プロローグ後半「ぬいぐるみの落とし物」
「何か……ご用ですか?」
「いや、別に。でも、こんな雨の中に佇んでいたら気にもなるだろ??」
眞白の声は、雨に溶けるようにか細かった。
「まぁ、そうですよね。でもお気になさらず。私は大丈夫なので」
その“私は”の言い回しが、どこか他人事みたいに聞こえた。
自分のことを語るときの口調じゃない。まるで、傷を見せたくない人間が、丁寧に距離を取ろうとするときの喋り方。
咲真は少しだけ眉をひそめて、でもそれ以上は踏み込まなかった。
(やっぱ、何かあるよな)
何か事情がありそうなのは明白で、関わってくるなという境界線の現れに、咲真はこれ以上彼女の深淵に踏み込む気はなかった。
立ち去ろうとして、思い出す。
ぬいぐるみのことについて、少しばかりは聞いてもいいだろうか。
もしかしたら、落とし主が彼女の可能性だってあるわけで。
咲真は、カバンの中から例のビニール袋を取り出して、彼女に聞く。
「なぁ、このぬいぐるみ、見覚えないか?」
袋の中のクマを見た瞬間、眞白の瞳が明らかに揺れた。まるで、押し殺していた感情の蓋が、少しだけ開いたみたいに。
淡い浅葱色の瞳が、袋の中を見たまま動かない。
「……どうして、それを」
かすれるような声が、雨音に混じってこぼれた。
「ゴミ捨て場の近くに落ちてた。雨に濡れて、ぐしょぐしょだった。……捨てられたもんじゃないと思ったから、拾った。見たところ手作りっぽいし……君のか?」
眞白は、小さく、でも確かに頷いた。
やっぱりそうか、と咲真は内心で息をつく。
咲真の胸の奥に、ふっと温かい何かが灯る。
やっぱりそうか。あのとき拾ってよかった。
──いや、違うな。
よかったのは、このクマがちゃんと、戻るべき場所に戻れたってことだ。
咲真は彼女に近づいて眞白を自分の傘に入れると、ビニール袋を彼女に差し出す。
「……これ、返すよ」
そう言って差し出した袋を、眞白はそっと受け取った。
その指先が、小さく震えていた。
袋の口を開け、ハンカチを解く。その動作はやけに丁寧で、慎重で……まるで壊れものを扱うようだった。
そして、クマのぬいぐるみがその手の中に現れた瞬間。
「……っ」
声にならない音が、唇から漏れた。
けれど、涙は流さなかった。
咲真は、その表情をまっすぐ見ていた。
普段の眞白なら、こんな表情は絶対に見せない。
直感的に──そう思った。
なのに今、彼女のその顔には、言葉にできないほどの何かが浮かんでいた。
喪失か、後悔か、それとも……もっと複雑な感情か。
けれどそれらは、ほんの一瞬のうちにまた深く沈んでいく。
咲真はそっと言った。
「……勝手に、直した。縫い目、変だったらごめん」
何か言われないかが気に掛かり、咲真は視線を逸らした。
母親に教わったとはいえ、自分のやったことを褒めてほしいわけじゃない。ただ、あのクマが――もう一度、誰かの手の中で笑ってくれたらそれでいいと思った。
眞白は、クマを胸に抱いたまま、小さく呟いた。
「……ありがとうございます」
その声は、かすれて震えていた。
だけどそのひとことには、どんな言葉よりも重たい想いが込められているように感じられた。
その声を聞いた瞬間、咲真の胸の奥が、じんと熱くなった。
たったひとこと。それだけでよかった。
それだけで、今日という日の意味が決まった気がした。
……ふと、眞白がひしゃげた傘を拾って歩き出そうとしたのを見て、咲真は一歩前に出た。
そして、無言で彼女の肩に傘を差し出す。
「おい、これ。使えよ。そのひしゃげた傘と交換だ」
眞白が驚いたようにこちらを見る。
「……でも、お隣さんが濡れてしまいます」
「平気。俺、風邪とかひかないタイプだから。バイト先近いし」
「……そういう問題じゃないですけど」
そう言いつつも、受け取らなかったわけじゃなかった。
少しだけ、眞白の口元が緩んだ気がした。
雨音は相変わらず強かったけれど、不思議と冷たくはなかった。
ほんの少しだけ、ふたりの間にあった境界線が、滲んでいくような気がした。
ぺこりとお礼をして、彼女はマンションの入り口の方へと消えた。
奇妙な縁はこれでおさらば。彼女と関わるのはこれっきりだ。
バイト先に向かう咲真はそう思っていた。この時は。
─────────────────────
あとがきです(後から付け加えました)
皆様、はじめまして。五月雨ゆめと申します。
まず、たくさんの方に読んでいただいて、とてもびっくりしてします。
他の方にも紹介してくださったりとか、作品のフォロー、☆評価、感想、応援評価してくださりありがとうございます。
とても励みになっています。
また、作品を評価してくださった方一人一人、お名前を拝見させて頂いています。
これから、様々な出会いと出来事を通して、咲真と眞白の距離が近づいていく様子を描くことができたらいいなと思っています。
また、何処かのあとがきでお会いできたらなと思います。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます