3話「クール系美少女の手作り料理」
夜の住宅街は静かだった。
遠くで車のエンジン音が低く響くだけで、人の気配はほとんどない。冷たい風が、街灯の下に落ちる落ち葉をさらさらと転がしていく。
坂道を並んで歩くふたり。咲真のビニール袋が時折揺れて、かすかにカサリと鳴る。
少し前を歩く眞白が、ふと立ち止まり、首をかしげたようにして振り返った。
「……料理を作る場所ですが、どちらの家にしましょうか?」
その問いに、咲真は少し戸惑うように足を止めた。
(七瀬の家、っていうのは……さすがに気まずいな)
女子の部屋にずかずか踏み込むのも違う気がする。かといって自分の部屋も、あまり“招ける状態”ではない。そんな葛藤を押し込めながら、視線をそらして答えた。
「俺んとこでいいよ。そっちに行くのも、なんか悪いし」
眞白は数秒ほど沈黙したあと、小さく頷いた。
「……そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
ただその一言のあと、彼女はそっと視線を落とした。咲真には見えない小さな深呼吸。――男子の部屋に行くことに対して、緊張していないわけではないのだろう。
ふたりの歩幅が自然と揃い、再び夜の道を進む。
途中、咲真がふと思い出したように口を開く。
「で、何を作る予定なんだ?」
視線は前を向いたまま、探るような声。
眞白はきゅっと唇を引き結び、小さく笑って答えた。
「それは……着いてからのお楽しみです」
「マジか。ヒントもなし?」
「ダメです」
言葉はそっけないのに、声にはどこか楽しげな響きが混じっていた。咲真はそれに気づき、少しだけ口元を緩めた。
やがてマンションに着き、無言のまま階段を上る。部屋の前に立ち止まり、咲真はポケットから鍵を取り出す。
鍵を取り出した咲真は、一瞬だけ無言になった。
(……そういえば、あんま見せられる部屋じゃなかったな)
一瞬のためらいのあと、鍵を回してドアを開ける。
カチャリと音を立てて開いた先、そこには「男子高校生の一人暮らし」らしい雑然とした空間が広がっていた。
玄関には脱ぎっぱなしのスニーカーとサンダル。
キッチン脇には使ったままのマグカップが2個、流しに放置され、シンクには何枚かの皿が積まれている。
リビングスペースの端には、洗濯物の山。干しかけのシャツやタオルがくたっと寄りかかっていた。
部屋の隅にはゲーム機と絡まったコード、床には読みかけの雑誌と未開封のダンボール。カーテンは半開きで、夜の明かりが斜めに差し込んでいた。
「……悪い、ちょっと足の踏み場が……いや、あるにはあるか」
咲真は慌てて洗濯物をひとまとめにし、雑誌を片足で部屋の隅に蹴りやる。どこから手をつければマシになるのかすらわからない部屋の有様に、自分でも思わず苦笑いしてしまう。
眞白はそんな咲真の様子を無言で見つめていたが、やがてふっと、微笑んで言った。
「……想像していた通りの“八神さんらしい”部屋ですね」
「それ、褒めてんのか?」
「さあ……どうでしょうか」
からかうような視線に、咲真は頭をかきながら「いや、ほんとごめんって」と低く呟く。
眞白はお構いなしに靴を脱ぎ、そっと部屋の中に上がり込んだ。
「キッチン、お借りしますね」
手慣れた様子でスーパーの袋を台の上に置き、材料をひとつひとつ取り出し始める。
咲真はテーブルの隅に腰を下ろし、眞白の後ろ姿を眺めると、やはり現実味がなく、どこか不思議な気持ちになっていた。
野菜を丁寧に洗い、包丁を握る眞白の手には、無駄な動きがひとつもない。
白く細い指先が水に濡れてきらりと光る。ふと揺れた髪から、ほのかに石鹸の匂いが漂った。
(……なんなんだろう、この感じ)
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
