【第三章 喪失の村と記録の灯】
山裾に張りつくような小さな村だった。瓦屋根と炭焼き小屋。刈り取り前の麦畑が陽を受けて金色に揺れる。軒先の洗濯物も風に翻るが、布が擦れる微かな音さえ届かない。空気が異様に静まり返っていた。
「人気が……ないな」
エリアスがつぶやく。背後のリリアは浅く頷いた。
「昨夜、この村が焼け落ちる未来を視ました」
「その未来を止めに来た、というわけか」
「はい。ただ――変わった“後”なのか、まだ“前”なのか、確証はありません」
リリアは小鏡をローブの下にしまう。表情は淡いが、瞳の奥に火種のような意志が灯っている。
* * *
広場の中央に石造りの井戸があった。
その縁に背を丸めた老女が腰を掛け、旅人を眺めている。しわ声は意外なほど朗らかだった。
「旅のお方かい?」
リリアは丁寧に頭を下げる。
「昨日、何か変わったことはありませんでしたか」
「火薬の匂いがね、風に乗ってきたんだよ。戦が来るかと思って子どもたちを井戸裏へ隠したのさ。……だけど不思議なものを見つけてねえ」
老女は小袋から厚い手帳を取り出し差し出した。
「井戸の底に沈んでいた。誰がどうやって入れたものか、さっぱりだよ」
リリアがページをめくると、墨色の筆跡が現れた。まぎれもなく自分の字――しかし記憶にない。
《北から山賊が来る。夜半に火を放つ。子どもを井戸裏へ。水桶を三つ、広場へ》
最終行には震える文字でこうある。
《私はこの村を覚えていられない》
リリアはそっと本を閉じ、灰色の空を仰いだ。胸に湧くのは誇らしさでも悲しみでもない、輪郭の曖昧な痛み。
背後でエリアスがその横顔をじっと見つめる。
「救った事実が残る彼女。俺に残るのは斬り跡だけだ――」
砦を焼いた炎がエリアスの脳裏に照り返す。仲間の断末魔、雨に溶けた罵声――亡霊の声が耳朶を噛む。
老女が淡い麦わら色の瞳でふたりを見比べた。
「助かったよ。書いたのは嬢さんかい?」
リリアは小さく笑った。
「覚えていないんです。でも、未来は変わったのでしょう」
「記憶が消えても記録が残る。それは君の証だ」
エリアスの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
リリアが視線を上げる。
「なら、あなたも」
「俺が?」
「あなたが信頼を失うたびに理由を書き留めてください。斬らずに済んだ夜も、斬るしかなかった夜も。――その記録が誰かを守るかもしれない」
腰の黒剣がわずかに赤い脈を打つ。〈書けば力が鈍る〉と幻聴が囁く。
エリアスは苦笑した。
「そんなことをしたら、俺の剣はただの鉄片になる」
「鈍い剣でしか守れない人もいます」リリアは静かに返す。
* * *
老女に案内され、二人は井戸の石段を降りた。澄んだ水面の上、壁に子どもの落書きが残る。焚き火の火花、麦の穂、そして拙い『ありがとう』の字。
喉が詰まる。誰かを守った証が石壁に宿っている。斬り捨てた夜の血痕とは違う、温かな痕跡だ。
夕刻、麦畑が傾きかけた陽光を浴び金の海になる。
リリアは手帳の最後のページを開き、震えのない筆致で一行を書き残した。
《私がここにいた証を、どうか灯し続けて》
乾き切る前に風がページをめくり、インクは斜陽を弾いて小さな灯のように揺れた。
出発のとき、老女が掌ほどのメモ帳を差し出した。
「紙は余ってるよ。書き残して燃やすも良し。誰かが読むも良しさ」
山道へ入る頃、夕焼けが剣の鞘を朱に染めた。
エリアスは立ち止まり、その小さな帳面を開く。
《斬らずに守れた村――名前を忘れないでおこう》
書き終えると、剣の脈動がかすかに鎮まった。救った痕跡が自分の手で刻まれた事実に、戸惑いと安堵と微かな羨望が混ざる。
リリアが振り返り問いかける。
「書きましたか?」
「……ああ。最初の一行だ」
「剣は?」
エリアスは鞘を軽く振った。
「まだ文句を言ってる」
リリアは微笑む。笑顔の理由を考え、エリアスは目を逸らした。救った事実が残る彼女と、残らなかった自分――その境目が、ほんの少しだけ滲んでいく。
* * *
胸の奥で火が灯る音がした。リリアは鏡を取り出し、囁く。
「彼は、今……どこ?」
水面のように揺らいだ鏡に、灰に染まる廃町と黒い剣の影が浮かぶ。顔は見えなくても心が告げる――彼は生きている。
像が消え、胸の火は熾から炎へ変わった。理由が砕けてもいい。記憶が欠けてもいい。救いたいという意志だけは、本物だ。
手帳を開き、震えのない指で記す。
> 私はリリア・アーヴェント。未来を視る者。
理由を忘れても、意志を忘れない。
誰かを救うために視る。たとえこの名をふたたび失っても。
余白に追記する。
彼が今日も、この世界で息をしているように。
インクが乾く前に目頭が熱く滲む。しかし涙はこぼれない――出し方を思い出せないだけだ、と自分に言い聞かせる。
* * *
麦畑を越え、二人は夕闇に向かって歩き出す。風が頬を撫でるたび、エリアスは背中の帳面の重さを確かめた。そこに刻む次の行が「斬った理由」か「斬らなかった証」か――まだわからない。
だが、書く場所はできた。そして、未来を変える誰かが隣にいる。
焔色の空に最初の星が点る。それは、記憶を失っても消えない灯火のように、小さく、しかし確かに輝いていた。
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