1話「お礼」
次の日の放課後。
空は昨日とうって変わって晴れていた。雲ひとつない青空が広がっていて、濡れた地面が太陽に照らされて、まぶしく光っている。
咲真は、マンションへと続く坂道をいつも通りの歩調で下っていた。肩にかけたカバンが少し重い。けれど、それ以上に頭の片隅に引っかかっていたのは――昨日、眞白に貸したあの傘のことだった。
(まぁ、普通に返ってくるとは思うけどな)
七瀬眞白。
彼女は、そういうところに妙に几帳面そうな印象がある。誰かに迷惑をかけたり、借りたままにしたり、そういう「他人との関係の綻び」に、彼女は誰よりも敏感に見える。
だからこそ、他人との距離感にも、変に正直というか、境界線を厳格に引いているような印象がある。
……それが、誰かとつるむことすらできない理由なんじゃないかとも、昨日の様子から思った。
「ま、別に返してもらえなくても困りはしないけどな。──高かったわけでもねぇし」
と、口に出してみたものの、それが気にしている証拠だと自覚して、内心で苦笑した。
そうしてマンションのエントランスが視界に入ったときだった。
その前のベンチに、見覚えのあるふわふわの髪が見えた。
眞白だった。
彼女は、制服姿のまま、エントランス脇のベンチに座って、カバンの上に傘を載せている。どこか所在なさげに足を揺らしていて、遠くから見ればまるで「待っていた」みたいな光景だった。
(……嘘だろ。まさか、俺を待ってたわけじゃないよな)
咲真はほんのわずかに足を緩め、それでも気づかないふりをして通り過ぎようとした。
そのとき、彼女の方から声がかかった。
「……お隣さん。いえ、八神さん」
その声音は、いつもの冷静なものとは少し違っていた。
やや緊張をはらんだ、だけど真っ直ぐな響き。
咲真が立ち止まると、眞白はゆっくりと立ち上がる。
「……あの、傘、ありがとうございました」
差し出されたそれは、昨日貸したままの黒い傘だった。きれいに乾かされていて、まるで新品のようだ。
「濡れてしまっていたので、乾かしておきました」
「いや、そこまでしなくてもよかったのに。……サンキュな」
受け取った傘は、几帳面なほどに丁寧にたたまれて、まるで新品のようだった。持ち手の部分も、昨日より滑らかに感じる。彼女の性格がとても出ていると思った。
(……几帳面、というよりは、たぶん……真面目なんだろうな、こういうところ)
ふと目を上げると、眞白はどこか言い淀んだように、唇を少しだけ開きかけて――また、そっと閉じた。
「それじゃ……」
咲真は軽く傘を受け取って、会釈ひとつでその場を離れようとする。
このあたりが、自然な距離感だ。これ以上深入りするべきじゃない。
そう思って一歩、足を動かした――そのとき。
「……あの」
背中から、もう一度声がかかった。
「その、少しだけでも……ご一緒できませんか?」
咲真はゆっくりと振り返った。
眞白は、手のひらを胸の前でそっと重ねて立っていた。その姿は、どこか居心地悪そうで――でも、ひたむきだった。
「……昨日の、ぬいぐるみのこと。ちゃんとお礼をしたいんです」
「お礼なんて、別にいらねぇよ。拾っただけだし」
「でも……とても感謝をしているので」
言葉に飾り気はなかった。
でもその瞳には、まっすぐな誠意が宿っていた。
(……マジか)
咲真は、心の奥がじくりとざわつくのを感じた。
眞白のことが、別に嫌なわけじゃない。ただ、こうして距離が近づくことで、今までの絶妙な無関係が崩れていくのが、怖いのだ。
でも。
断ったら、この真っ直ぐな気持ちを、踏みにじってしまう気がした。
彼女は、ただ真面目に、ちゃんとした気持ちでお礼を言いたいだけなんだ。
……無碍にはできなかった。
「……マンションの中、だけだぞ」
それが、咲真にできた精一杯の“線引き”だった。
眞白は、ほんの一瞬驚いたように目を瞬かせてから――小さく、でも確かに微笑んだ。
「はい。マンションの中だけで、十分です」
その笑みは、あまりにも自然で。
昨日までとは少し違う、やわらかな表情が、そこにあった。
エレベーターの前に着くと、ふたりして無言でそのボタンを押した。
そして、数秒後。
カチャン、と音を立てて、ドアが開く。
エレベーターのドアが、静かに閉まった。
咲真と眞白。
隣の部屋同士の、同じ制服を着たふたりが、今、狭い箱の中で並んで立っている。