静かな夜の空間の中、包丁の音だけがリズムを刻んでいた。
その音が、なぜだかとても優しく感じられた。
咲真はふと、キッチンカウンターの上に目をやる。
そこには、ニンジンと玉ねぎ、そして見慣れないスパイスの瓶が並べられていた。
「……これ、何に使うんだ?」
何気なく訊いたつもりだった。
眞白は、手を止めることなく淡々と答える。
「……それも含めて、秘密です」
その口ぶりには、どこか余裕のあるいたずらっぽさがにじんでいた。
「全然分からないな……」
咲真がぼやくと、眞白はくすっと小さく笑いながら、包丁を再び動かし始める。
今ここにある静かな空間が、ひどく優しいものに思えてならなかった。
咲真が何気なく視線をキッチンに戻すと、眞白の手元に新しい材料が置かれていた。
鶏肉のパック。
鍋に火をかける傍ら、眞白はそれを丁寧に開けて取り出すと、無駄な動きなく包丁で余分な脂を落とし、ひと口大に切っていく。切り口はまっすぐで、包丁の刃がまるで水を切るかのように滑らかだった。
切った鶏肉はボウルに移し、そこへ酒と醤油、それにおろし生姜を加え、手際よく揉み込んでいく。
(……やっぱり、味付けの感覚が「慣れてます」感満載だな)
咲真はぼんやりと見ていたが、どの工程も迷いなく進んでいくことに気づいて、少し驚いた。
さらに隣のコンロでは、別の鍋にお湯が湧いている。眞白はそこで小松菜をさっと茹で、冷水にとって鮮やかな緑を残すように色止めをし、それをまな板の上で数センチ幅に揃えて刻む。その手つきは、まるで寸法まで頭に入っているかのように正確だった。
刻んだ小松菜は、あらかじめ湯通ししておいた油揚げと一緒に、だし醤油で軽く和えられる。
(……おひたしってやつか?いや、わかんねぇけど)
咲真は食材の名前すら一部あやしいまま、ひたすらに料理工程を追っていた。
野菜の切り方すら分からずに眺めている自分が、妙に情けなく思える。
そんなとき、鍋に浮かぶ柔らかなオレンジ色が目に留まる。
「……にんじんか」
「そうですね」
眞白はそう答えたきり、それ以上は言わなかった。咲真が覗き込もうとしても、手際よく蓋をかぶせてしまう。
「中身、マジで内緒なのか?」
「はい。スパイスの香りで分かっちゃうかも知れませんけど」
咲真はカウンターの隅に置かれた、見慣れない瓶を見た。ラベルは英語で書かれていて、読めそうで読めない。
(カレー……じゃねえよな。甘い匂いがするし)
とにかく正体が見えてこない。香ばしくて、どこか懐かしいような匂いだけが、じわじわと部屋に満ちていく。
そんな最中、不意に眞白が振り返った。
「……すみません、ちょっと部屋に戻ってもいいですか?」
「ん?部屋って自分の?」
「はい。……使いたい調味料があって。少しだけでいいですか?」
「冷蔵庫にある分で足りると思ったんですけど……やっぱり、ちゃんと仕上げたいので」
彼女の真剣な目に、咲真は思わず頷いた。
「分かった。行ってらっしゃい」
「火、弱めにしておいてくださいね」
咲真がコンロのつまみをひねると、眞白は静かに部屋を後にした。
――残された部屋には、食材の匂いと、煮込みの音だけが残る。
咲真はふと、蓋の隙間からスープを覗き込む。とろりと濃度のある液体が、淡いオレンジ色に揺れていた。小さく刻んだ玉ねぎとにんじんが、じっくり煮込まれて溶けはじめている。
(なんだろうこれ……スープって言ってたけど)
香りは優しくて甘い。でも、使っているスパイスはどこか異国風で、何が出てくるのかまったく想像がつかない。
数分後、鍵の音がして、眞白が戻ってきた。
「お待たせしました」
彼女の手には、小瓶に入った琥珀色の香味オイルと、陶器の容器に入った粗めの岩塩。
「……それが“仕上げ”?」
「はい。これがないと、味がぼやけちゃうんです」
オイルをほんの少しだけスープに落とし、岩塩を小さく砕いて何かのタレに溶かす。
フライパンでは、じゅわっと音を立てながら鶏肉がタレに絡められ、つややかな飴色に仕上がっていく。
(……めっちゃうまそうだ)
咲真がぼんやりとその光景を見つめているうちに、眞白は料理を器に盛りつけていった。
「お待たせしました。どうぞ、召し上がってください」
そう言いつつ、作った料理を説明付きでテーブルに置いていく――
彼女が作った料理は、キャロットスープに皮目がこんがり焼かれ、甘辛いタレがからんだ鶏の照り焼き。そして、彩りも鮮やかな小松菜と油揚げのおひたしだった。
どれもまだ湯気を立てていて、皿の上にやわらかな温もりをまとっている。
夜の空気が少し肌寒いぶん、その光景はよりいっそうあたたかく、咲真の目に映った。
「……い、いただきます」
箸より先に手を伸ばしたのは、スープのスプーンだった。
オレンジ色のスープは、トロリとした舌触り。ひと口すくって口に含むと、やさしい甘みとほのかなスパイスの香りが、ふわりと広がった。
ニンジンの自然な甘さがまろやかで、野菜特有の青臭さはまるでない。玉ねぎの風味と、あの見慣れなかったスパイスがふんわりと下支えしていて、口の中にやさしく余韻を残していく。
「……うまっ」
反射的に、声が漏れた。
眞白が少しだけ、恥ずかしそうに目を伏せて笑う。
「よかったです。……隠し味、効いてますか?」
眞白の問いかけに、咲真はゆっくりと頷く。
「あぁ。身に沁みるくらいな」
その“沁みる”という言葉に、自分でも驚くほどの実感がこもっていた。
スプーンから箸に持ち替え、手を伸ばしたのは鶏の照り焼き。
箸で持ち上げた瞬間、皮の表面がぱりっと音を立てる。
しっかり焼きつけられた皮目は、焦げつく寸前の香ばしさを残しながら艶やかに輝き、肉の断面からはじんわりと熱が立ち上っていた。
ひと口噛むと、表面の香ばしい食感に続いて、ジューシーな鶏の肉汁がじゅわっと広がる。
甘辛いタレが絶妙に絡んでいて、醤油のコクと砂糖のまろやかさ、生姜のほんのりとした香り、そしてたった一滴加えられた香味オイルが、後味に品のある深みを加えていた。
「いえ。家の味、です。母がよく作ってくれて……でも、少しだけアレンジしました」
「アレンジ?」
「仕上げに香味オイルを使ってます。あと、タレにも少しだけ白ワインと岩塩を入れてます」
真面目に答えるその声を聞きながら、咲真は何も言わず、もう一切れ口に運んだ。
最後に箸をつけたのは、小松菜のおひたし。
きちんと水気を切った小松菜の緑と、油揚げの淡い黄金色が、深皿の中でやさしく寄り添っている。
箸で口に運ぶと、まず小松菜のしゃきっとした歯ごたえがあり、続いて油揚げがだしを含んでじゅわっと広がった。
口の中が一気に落ち着いて、体温がほんの少しだけ上がるような感覚。
(……本当に、ちゃんとした“ごはん”だな)
気がつけば、食べる手が止まらなくなっていた。
味も香りも、食感も、温度も。
どれもがばらばらに主張することなく、ひとつのまとまった“食事”として存在していた。
「……なんか、すげぇな。料理って、こんなに……沁みるもんなんだな」
ぽつりとつぶやいた咲真の言葉に、眞白は小さく微笑んで言った。
「それは……私も同じことを思ってたんです。最初に、あのぬいぐるみを直してもらったときに」
その言葉に、咲真は思わず箸を止めて、彼女の横顔を見る。
彼女が作ったのは、ただの料理じゃない。
“ありがとう”の気持ちと、“沁みる”優しさが込められた、言葉の代わりの贈り物だった。
(……こんなに、ちゃんとした時間が俺の部屋に訪れる日がくるなんてな……)
咲真は、湯気がふわりと立ちのぼるテーブルの上を、もう一度見つめ直した。
♦︎♢
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