓から覗いた空には星ひとつ見えなくて、代わりに遠くの街灯が、湿った光をぽつりぽつりと投げかけている。昼間の快晴が嘘みたいな、少し肌寒い夜だった。


 咲真は、財布だけをポケットに突っ込んで、部屋のドアを開けた。


 (……冷蔵庫、空っぽだったよな)


 帰宅してジャージに着替えたあと、いつのまにか机の上に突っ伏してうたた寝していた。目が覚めたときにはもう午後7時を回っていて、空腹がじわじわと意識を引き戻してきた。


 調理器具? レトルトを温める鍋ひとつ。


 まともな食材? お茶漬けの素と乾麺、それに風味の抜けたふりかけぐらいしかない。


 (……さすがに、そろそろ買っとかないとな)


 気だるい身体を引きずって、エレベーターに乗り込む。


 こうして夜に外へ出るのは、咲真にとってそう珍しいことじゃない。誰にも気を遣わなくていい時間帯のほうが、よっぽど気楽だった。


 小さく息を吐いて、坂を上る。


 近所のコンビニの明かりが、通りの先でぼんやりと滲んでいた。人工的なその光だけが、この寒々しい世界の中で、不自然な温度を放っている。


 中に入り、慣れた手つきで冷凍チャーハンとカップスープ、焼きおにぎり、お茶をかごに放り込む。これで、二日くらいは食いつなげるだろう。


 会計を終え、レジ袋を手に持ったまま、出口へ向かう。


 ウィン――。


 自動ドアがゆっくりと開き、夜の冷たい空気が肌に触れる。


 その瞬間――


 「……八神さん?」


 聞き慣れた声が、ふいに耳に届いた。


 咲真は、ほんのわずかに立ち止まり、声のした方向に視線を向ける。


 コンビニの明かりが漏れる歩道の上に、ひとりの少女が立っていた。


 制服の上にグレーのパーカー。手にはスーパーのビニール袋を二つ。


 柔らかな髪が、街灯の明かりを拾ってふんわりと揺れている。


 七瀬眞白。


 スーパーの帰りらしい彼女が、ほんの少し驚いたような顔で、こちらを見ている。


 その瞳の揺れに、咲真は一瞬、言葉を選び損ねそうになる。


 口の中で音が溶ける。ただ、視線だけがわずかに彼女のほうを向く。


 (……マジか。なんで、こんな時間に)


 思わず、目をそらしそうになる。でも、それすら変に意識しているようで、やめた。


 彼女の視線はまっすぐ、こちらを見ていた。気まずさも、驚きも、どこか戸惑いすらもにじんでいて。


 咲真は、その全部から目を逸らすわけにもいかず――それでも、いつも通りを装うように、小さく声を返した。


 「……よう」


 咲真が軽く手を上げると、眞白はほんの少しだけ首をかしげるようにして、こちらへ歩いてきた。


「こんばんは。……こんな時間に、買い物ですか?」


「ああ、まぁ。冷蔵庫が飢餓状態だったからな」


 冗談めかして言うと、眞白は小さく目を見開き、咲真の手元にあるビニール袋へと視線を落とす。


 中身が透けて見えている。冷凍チャーハン、カップスープ、焼きおにぎり、お茶。保存と効率だけを考えた、ひとり暮らしの象徴のような品々。


 眞白はほんのわずかに眉を寄せて、静かに尋ねた。


「……もしかして、夕飯、それだけですか?」


「まぁ、それ“だけ”って言っても、十分だろ。お湯さえ沸かせれば、腹は膨れるし」


 咲真は気にも留めていない風を装って答えたが、眞白は黙ったまま何かを考えていた。


 そしてしばらくの沈黙の後、ぽつりと眞白が言った。


「………八神さん、ひとり暮らしなんですか?」


「ん? ああ。親が忙しくて、俺だけ先にこっちに住んでる。まぁ、自由だけど……食事とかは、完全に自己責任って感じだな」


 軽口のように言いながらも、その実、どこか投げやりな響きを帯びていた。


 けれど、眞白の目はその裏側をちゃんと見ていた。


 咲真が見せた“どうでもいい”という態度の奥に、ほんの少しだけ隠れていた疲れや、乱れた生活の気配に――彼女は、真っ直ぐ目を向けていた。


 そして、意を決したように言った。


「……よければ、私が何か作りましょうか」


「……は?」


 不意にかけられたその申し出に、咲真は素っ頓狂な声を漏らしていた。


 けれど、眞白の顔は冗談じゃなかった。


 きちんとこちらを見つめたまま、ほんの少しだけ、視線を伏せて――それでも、真剣に言葉を継いだ。


「八神さん、その袋を見るにちゃんとしたもの食べてないですよね?」


「いや、別に困ってるわけじゃ──」


「わかってます。でも……」


そこで一拍、眞白は言葉を切った。


 その間に、何かを押し出すようにして。


「……私、あのぬいぐるみを直してくれたこと、今でもずっと感謝しています。傘のことも。あの時、本当に、助けられたんです」


 咲真にとっては、ただの偶然の流れでやったことだった。


 でも――彼女にとっては、そうじゃなかった。


 それが、今の眞白の声の張りつめた強さから、痛いほど伝わってきた。


「だから……ほんの少しだけ。私にも、何かさせてください」


 (……マジかよ)


 咲真は内心で、静かに息を飲む。


 どこまでが彼女の「義務感」で、どこからが「気持ち」なのか、正直わからない。


 だけど、ひとつだけ――はっきりしていることがあった。


 彼女は、本気で言っている。


 まるで使命のように。でも、それだけじゃないような、柔らかい熱がその目に宿っていた。


 「……いや、でも。悪いって。さすがに、そこまでさせるのは……」


 「いいえ。させてください」


 まっすぐな言葉だった。


 言い訳を許さない。だけど、どこかに優しさを含んだ、真剣なまなざし。


 咲真は、返す言葉を失って、しばらくの間そのまま眞白を見つめていた。


 夜のコンビニ前。


 虫の音と、街の遠くのざわめきが、静かに耳に染みる。


 断る理由は、いくらでもあった。けれど、それ以上に、断ったらきっとこの真摯な気持ちを踏みにじってしまう――そんな予感があった。


 だから咲真は、ほんの少しだけ視線を逸らして、ポツリと口を開く。


「……まぁ、その、あれだ。部屋の汚さに目を瞑るって前提なら」


 その一言で、眞白の表情が、わずかに緩んだ。


 それは、どこか安心したような、けれどほんの少しだけ照れたような、咲真が初めて見る“素の笑み”だった。


「……ありがとうございます」


 その小さな声は、夜の空気にすっと溶けていった。


 そして、咲真は思う。


 たった今のこのやり取りで、今夜の買い出しが――ほんの少しだけ、意味のあるものに変わった気がした。



♦︎♢


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