カタン。
床がわずかに揺れ、上昇が始まる。
それと同時に、エレベーター特有の密閉された静けさが空気を包んだ。
音は少なかった。
ごくかすかなモーター音と、誰かの小さな呼吸の音――それだけ。
咲真は、階数の表示をぼんやりと見上げながら、沈黙に身を委ねていた。
気まずいわけじゃない。ただ、無理に話す必要がないだけだ。
そういう時間が、意外と嫌いじゃないことに気づいていた。
(……静かだな)
耳の奥で、自分の鼓動が淡々と響いている。
ドクン、ドクン、と規則的に、落ち着いたリズムで。
ふと隣に目をやると、眞白は少し背筋を伸ばして、前を見つめていた。
表情はいつもの通り、静かで整っている。だけど、何となく肩の力が抜けているようにも見える。
距離は遠かった。
咲真と眞白は、お互いに両脇にそれた場所にいる。
けれど、不思議と彼女を遠くには感じなかった。
(こうして見ると、なんか……やっぱ綺麗なやつだよな)
ふと、そんなことが脳裏をよぎる。
以前の彼女からは、こんな風に隣に立たれる光景なんて想像できなかった。
交わした言葉も数えるほど。
会えば軽く会釈をするだけで、それ以上踏み込む理由も、踏み込ませる隙もなかった。
けれど今、こうして同じ空間で立っている。
まるで長いこと同じ場所にいたような、不思議な感覚さえあった。
沈黙は続いていたが、それは悪いものではなかった。
風がない、秋の昼下がりのように、どこか落ち着いていて、満たされていた。
やがて、八階のランプが点灯し、“チン”という電子音が鳴る。
咲真は、静かに一歩を踏み出した。
小さな動作が、この空間の時間をやわらかくほどいていくような気がした。
そのすぐあと、眞白もまた足を動かす。
無言のまま、二人並んでエレベーターを降りる。
言葉はなかった。
けれど、そこには確かに「何か」があった。
――沈黙のなかに、言葉よりもしっくりくる、空気のような繋がりが。
廊下は静まり返っていた。
窓から射し込む夕日が、壁に淡い橙を描き出している。
その光のなかを、ふたりは並んで歩いた。無言のまま。
やがて、それぞれの部屋の前へと辿り着く。
咲真が自分のポケットから鍵を取り出しかけたとき、隣から、そっと声がかけられた。
「……あの」
小さな声だった。
それでも、まっすぐ届いてくる音だった。
咲真が振り向くと、眞白は鞄を両手で抱えながら、すこしだけ目を伏せて立っていた。
夕日の光がその髪を淡く照らして、金色に滲ませている。
「改めて……昨日は、ありがとうございました」
少しだけ、息を吸って――続ける。
「ぬいぐるみも、傘も……本当に嬉しかったです」
その言葉に、飾り気はなかった。
ただ、静かな誠実さだけが、真っ直ぐに宿っていた。
咲真は、少しだけ視線を逸らして、肩を竦める。
「別に、大したことじゃないって。……ただの流れだしな」
「でも……私にとっては、すごく大きなことでした」
それきり、ふたりの間にまた、少しの沈黙が落ちる。
咲真は扉の前に立ったまま、内心で思う。
(不思議な子だよな、ほんと……)
ぬいぐるみ一つで、ここまで丁寧に礼を言ってくれるやつなんて、今まで見たことがない。
……でも、だからこそ。
こんな風にきちんと向き合われると、下手に突き放すのもためらわれる。
「じゃあ、……また」
咲真がそう言いかけたときだった。
「……ま、また、明日……」
先に口を開いたのは、眞白だった。
けれどその言葉の途中で、少しだけ声が詰まる。
目を逸らしながら、小さく口元に手を当てるようにして、照れ隠しのように笑った。
その仕草に、咲真は少しだけ目を見張る。
眞白が笑った――それだけで、なんだか今日一日が不思議な色を持ったような気がした。
「……ああ、明日な」
咲真もそれに応えるように、ほんの少しだけ、口元を緩めて見せた。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
部屋に入る直前、ちらりと隣を見ると、眞白もまた、自分の鍵を取り出していた。
その姿を背に、咲真は部屋の扉を静かに閉じた。
廊下の向こうに、まだ残る気配。
――妙に、それが、心地よかった。
♦︎♢
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